第4話 分断

夜明けも間近になり、船の中に朝日が差し込み始める。


 まだ、人々の営みの喧騒は響かない。


 遺物による身体強化を扱う以上、軽率に人目に触れることは避けなければならない。


 オレは他者から見られることはないが。


「バッチリだろ、デイヴィッド!」

「流石の腕前ダ」


 サムズアップをこちらへ向けるイーサンの遺物が、オレたちの隠密行動を大きく助けてくれている


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八列目の悪魔バルバトス・ノイマン

使用者:イーサン・ガルシア

〈カテゴリーⅥ〉

 詳細:現実空間に対して、使用者の物体への知識に応じたプログラミングが行える遺物。

 その能力範囲は多岐に渡り、隠密化から火力支援まで様々な任務に対応することができる。

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 イーサンの遺物があってこそオレたちの任務は成立する。


 この船に乗った理由がなんであれ、この場にイーサンがいてくれることを頼もしく思う。


 現在の俺たちの姿は光の屈折の操作によって他方からは周囲の景色と同化して見えている。


 カンパニーの人間には見破られるだろうが、一般人に見られなければなんでもいい。


 そうやって周りの目を欺き、ぽつりぽつりと現れる人をかわしながら降りていく。


 この船に張られた蜘蛛の巣を目指して。











「案外あっさり入れるもんだな」


 美術館までやって来る中で、カンパニーの戦闘員らしき人物は一度も確認できなかった。

 やはり異界で待ち伏せているというのが本命だろう。


 やがて後続も美術館へと足を踏み入れる。


「こんなに立派な施設が隠匿されていましたのね」


「保険に保険をかけたかったんだろうヨ」


「そうか?あっしには見え透いたトラップに見えんだけど」


「確かにそうだけど、目的がはっきりしないよ」


 雛が疑問を口にする。


 カンパニー側が何を考えているかなんて正直分からないが、オレたちをただ抹殺したいわけではないらしい。

 ここまで回りくどいことをするのなら、そこには動機が隠れている。


 それを回避しつつ、オレたちは自分の目的も達成しなければならない。


 やれやれ、とため息をつく。


 つくづく割に合わない仕事だ。


「特定できたぜー。ここからちょろっと進んだとこに空間の歪みがありまっせ!」


「よし、行くゾ」


 イーサンを先頭にして石膏の脇を抜けていく。

 すぐにそのブースを抜けて、イーサンが立ち止まったのは一枚の絵の前だった。


 睡蓮花の描かれた温かいタッチの絵だ。


「モネの作品じゃねえか」


 イーサンから美術品に関する知識が出るとは思わず、瞠目する。


「有名なのカ?」


「そりゃもちろん!」


「フランスの画家で、生涯の中で睡蓮花を描く事にこだわったとされていますね」


「こういうのはさっぱりだが、まあ、キレイだナ」


 そういって絵画へ触れる。

 本来ザラついた画材の質感が指へ伝わるはずだ。

 しかし、その手はスッと絵の中へと踏み込む。


「ビンゴ」


 ニヤリと笑ってみせる。


 先陣を切るのだ。ここで笑顔の一つでもしなければ、心配させてしまう。


「それじゃお先ニ」


 身体を軽く引いて絵との距離を取る。

 そしてすかさず助走をつけて、絵画の中へ飛び込んだ。






 前情報なしに異界へ飛び込むのははっきり言って自殺行為だ。

 希死念慮を抱いているのかと問われても仕方がない。


 故に、飛び込んだ瞬間に戦闘体制を整える。


 が、オレがやって来たのは、先ほどと寸分違わぬ美術館だった。


「あいつらはいない、カ」


 唯一違うのは、アイリスたちが消えているという事だろう。

 異界への侵入自体は無事に成功したというわけだ。


 アイリスたちに安全の確認が取れた事をメッセージで送る。


 アイリスから可愛らしいスタンプでOKと送られた。


 通信自体は繋がるようで安心した。


 あたりを軽く見回してみる。


 特に変化したところは見当たらない。


 言うなれば船に内包されたもう一隻の船といったところか。

 オレの予想が正しければこの異界の構造自体は現実世界の船と全く同一のものだろう。


 今はアイリスたちが合流するのを待つとしよう。


 話はそれからだ。











 五分近く待っているにも関わらず、一人もこちらへやってこない。


