豪華客船ルベライトバートリ

プロローグ 遠い昔の、誰かの夢

 瞳を開いた篠沢彩我は、見覚えのない狭い何かに入っていた。


 そこから見えるのは曇りだった。


 比喩なしに目と鼻の先に曇りガラスがある。

 閉所ではあるがガラスの向こうから光が入ってきているので明るい。




 見覚えのない景色に、俺は困惑した。




 今いる場所がどこか分からず身体を動かそうとする。


 しかし、身体はぴくりとも動いてくれない。

 いや、そもそも感覚すら無いのだ。


 例えるなら自分以外の人間の視界を共有させられている、といったところか。


 動かせるのはどうやら視界だけだった。


 軽く見渡す。


 視線を右往左往させても曇りガラス以外は純白のプラスチック?のようなもので構成されていることぐらいしか把握できない。


 しかし、状況はなんとなく察せられた。


 俺はコフィンにかつて入れられていた誰かの記憶を見ているのだろう。

 それ以外の可能性は無いとは言わないが、限りなく低い。




(一体誰の夢なんだ?)




 少なくとも俺が忘れているだけ、なんてことはないだろう。

 こんなに近代的な施設は、統轄機構でも見なかった。


 統轄機構の治療室は宇宙船にあるような自動ポッドなどではなく、シンプルな病床だった。


 夢の中にもかかわらず、やけにはっきりした思考を巡らせていると、自動ドアが開いたようなスタイリッシュな音が耳朶を叩いた。


 コフィンの中にいても、外界の音ははっきりと聞こえるようだ。

 しばらく靴音が聞こえたと思えば、半透明の曇りガラス越しに影が映り込む。


 華奢なシルエットだということだけが分かった。






『あら、もう起きてるのね』






 美しい。


 そう形容する以外見つからないほどに澄んだ、セイレーンの歌のような声音に思考が停止する。


 影がこちらへ近づいてくる。

 コフィンの目の前で止まった。

 曇りガラスに、その人物は指を添える。


「う……」


 俺、いや、今俺が見ている視界を持つ人物が呻き声を上げる。


 そこで初めて、今この景色を見ているのがあどけない少女だと気づいた。


 外の景色から強烈な白光がなだれこむ。

 少女はあまりの眩しさに瞼をきつく閉じた。

 曇りガラスで遮られていたのだ、目が慣れていないのは当然のことだ。




『ごめなさいね、いきなり。少しはしゃぎすぎてしまったみたい』




 女性?は申し訳なさそうに、されども嬉しさを噛み締めるように声をかける。

 少女は目の前の人物の顔を見ようと、少しずつ瞳を開いた。

 逆光になっていて、輪郭しか感じ取ることができない。


 だが、ストレートに伸びた、声を聞いたイメージ通りの長髪だけがはっきりと網膜に映る。

 既にガラスは開放されていた。


 直接女性の声が耳に入る。




「おはよう。そしてはじめまして。それからそれから、生まれてきてくれてありがとう」




 触れれば折れてしまいそうな細腕が頬を優しく包む。


 初めて触れた彼女の手は少し冷たかった。




「…………だ、れ?」




 掠れた声が喉から漏れる。

 か弱すぎて、今にも消え入りそうな声だ。

 それでも女性は聞き逃さなかったのか、逆光でも分かるほどの笑みを浮かべる。




「まずは自己紹介ね。私はテ————ト。あなたは————よ」




 肝心なところを聞く前に、意識が浮上していく。

 何の抵抗も出来ないままに、俺は現実に引き戻された。


          ♢


「もうすぐだよ、起きて」


「あれ…………」


 気づけば俺は、バンの中で横になっていた。

 頭の方ではジークと雛が窮屈そうに端に寄っている。


 思い出した。


 車酔いで心配をかけ、任務直前にもかかわらず眠らせてもらっていたんだった。


 夢を見ていた気がするがうまく思い出せない。


 思い出せないので一旦どこかに置いておいて……耳たぶに熱を感じながら身体を起き上がらせる。


「車酔いの方は大丈夫?」


「うん、スッキリした」


「あと五分もかかんねえからナ。すぐに出れるように荷物を纏めとケ」


「了解です」


