第8話 二人一緒なら
飛高の容赦のない波状攻撃が始まった。
格下に翻弄されたという事実が、彼を焚き付けたのだ。
血眼になってこちらを睥睨する。
「来るよ!」
雛の合図で、彩我は飛高に接近するべく、脚をバネにして、飛びかかろうとした。
「〝鳥籠〟」
扇子の一振りで屋上のありとあらゆる物質が彼に隷属し、その有様を変質させる。
先程まで意思などつゆほどもない物質が、意識を宿したかのようにうねる。
五つの要素を各々持ったツルや、剣、レイピアが生成されると同時に、一直線に彩我へと向かう。
シュヴァルツと同等か、それ以上。
一切の余力を残さずに撃ち込まれたレイピアたちは、かつてのシュヴァルツの遺物を大きく上回るほどの因果律改定値を叩き出していた。
屋上の対角線上で向き合う両者は、ここで全てを出し切るべく、遺物を稼働させる。
「もう逃げられないぞ」
レイピアが、横方向へ飛び退いて避けようとした瞬間、彩我を中心に渦を巻く。
(閉じ込めるつもりか‼︎)
木製の鳥籠のように変質していくコンクリートの壁は、彩我たちを焼き殺すための形状をとる。
隙間を広げて脱出を試みるが、開くよりも先に、次の木々がやってきて穴を埋めていってしまう。
隙間から覗く飛高の瞳は、鋭く鈍い矢となってこちらを射抜く。
飛高の微笑は跡形もなく消え去っていた。
そこには油断も慢心もない。
ただ効率を追い求めた殺戮。
自身を貶めた者への純然たる殺意が込められていた。
「王手」
火が灯る。
希望を摘み取って、炙るように。
炎が伝播してくる、そう思った瞬間。
既に内壁が着火していた。
「クソ‼︎」
退路が完全に断たれた。
その事実が、彩我に戦慄を与える。
(大見得切っといて……このザマかよ)
「彩我、落ち着いて。大丈夫。私がついてる」
「そうだった。ごめん。悲観しすぎた」
雛の微笑みが、青年を貫く。
燃え盛る牢獄の中で、雛の指輪が煌めいた。
飛高は勝利を確信し、瞳を細めた。
(調子に乗っていた報いだ。僕の遺物が伝播によって伝わるわけがないだろう。効果範囲にいるならばどれだけ離れていていようとも瞬きの間に属性を変化させられる。遊んでやってたさっきとはわけが違うんだ)
逃げ出そうとする彩我の姿を見て、間に合わないと確信する。
次から次へと補強される木壁は、速攻で破れるようなものではない。
戦いとすら呼べないほどの一方的な決着。
飛高はこんな勝ち方は好きではないが、敗北よりはマシだと、この一撃必殺のカードを切った。
余裕綽々と、火に包まれ始めた木籠に見惚れる。
「綺麗だ……」
人の命が最期に放つ輝きを可視化するのが、飛高は好きだった。
特に自分のプライドをズタズタにしたやつの最期の悲鳴は気分が洗われるようだ。
思わず肩をくつくつ揺らして、袖をひらひらと揺らす。
だが、耳朶を叩いたのは悲鳴ではなかった。
バチッ。
音が響く。
さっきも聞いた音だ。
忌々しい青天の霹靂。
木壁からではない、もっと近い場所で聞こえた。
木籠を観察する。
一切の変化を感じさせない籠が、妖しく煌めいている。
だが、左だけ、黒々とした大穴が帯電した状態で開いていた。
(彩我はどこだ⁉︎まだ脱出してから大した時間は経っていないはずだ‼︎)
いくら浮かれきっていたとはいえ、これほど早く抜け出すことができるほど、陰陽師の秘宝は柔ではない。
これは土御門一門が代々受け継いできた、誇りなのだ。
これほど一瞬で破られたという事実は、千年にわたる歴史の否定と同義。
到底受け入れられるわけがなかった。
周囲を見渡そうとした、その前に。
「なっ⁉︎」
右方向から、紫色の電撃が一直線にこちらに向かっていた。
気づくのが一瞬遅れた。
何度も彩我の雷撃を避けることができたのは、ひとえに高所からじっくりと動きを観察することができたいからだ。
不意打ちで放たれた電撃を避けることができるほど、飛高の反射神経は高くない。
「五行抄本‼︎」
扇子を勢いよく上空へと突き上げる。
間に合わない。
目の前に迫った電撃を受け止めるために放った壁は、酷く遅いペースで生成される。
「クソオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ‼︎」
飛高の全身から紫紺の稲光がその身を焼き尽くすために迸る。
(身体が動かない‼︎焼かれているようだ‼︎)
筋肉が強制的に硬直させられ、身動きを縛る。
内側から壊れていく感覚。
やがて放電が終了した。
電撃の嵐は途切れたが、飛高は身動きを取ることなど出来なかった。
彩我たちはいつからか、自身の数メートル右前方で、こちらを睨んでいる。
動いていることすら、感知できなかった。
「彩我、今‼︎」
「ああ‼︎」
視界の端で雛鳥がこちらに拳を振りかぶろうとしている。
動け。
動け
動け。
だが、視界はほとんど動いてくれない。
既に終了しているはずの筋硬直がいまだに残っているようだ。
終わってもなお、雷撃は遺恨を残している。
その現実が飛高の脳裏で明確にカタチ作られる。
〝敗北〟の二文字となって。
認めない。
認めてなるものか。
(僕が新入りの雑魚に負ける?)