 明らかな異常に気付き、アイリスとイーサンの両名に連絡を取る。


『ワタクシたちは甲板に出ましたわ』


『あっしは映画館に出たぞ』


「マジカ……」


 ここまで出口が分散するのは完全に想定外だ。


 それぞれ、下層の美術館、上層の甲板、中層の映画館。


 なんの脈絡もないバラけ具合に頭を抱える。

 元々ある程度分散して行動するつもりだったが、それはリスク回避のためだ。


 ここまで戦力を分断されるのはリスク回避どころか増大でしかない。


 しかし、ここで棒立ちして全員が集合するのを待つのも、それはそれで危険だ。


 ここはオレが先行するべきだろう。


『オレは先にサイガの反応を探っておく』


 メッセージを残して通信機をさまって、代わりに因果律改定値測定器を取り出す。

 少しばかり時間はかかるが、ある程度の位置なら判明する。


 一分ほど経った頃にブザーが鳴る。


 そこにはここよりもさらなる下層に反応がある事を指し示す矢印が表示される。

 アタリはついた。




「今行くゼ。サイガ」




 オレは地面を思い切り蹴って、最高速度で船内を駆け出した。


          ♢


「隊長は先行するようですわ」


「こんなに座標がズレる予定じゃなかったし、仕方ないね」


 私たちは絵画への突入と同時に甲板に放り出されていた。

 隊長から送られてきたのは、美術館に出るという情報のはず。


 イーサンたちも似たような状況になっているらしい。


 何がなんだか分からないけれど、それでも冷静さを欠くことなく周囲を警戒して銃を構える。


 そして、今更ながらに異変に気づく。


「夜になってる……」


 朝日が昇り始めていた太平洋で、私たちがいる場所だけが夜に転じている。

 それが、紛れもなく自分たちが異界に入り込んだのだと暗に告げる。


 満天の星々に囲まれた甲板に、おおよそ人の気配というものは無い。


 それが不気味な静寂を作り出していた。


「我々も下層へ向かいましょう」


 アイリスの引率のもと、私たちは甲板から下へと向かった。

 飛ばされたのが甲板だったので、当然距離は遠くなる。


 しかし、それでもおかしい。


「すみません。勘違いでなければいいのですが、ループしていませんか。アイリス様」


 私が感じていた事をジークも同じく感じていたようだ。

 アイリスの表情が重くなる。


「ええ……この付近は三分ほど前に通過したはずですわ」


「完全に罠に引っかかったね」


「面目ありません……」


「お嬢は悪くないよ。むしろ、サイガがいるって事じゃない?」


「確かに部外者を拒絶しているということは、守るべきものがそこにあると言っているのと同義です」


「そうですわね。気を取り直していきましょう!」


 私とジークのフォローに元気を出してくれる。


 やっぱりお嬢は笑顔がよく似合う。


「どうしましょうか?」


「別のルートを試すのはいかがでしょうか」


「そうしてもいいのですけれど、敵にとって都合の良いルートに誘導される危険もあるんですのよ」


「でも、道は他には無いよね……」


「そうですわね。とりあえず別のルートを試してみることにしましょう」


 私たちは真っ直ぐ降りるコースではなく、複雑に並行移動しつつ下を目指すことにした。


 それでも、最後には同じ場所に戻ってくる。


「また甲板だ……」

「一体どうなってますの?」


 甲板から建物へ入るための階段付近。


 必ずここにスポーンするゲームをプレイさせられているみたいだ。


 すでに多くの時間をロストしている。

 これ以上時間を食うわけにはいかない。


 どうしたものかと思案していると、ブザーが鳴った。


「警戒を」


 アイリスの号令で、私たちの付近で因果律操作が行われた事を理解する。


 やはり、罠だったか。


 おそらく、刺客が確実に標的を仕留められるように、私たちが遠くへ行かないようにしていないようにしていたのだろう。


 しかし、隠密に行動するつもりだったなら私たちに警戒する時間さえ与えなかったはずだ。


 何か引っ掛かる。


 そう思った瞬間に、全身が総毛立つ。


(何……このプレッシャー⁉︎)


 戦慄。


 私たちの手に負えるわけがない怪物の気配。

 アイリスとジークもまた、拳を強く握り締め恐怖に耐えていた。


 全員が同時に気配の方角を見る。


 甲板に通じる階段の上から、コツコツと革靴の音が鳴る。


(こいつ、一体どこから⁉︎)