 ハンドルを握る隊長に促されるままに後方に積んである荷物を引き上げ始めた。




 現在俺たちは渋谷から逃亡した土御門飛高の拿捕のために、彼が乗り込んだとされる豪華客船『ルベライトバートリ号』へと車を走らせている。


 ルベライトバートリ号は全長二九〇メートル、総トン数は一二万を超える大型の船舶だ。

 定員は三千名に達する。


 今回の任務は洋上で行われる。


 ニューヨークまでの所要時間はおおよそ四週間。

 長期間にわたる任務ということで、俺たちは大きな物資を持ってきたというわけだ。


 豪華客船と聞くと、なんとなく観光気分になりそうなものだったが、緊張の糸が張り巡らされているように全員が真剣な面持ちでいる。


 その理由は、新入りの俺でも分かった。


 洋上で逃げ道などというものはおおよそ存在しない。

 それはこちらにとってメリットであり、そしてデメリットでもある。

 失敗すれば生きて帰れるとは思わない方がいいだろう。


 全滅、下手すれば鏖殺だ。


 お互い逃げ道はない。


 それに加えて、援軍は望めない。


 一つ一つの判断が命取りとなる可能性がある。


「最終確認をしとこウ」


 外を眺めながら脈打つ心音に耳を傾けていると、隊長があらためて作戦概要を語り始めた。


「今回の任務では土御門飛高の捕縛が主任務になル。だが作戦地域の都合上民間人への被害が懸念されル。無闇な行動は慎メ」


「質問いいでしょうか」


「珍しいナ。ジークが質問してくるなんザ」


「今まででもっとも難易度の高い任務ですから、万全の体制を整えておきたいのです」


「確かにナ。突っ込んだオレが野暮だっタ」


「作戦に参加する部隊はいくつなのでしょうか。これほど大きな船となると我々だけでカバー出来る部分は限られてきます。出来れば早々に合流し、認識をすり合わせたい」




「アー……それナ」




 隊長が少し気まずそうに頬を引き攣らせる。


 嫌な予感がする。


 それは全員一緒だったようで、みんな揃って隊長にジトーっとした視線を投げかける。


「土御門ホールディングス制圧の時にナ?オレら以外の部隊がほとんどダメになっちまったみたいデ……カテゴリーⅥが二人だけしか来れないって話になっタ」


「は?」


 アイリスの口からドスの効いた威圧が流れる。

 普段のお淑やかなイメージからはかけ離れた重圧に、隊長は押し黙ってしまった。


「ワタクシたちはジークの遺物での治療が可能とはいえ、癒えきらない傷を引きずってここまで来ているのに、それだけの人員しか派遣出来ないと?」


「オレも申し訳ないとは思ってるゼ。だけどな、ニューヨークに先行した奴らが多いんだとヨ」


「そこは理解しますが——それにしても、そこまでの人員が必要な作戦とは一体なんなんですの?」


「まだそこは言えネェ」


「アイリス様、デイビッド様のせいではありません。どうかそのお怒りを抑えていただきますよう。せっかくのお顔が台無しでございます」


 ジークが恥ずかしげもなくアイリスに言葉をかける。

 顰めっ面だったアイリスは我にかえったようにみるみるうちに紅潮していった。


「申し訳ありません…………」


「いや、お嬢の怒りはもっともダ。謝ることはねえヨ」


「ありがとうございます」


「オウ」


 隊長は気にしていないようだ。

 すぐにさっきまでの表情に戻り、鼻歌を歌い始めた。


「ふふっ」


「おいヒナ、何がそんなに面白いんだヨ」


「いや、柄にもなく緊張感出そうとしてるから」


「別にいいだロ」


「でも船に入ったら偵察と称して遊ぶ気満々だったでしょ?」


「……」


「ほら」


「雛、そこまでにしといたほうが——」


「はいはい」


「確かに緊張させすぎも良くないナ。時間があれば遊ぶカ」


 雛の一言で車の中で敷き詰められていた糸が絡め取られる。

 確かに緊張しすぎも良くない。

 そしてなにより、こうやって明るいほうが俺たちらしい。


 そうして俺たちは軽口を叩き合いながら豪華客船へと向かう。




 この先起きることも知らないで。

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