変化

「おはよう、お父さん」


「おはよう、凜花」


 僕の自殺未遂から三日。

 色んなことを経て、僕は今日も、凜花と二人で生活を続けている。


 この数日、本当に色んなことがあった。

 精神的に追い込まれ、自殺未遂までしてしまったこともそうだし、そんな僕を助けてくれる人の存在があったことに気付かされたこともあった。


 田沢美波さん。

 凜花の幼稚園の先生で、年齢は二十五歳。

 僕の自殺現場に駆けつけて、僕を助けてくれて……そして、僕達親子の秘密を共有し、僕の味方をしてくれている女性だ。


 正直、彼女の存在は今の僕にとってとても大きかった。

 命を救ってもらったこともそうだけど……秘密を共有出来たことも、彼女へ心を許した理由の一つだ。


 一生誰にも、この秘密は話すことはないと思っていた。

 親にも、子にも、誰にも……。

 しかし、今思えば到底無理だったのかもしれない。彼女の言う通り、たった一月秘密を隠しただけで、僕の心は参ってしまっていた。

 あれを一生……隠し通すなんて不可能だった。


 今なら、冷静になった今なら、そんな当たり前のことにすら気付くことが出来た。


 だからだろう。

 心を許してしまったのは。


 彼女になら……。

 明美亡き今、孤立したと思った今、僕が唯一頼れる人は、彼女だけだった。


 僕のことを見てくれる人は、彼女一人だけだった。


「お父さん、最近、少し元気そう」


 朝食を食べながら、凜花に言われた。


「……そうかな」


 照れくさくなり、僕は頬を掻いて苦笑をした。

 手短に準備を終えて、僕達は家の前でスクールバスを待った。


 しばらくして、スクールバスはやってきて、中から田沢さんが降りてきた。


「おはよう、凜花ちゃん」


「おはよう先生!」


「……おはようございます。清水さん」


「おはようございます。……田沢さん」


「今日は、遅くなりそうですか?」


「……そうですね、遅いと思います」


「それじゃあ、凜花ちゃん。面倒見ておきますね」


「……ありがとうございます」


 そして、僕が彼女に感謝していることはもう一つある。

 それは、仕事で帰りが遅い僕に代わって……彼女は仕事終わり、我が家で凜花の面倒を見てくれているということだった。


 最初は、僕は難色を示した。

 彼女はあの日、僕の味方であると話してくれたが……いくら僕の帰りが遅いとはいえ、現職が幼稚園の先生である以上、園児の家に上がり、子供のお世話をするのは関係者にバレたらまずそうだと思ったからだ。

 

『じゃあ清水さん、早く帰れるようになるんですか?』


『……それは』


『……大丈夫です。清水さん宅の側には、他の園児は住んでいないので』


『でも、凜花はどうやって連れ帰るんだ?』


『ウチの幼稚園は、長時間預かりの時は一人の先生を残して皆帰宅することになっていますから。むしろ、残れば残るだけ怒られるんです。電気代がどうとか、固定費、人件費がどうとか……』


 田沢さんは苦笑した。


『だからつまり……そう。その方が、都合が良いんです』


 都合が良い、とは言っても……本来それは彼女が抱えるべきではないリスクを孕んでのもの。

 申し訳無さで胸が締め付けられる思いだった。


『清水さん。そんなに悪いと思っているなら、一つ約束をしませんか?』


『……約束?』


『はい。……今度、三人でどこかに行きましょう』


『どこか……か』


『そうです。あなたも……凜花ちゃんも、ずっと息抜きなんて出来てないんでしょ? 勿論、園児の父兄がいそうな場所は駄目なので、そこ以外で』


『……そんな。そこまで君に迷惑をかけるわけには』


『違いますよ、清水さん』


 田沢さんは頬を膨らませていた。


『あたしが行きたいんです。あなた達二人と、どこかに行きたいんです』


 田沢さんは、とびきりな笑顔を僕に見せた。

 そう言われれば、もう僕が彼女の誘いを断る術は残されていなかった。

 多分、彼女の言葉は本心だ。そうでないとあんな笑顔は見せられない……と、思う。


 ただ、彼女の言う通りだった部分はある。

 明美が死んで以降、僕と凜花は共々、休みの日は家にいる時間が続いていた。というか、僕が家で家事に追われている以上、凜花を外で遊ばせるだけの余裕がなかった、が正解だ。


 ……たった三日。

 僅か三日、田沢さんに家の家事を代わりにしてもらっているだけなのに、自分の負担が驚くくらい減っているのがわかる。


 肉体的にも。

 精神的にも……。


 正直、有り難い。


「ねえ、田沢さん」


「はい?」


 スクールバスに乗り込む手前、僕は田沢さんを呼び止めた。


「先日の約束……あなたはどこに行きたいですか?」


 一瞬、田沢さんは驚いた顔をした。

 そして……子供のような無邪気な笑みを、僕に見せた。


「あなたの行きたい場所、ですかね」


「……そうですか」


「はい」


「……いってらっしゃい」


「はい。行ってきます」


 うるさいエンジン音を立てて、スクールバスが発進していく。

 窓から顔を覗かせた凜花に手を振りながら、僕の胸はいっぱいだった。

 

 たった三日。

 僅か三日。


 ……いいや違う。


『大丈夫ですか?』


 多分、あの日から……。

 妻を失い。

 娘が托卵だったことを知り。


 そして、探偵事務所の帰り、幼稚園の前で彼女と話したその日から……。


 僕は多分、彼女に惹かれ始めていたんだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る