 白いスーツを端正に着こなし、白髭の奥で笑みを湛える老人。

 老人とはいっても、その身体はおおよそ老人とはいえないほど隆々としている。


 その右手には槍斧ハルバードが握られていた。


 もっとも、その大きさは一般的なそれでは無かったが。

 乾いた音を立てながら、巨大なハルバードを携えた老人はこちらへ歩み寄る。


 階段の半分あたりで彼は静止した。




「ごきげんよう。統轄機構の諸君」




 声音が胸を締め上げる。

 放たれた声に至るまで、プレッシャーを孕む老人に、誰もが動けずにいた。


「あなたは……敵ですか」


 アイリスがなんとか啖呵を切る。

 それを彼は子犬の吠え声を聞いたかのように笑いながら受け応える。


「もちろんだ。君たちにはそれ以外に見えると?」


「一応の確認ですわ」


「なかなか骨のあるお嬢さんだ。ここで摘んでしまうのが惜しいくらいには」


彼が再び歩みを再開しようとする。

隣から跳躍の音が風に乗って耳は届く。


「させません‼︎」


 アイリスが叫ぶのに呼応し、ジークが凋落せし竜殺しバルムンクを老人へ滑らせる。


「戦の礼儀というのを知らぬようだな」

「ッ⁉︎」


 老人はハルバードの動きだけでそれをいなしてみせる。

 ジークは吹き飛ばされて、私たちの後方で受け身を取る。


 ジークの一撃を赤子のように扱う老人に、戦意が削がれそうになる。


 しかし、懸命に相対するアイリスの姿が、私を鼓舞した。


 負けたくない。


 そんな私のことなど眼中にない老人がアイリスに名乗る。


「戦の前には互いに名乗るべきだ」


「…………」


「私はヴィルヘルム・ストームバルテ。カンパニーの槍斧ハルバードだ」


「ワタクシはアイリス。皆様を守る盾ですわ」

「盾とは大きく出たな」

「いいえ、そんなことはありません。ワタクシたちの力をここで証明して差し上げます‼︎」


 アイリスが老人へ一直線に向かう。


 私たちもアイリスに続いて飛び出す。


 この怪物に負ければ、死は免れない。


 そうしたら、サイガに会うこともできなくなる。


 それだけは嫌だ。


 嫌なんだ。


 私は負けたくない一心で、指輪の煌めきを最大にした。


         ♢


「あっしらも行きますかねえ」


「そうした方が賢明かと」


「んじゃ張り切って行くぞお‼︎」


 あっしらがスポーンしたのは映画館。


 どうやら全員が分断されちまったみたいだ。


 まあ予想はついていた。


 敵さんがそう簡単に頭を取らせてくれるわけがない。


 だから、大した驚きはなかった。


 だからこそ、冷静に敵さんのことを分析できる。


「相手はサイガを捕まえて何をするつもりなのでしょうか」


「エサ——ってだけじゃなさそうだよなあ」


 エサであるならばもう少し分かりやすく配置しても良さそうだ。

 それに、エサを配置したところでこちらがやって来ない可能性もある。


 統轄機構としてはエサに引っかかりに行くのはよっぽどのリターンが見込める場合だけだ。

 それが分からないほど愚かだとは思えない。


「一つ思い至ったことがあります」


「なんだなんだ?」


「サイガを使うのではなく、サイガそのものに何かをさせるのでは?」


「そりゃまたどうして」


「所感にはなりますが——飛高が敗北することは、そういったシナリオが用意されていたように感じます」


「資料だけ見た外野なら、なんとでも言えるだろ」


「拙はサイガから話を聞いています。そこで飛高を回収した男は『敗北は想定のうち』だと話しています」


「確かに変だな。一国の拠点が失われるのを計画に組み込むのは」


「拙には、我々がここに来ることすらシナリオに組み込む存在がいる気がしてならない」


 ダグザはいつも見せないような不安げな顔をしている。


 もっとも、眉間はいつも寄っているが。


 可愛い部下の不安を少しでも和らげてやるために叱咤する。


「どちらにしろ、俺たちは任務をこなさなきゃなんねえだろ?そんじゃあ何考えても無駄になっちまう」


「それも、そうですね」


「だろ?」


