代替品

 十八歳の頃、大学入試を経て、僕は東京の大学へと進学した。

 地元から家族で車で移動し、下宿先のアパートで一日引っ越し準備を行った。

 帰宅していく家族を見送った最初の夜。僕は早速、今で言うホームシックに似た寂しさに囚われて、一人泣きそうになりながら眠りについた。


 新天地での生活への不安。

 かつての生活とのギャップ。

 しばらくは、そんな不安定な感情での生活が続いた。

 

 転機は、彼女との出会い。


『あら、入部希望者?』


 僕と明美は、研究棟からそれなりの距離を歩いた先にある薄汚い天文学部の部室で出会った。

 僕は十八歳。

 彼女は十九歳。


 僕と彼女は、一学年の先輩後輩関係だった。


 初めから彼女に対する強い感情があったわけではない。

 ただ、家族以外の人との生活。部員仲間との生活。それを彩ってくれる一人。それくらいの認識だったのだ。

 だから、彼女が大学を卒業した時も。その後も。


 ただの部活仲間。

 それ以上でもそれ以下でもない僕達が、それ以上の関係になることはなかった。


 再会を果たしたのは大学の文化祭。

 社会人になり三年程経ち、少しだけ僕の中で余裕が生まれた時のことだ。


『清水君? 久しぶりじゃん』

 

 OB会会場の食堂にて、彼女は気さくに僕に話しかけてきた。

 元々、大学時代の友達と再会を果たすためにやってきた文化祭。


 僕達は、話の流れでその日の晩、一緒に過ごすことになったのだ。


 どうしてか、明美以外の天文部のOB、OGとは別行動での夜だった。


『清水君、前よりずっと大人っぽくなったよね』


 大学最寄り駅の前の居酒屋に、僕達は入店して話し合っていた。

 他愛のない話だ。

 社会人生活での愚痴。文句。

 冬に近づき冷え性が辛くなってきたこと。


 そして……。


『へえ、じゃあ先輩。彼氏さんと別れたんですか』

 

 気まずそうな、明美の微笑の理由。

 おぼろげな記憶が蘇ってきた。


 どうして今まで、忘れていたのだろうか。


『そう。いきなり別れようって』

 

『酷いですね……』


『そんな悪く言わないであげてよ』


『一方的に別れを告げられたのに、まだ情があるんだ』


『そんな簡単に割り切れるもんじゃないよ』


 どうして今まで、思い出せなかったのか……。


『その彼は、どんな人だったんですか?』


『そうだなぁ……』


 明美は、顎に手を当てて、考える素振りを見せた。


 そして、


『君みたいな人だった』


 また、彼女は微妙な笑みを浮かべるのだった。


 それからの話はトントン拍子に進んでいった。

 彼女は世話好きで。僕はものぐさで。


 献身的な彼女に支えられるダメダメな男。

 客観的に考えてもそんな絵面のカップルが誕生したのだ。


 彼女は言った。

 彼女の元恋人は、僕のような男だったと。


 僕のような……恐らく、ものぐさな男だったのだ。

 世話好きな彼女が恐らく世話を焼いてしまうような、ものぐさな男だったのだ。


 洗濯物が夜まで物干し竿にかかりっぱなしでも気にしない。

 食い意地よりも趣味を優先するようなそんな奴だったんだ。


 ……代替品、だったのかもしれない。

 彼女にとって、僕は代替品だったのかもしれない。

 ものぐさで思わず世話を焼いてしまう。焼かずにはいられないそんな男だったから、彼女は僕に振り向いてくれたのかもしれない。


 結婚直後、一緒に暮らすために大きめのアパートへ引っ越しする時のことだ。

 ある日、彼女のスマホに一本の電話がかかった。

 

 そして、引っ越し準備を進める僕を他所に、彼女はスマホに向けて強い口調を飛ばし始めた。

 

『誰?』


 電話が終わると、僕は尋ねた。


 ……彼女は。


『まあ、いいじゃない』


 微妙な笑みを浮かべて、誤魔化した。


 どうして、今までそのことを忘れていたのだろう。

 あの時の僕は……きっと明美のスマホにかかってきた電話は、お義父さんやお義母さん相手なんだと思っていたんだ。

 些細な電話、だと思っていたんだ。


 でも今になって思うと、彼女が電話をしている姿は。


 彼女が見せた微妙な笑みは。


 ……今ならわかる。

 今なら、明美があの微妙な顔をする時の理由が理解できる。


 あれは、困った顔。

 彼女にとって辛いことが起きた時に出てくる表情だ。


 多分、元恋人の電話だったんだ。

 口論していた経緯を考えると、寄りを戻そうって、いきなり言われたのだろう。


 そして彼女は、困ってしまったんだ。

 一方的に別れを切り出した癖に。

 あたしをかつて、あんなに悲しませた癖に。


 今更になって……。


 でも……。


 おかしいと思っていた。

 あれ程献身的な明美が、どうして不倫なんかしたのかって。


 いいや、理由を悟った今でも……納得出来ない。

 納得出来っこない。


 だけど……。


 彼女が。


 僕の幸せを。

 凜花の幸せを……!


 全てを……。


 全てを投げ売ってまで、不倫に走った動機が……僕にはどうしても。どうしても理解が出来なかった。


 今、理解出来た。

 彼女は。

 明美は、元恋人と再会を果たして、彼へのかつての想いを蘇らせてしまったんだ……!


 世話好きな彼女が執心したものぐさな男への気持ちを、思い出してしまったんだ。


 ……いつか、聞いたことがある。


『ねえ、君の元彼の名前を教えてよ』


『え、なんで?』


 嫌そうな明美に向けて、聞いたことがある。


『だって、相手は確か君の幼馴染なんだろう? 君の実家に行った時、会うかもしれないし』


『……』


『無用なトラブルを避けたいんだよ』


 渋々。

 大層、嫌そうに……。


 彼女は、口を開けた。


「香取裕二」


 クラウドサービスで、僕が見つけた名前。

 明美のスマホのアドレス帳には登録がなかった、明美の元恋人の名前。


 こいつに違いない……。


 スマホを握る手が、震えた。

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