 完全に納得はしてないが、割り切れはしたようだ。

 ここでごちゃごちゃ考えても変わらない。


 踊らされているのだとしても、あっしは迷わず異界にでもなんでも飛び込む。


 そんなあっしの気概に同意して来てくれるこいつがいればこそだけどな。


 映画館を出て娯楽施設の集合する広間へ向かう。


 案の定人っ子一人見当たらない。

 と、思っていた。


「姉ちゃん、こんなとこでなにしてんだ?」


「日課の散歩だニャー」


「散歩にしては物騒なもんつけてんじゃん」


 あっしらが出てくるのを待っていたと見られる褐色の女が答える。

 その両手にはそれぞれ三本ずつ刃を擁する鉤爪が装着されていた。


 褐色の女は可動域を狭めないような、エジプト風の薄着を纏っている。


 それゆえにダグザは目を逸らしていた。


「目に悪い格好したあんた、名前は?」


「マウなのニャー」


「あっしはイーサン」


「覚える気はないニャー。ここで死ぬやつの名前を覚えたって仕方がないのニャー」


「へえ?」


 啖呵を切ってみせるマウに、ちょっとした怒りが募り始める。


 鬱陶しい話し方も鼻につく。


 それでもあっしは気のいい兄ちゃんキャラを崩さないように注意して話す。


「そもそも『あっし』って一人称ダサすぎるニャー」


「よし殺す。今すぐ殺す」


「落ち着いてください隊長」


 ダグザに肩を掴まれて踏みとどまる。

 マウは楽しそうに笑っていた。


「気分が乗ってきたから謎かけでもしてやるかニャー」


「いいぜ乗ってやるよ‼︎」


「はあ……」


 あっしも男だ。バカにされっぱなしは溜飲が下がらない。


 ここでギャフンと言わせて、それから叩き潰す。


「朝は七人、昼は六人、夜は〇人。これなーんだニャ」

「…………」

 嫌な予感がする。


 ダグザに指で下がるように命じる。


 あっしの勘が正しければ、もう戦闘は始まっている。


「そうだなあ〜————綺麗なお姉さんとか?」


「正解は〜♪」


 急速に因果律改定値が高まるのを検知する。

 目の前の女はよく分からんダンスを踊っているが、確実に遺物を起動させている。


 ダグザが後方に飛び退くのを皮切りに、あっしもそれに倣おうとする。

 しかし。


「お前らニャ」


 あっしの頭上に巨大な石像の脚が現れる。

 それは避けることが不可能だと即時に判断させる速度で接近する。

 それを努めて冷静に対処するべく、床に手のひらを向ける。


 床の一部が光る。


そして、防壁を築くための手順を着実に踏む。


「——基本構造検索——解明

 ——変遷理論構築完了

 ——耐衝撃壁急速展開‼︎」


 あっしの腕の動きに合わせて映画館の床が新たな物質へプログラムされて行く。


 石像とあっしの間に挟まる形で分厚い壁が形成される。


 石像の脚と壁が相剋するが、壁に亀裂が走っていく。


 だが、それで十分。


 あっしとダグザは既に脱出していた。

 脱出と同時に壁が崩壊する。


 間一髪だった。


「すごいニャー!避けるのニャー⁉︎」


「あっしにかかればこんなもんや!」


「隊長、油断しないでください‼︎」


 ダグザの叱責に、ついつい遊んでしまったことを反省する。


 今のは危なかった。


 まだ能力については未知数だが、マウと名乗る女にはあっしらと渡り合う力がある。

 それを認めざるをえない。


 しかし、勝ちはもぎ取らせてもらう。


「行くニャー‼︎」


「来いよ‼︎」


「隊長は前に出過ぎないでください‼︎」


          ♢


「うぅ…………ここ、は?」


 俺は無骨な船室の鉄の廊下の真ん中で目が覚めた。

 船室というより、機関室といった方が正しいだろうか。


 パイプや計器がそこかしこに設置されており、ごちゃごちゃした印象を与える。


 全ての物が白いペンキで塗られており、なんとなく嫌な感じが漂っていた。

 俺はベッドも毛布もなしに床に転がっている。


(確か、アロハシャツの男に吹き飛ばされて……)


 それから、どうなったのかは分からない。


(戻らないと)


 身体を起き上がらせようとした時。


「いっ⁉︎」


 全身につんざく痛みが響いた。

 腹部から全身に広がった硬直が、俺が動くのを拒む。


 見れば、腕に縄も巻かれていた。


 このままじゃ身動きが取れない。

 なんとかして縄を解こうとした、その時だった。


「おはようさん」


 廊下の奥からギシギシと重量感のある足音をたてて床を軋ませながら、アロハシャツの男がやって来た。


 遠路はるばる友人に会いに来たと言われても信じてしまいそうなほど、軽々しい態度で接してくる。


 思わず顔が嫌悪で歪んだ。


「力加減をミスっちまってなあ。こんなに怪我を負わせるつもりは無かったんだぜ?」


「信じられるかよ……」


「まあまあそんなにピリピリすんなって」


 男は俺の前に胡座をかいて堂々と座る。

 頬杖をついて、こちらへ双眸を向ける。


「俺を拉致した理由はなんだ」


「あんたのお仲間さんを釣るためだよ」


「嘘だろ」


「へえ。分かるのか」


「信じてもらえるとでも?」


 男の調子は崩れない。


 なんとか隙を窺いたかったが、軽薄な態度のわりに一切の間隙を見せない。

 この化け物がいるうちは逃げられる自信がない。


「なあ、ひとつ聞きたいんだけどよ」


「口は割らない」


「嫌でも吐きたくなるって」


 そういって男は俺の髪を掴んで軽く浮かせる。


「どこに遺物仕込んでんだ?」


「?」


「とぼけんなって」


 視界が一瞬でぶれる。


「ッ⁉︎」


 俺は男に片腕でヌンチャクのように振り回された。

 時間にして約二秒。


 それでも、俺の三半規管を破壊するには十分だったようだ。


「はあ……はあ……うっ」


「船ん中でゲロられても困るんだよ。答えた方が楽だぜ?」


「だから……何言ってんだ……?」


 吐き気が止まらない。

 頭痛が瞳を開けることすら苦痛に感じるように俺を改造する。


「んじゃ降参するまで」


「ぐっ‼︎」


 再び振り回される。


 身体中の水分が撹拌され、一纏めにされていくような錯覚に陥る。

 遠心力に負け、指先すら満足に動かすことができない。


 時々男が何かを口にするが、風切り音が邪魔で全く耳に入ってこない。


「がっ⁉︎」


 男の腕がピタリと止まり、俺だけが慣性に引っ張られて顔面をポールに強打する。


 額からボタボタと流れる血液が髪を濡らしていく。

 突然の停止に、何が起きたか理解できない。






「良い子にしてたカ?サイガ!」






 聞き覚えのある機械音の混ざった特徴的な声が耳朶を叩いた。


 痛みが完全に意識外に追いやられる。


 それは、一朶の枝を選り分けるような、初めから考えていなかったシチュエーション。


 俺は嬉しくて、自分の状況を気にせず叫ぶ。




「隊長‼︎」




 ニヤリと彼が笑う。

 この世の何よりも頼り甲斐のある笑みが、俺の心臓をテンポアップさせた。


「へえ、あんたがデイヴィッド・ゴッドスピードか」


「いかにモ。オレはお前のことを知らんがナ」


「俺はアレックス。それにしても、あんた有名だぜ?単騎でビル一棟を制圧しちまうんだもんなあ」


 互いに笑っている。

 だが、俺は気づいていた。


 両者共に殺気を隠す気がない。


 強烈な因果律操作に、遺物を持たない俺は奥歯を噛み締めざるをえない。


「とりあえず、オレの部下を返してもらえるカ?」


「そりゃあ出来ねえ相談だ」


「そうかヨ」


 隊長が返事をした瞬間、俺はアレックスの手から離れて宙を舞っていた。


 彼も何が起きたのか分からず、硬直している。

 その隙を見逃さず、隊長は彼を蹴り飛ばして壁に叩きつける。


「あらら?」


 アレックスに目立った外傷はない。

 しかし、立てないようで、隊長が俺の縄を取ってくれるのをむざむざ見逃す羽目になっている。


「ほラ。これが無いとだロ」


「ありがとう、ございますっ!」


 隊長から紫電が手渡される。

 両腕にそれぞれ嵌めて、感触を確かめるように手を開いては閉じる。


 冷たく、そして重い。


 やっと戻ってきてくれた相棒の姿に、感動を覚える。


「おいおい、お涙頂戴なら他所でやってくれや!」


 アレックスが一瞬でこちらへ踏み込んでくる。


「邪魔すんナ‼︎」


 隊長が彼の拳を受け止める。

 衝撃波がパイプのいくつかを破裂させ、白い蒸気が噴き出す。


「隊長‼︎俺も——」


「行ケ‼︎アイリスかイーサンと合流しロ‼︎」


「ッ……分かりました‼︎」


 隊長に助太刀したいところだったが、ここは闘争を優先することにする。


 隊長ほどの人が言うのなら、きっと勝てる。

 俺は彼を信じて上階を目指し始めた。


          ♢


 土御門飛高は従業員用の船室で、喧騒により目を覚ました。


 なんだか騒がしい。


 出航してから約一週間、こんなことは一度たりとも無かった。


 何かが起こっていることは明白だった。


 だが僕には一度たりとも情報が共有されないため、考察の余地もない。


「トラブルでも起きたか?」


 僕は身体を起き上がらせる。

 視線が扉の方向へと自然に向く。


 エディスからは指示がない限り部屋から出ないようにと伝えられている。

 だが、一回くらいなら良いだろう。


 僕は着物の内から五行抄本を取り出す。

 念には念をというわけだ。


 扉に手をかけ、ドアノブを回そうとする。


 同時に後ろから受話器が勢いよく鳴った。


 突然の出来事に少し身体をビクリと震わせてしまう。


「なんだよ……」


 内線からかかってきたであろうコールに、受話器を取る。


「はい、土御門です」


『エディスよ』


「騒がしいんだが、どうなっている」


『そのことなんだけどね。統轄機構が乗船していたみたいなの』


「————統轄機構が?」


 聞くとは思わなかった単語に顔を顰める。

 なるべく聞きたくはなかった。


 しかし、重要な情報ではある。

 聞き漏らさずにいよう。


『一部隔壁が閉鎖されているから、上階の方へ逃げなさい。セーフポイントの座標は送ったわ。そのルートに従ってちょうだい』


「僕に逃げろと?」


『統轄機構はあなたの身柄を狙っているの。死にたくなければ扇子を握りしめて大人しく閉じこもることね』


「……分かった」


『何か質問はある?』


「睡蓮はどうしてる」


『こっちの方で預かってるわ。戦闘には駆り出さないから安心しなさい』


「それなら、いい」


『じゃあね』


 受話器からプーと通話終了を告げるアラームが鳴る。

 ここ最近、睡蓮はよく分からない子供の世話に付き合わされていた。


 統轄機構が乗船していたのなら、彼女にも何か危害が加えられたのでは?


 そんな想像が脳裏を掠める。


 そんなことになれば、僕は悔やんでも悔やみきれない。


 僕は彼女のためにここまできたのだ。

 彼女の笑顔を奪わせはしない。


 しかし、エディスが保護しているのであれば安全だろう。


 僕は廊下へと出る。

 エディスの言っていた通り、多くの通路に隔壁が降りていた。


 ルートをあらためて確認する。


 僕はたびたびなる轟音の中、袖を振りながら歩み出した。


          ♢


「スイレンちゃん……」


「大丈夫です。私がいますよ」


「うん……」


 分厚い壁に守られた最下層の船室で私とステラ様はエディス様の指示で避難していた。

 ステラは私の双丘に顔を埋めて耳を塞いでいる。


 それを宥めて優しく頭を撫でてやる。


「サイガ、大丈夫かな……」


「…………」


 ステラ様の呟きに、何も言ってやることが出来ない。


 私はもう、彼と友人でもなんでもない。


 私は天秤にかけた時に、飛高様を絶対に選んでしまう。


 彼に思い入れが無いわけでは無いのだ。


 しかし、私にとっての大切は、やはり飛高様に他ならない。

 だから、ここで私が何かを言う資格はない。


 それを察してか、ステラ様もまた口をつぐむ。

 その背中をゆっくりと撫でてやった。


「スイレンちゃんのピアノが聞きたい」


「…………鼻歌でもよろしいでしょうか」


「うん」


 年端もいかない彼女なりに、落ち着き方を考えたのだろう。

 私の拙いピアノを聞きたい、なんて言うとは思わなかったけれど。


 それでも、嬉しくはある。

 誰かに望まれるのは、どうしても嬉しい。

 私は『別れの曲』の旋律を奏でる。


「〜♪」


「…………ありがとう」


 不安げな顔は、いつしか落ち着いたものへと変わっていた。

 最終的には私も戦わなければならないかもしれない。


 だから、少しでも彼女が安心して過ごせるようにしておきたい。


 やがてステラ様が私から離れてスケッチブックを取り出した。


「スイレンちゃんのこと、描いてあげるね」

「ふふ。ありがとうございます」


 すっかり元気になった彼女の姿を見て一安心する。

 この航海が、ずっとこうであればいいのに、なんてことを思う。


 それが、私には過ぎたものだと知りながら。

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