ありえない。
(まだ本気じゃないんだ。まだ勝ち筋はある。少々不快ではあるが、全力でやらなければ)
屈辱のハイヒールに脚を通すことになったとしても、もはやそんなことを言っている状況ではなくなっていた。
筋硬直を逆に利用して扇子を全力で握る。
「舐めるなああああああああああああああ‼︎」
ツタが細かい流砂となって宙を鳥のように舞う。
細かい粒子が屋上で渦巻き、彩我の視界を遮る。
突然の出来事に視界を失った彩我は急ブレーキをかけた。
「私のゴーグルを着けるから、彩我は気にせず戦って‼︎」
「分かった‼︎」
目を開くことがままならない状態だったが、幸い、雛がゴーグルを持っていたのでなんとか視界を確保することはできた。
(私がゴーグルを下げてて、それでも目潰しをしにきたのはなぜ?)
雛の思考が加速する。
飛高の行動原理が読めない。
目潰しをしたところで大した意味はない。なんなら彼にも被害が及ぶ可能性だってある。
だが、この短時間でニつ分かったことがえる。
飛高は能力の範囲が広い。
そして、多くの行動に、布石が撒かれている。
今までに、彼がなんの意味もないことを、してこなかったことを思い出す。
舐めていたとはいえ、全ての行動に、次の意味を繋げられるようにしていた。
(考えろ。ここであいつは何でこの行動を選択したのか。飛高の姿ははっきりと見えている。だからこの状況で狙っているのは目潰しなんかじゃない)
ならばどうして?
雛は頬を叩く粒子に違和感を感じる。
気がつけばさっきよりも鋭い痛みが、素肌を傷つけているようだ。
頬を拭って何が付着してるのかを、目を凝らして見てみた。
「…………金属片?」
おかしい。さっきまで流砂だったはずだ。
私たちが気付かぬうちに、変質させられている?
なんのために。
「————広範囲攻撃」
全ての点が繋がる。
私たちが一瞬のうちに動いたことを警戒し、纏めて吹き飛ばすつもりか。
金属片が舞う場所に炎を投じたらどうなるか、想像に難くない。
粉塵爆発。
バラバラになった自分の姿が思い浮かび、背筋を嫌な寒気がなぞる。
「彩我、後方に思いきり飛び退いて‼︎」
「‼︎」
雛の言葉に一瞬の動揺を見せるが、即座に対応する。
だが、飛高は既に筋硬直を解き、扇子を振り上げていた。
「能力の種が分からないのなら、纏めて吹き飛ばしてやる」
飛高が、即席の弓を木で生成する。
彼の手のひらの中で小さな火種が生まれた。
火花が矢の形状をとり、引き絞られる。
「終わりだ」
矢が、飛高の膂力から解放されて飛び出す。
チリチリと音を立てて、目で追うことのできない速度で到来する。
精々普遍的な矢のサイズだった。
それが、金属片の嵐に到達した瞬間に、少しづつ業火の名に相応しい大きさへと変貌を遂げ、乱気流の中に存在する全てを焼き払うために肥大化する。
一秒も経たずに全てを飲み込む一矢。
「
炎の嵐が到達するよりも早く、雛の叫びが場を支配する。
怒涛の勢いで到来していた炎が、だんだんと遅くなり、やがて静止した。
「あの扉の残骸を盾にしよう」
「飛高から離れることになる」
「背に腹は変えられない。今は攻撃を乗り切ることに重きを置こう」
二人だけの世界で、許された三秒で行動の取捨選択をする。
一切の余裕は、俺たちに許されていない。
雛の力の種が明らかになっても、多少は通じるかもしれない。
だが、対策はとられるだろう。
実際、種が割れていない今ですら、こうやって完璧な対策に近いことをされている。
勝負は速攻で決めなければならない。
そう誓って、扉を炎の矢に向けるかたちで構える。
時が、ゆっくりと動き出す。
それと同時に、轟音と灼熱が押し寄せた。
「ぐっ……!!」
凄まじい衝撃の連続。
だが、耐えられる。
数秒耐えてしまえば、終わるのだ。
この程度では、もう倒れない。
「やっぱり耐え切るよな」
炎の波が落ち着き、苦悶に顔を歪ませる飛高が問いかけた。
全てを見通しているように、興味も無さそうに。
「さっきの双月雛の能力を、僕は誤解していた。弾丸を増やす遺物だったりするのかと思ったけど、本質はそこじゃない。瞬間移動か?いや、これも違うな。だったら即座に攻撃出来ないしな。やっぱり、時間停止か、結果を引っ張ってくるか、どちらかだな」
飛高は淡々と、つらつらと独りごちる。
俺たちのことなど見えていないと、遠回しに言っているみたいに感じた。
「そうだな、だったら」
飛高の言葉と同時に、再び鉄砂の嵐が吹き荒れる。
もはや、詮索は必要ないのだと、暗に伝えるように。
「広範囲攻撃で、消し炭だ」
「出来ると思ってるの?それよりも早くあんたを殴り飛ばす」
「おぶってもらってる奴のセリフとは思えないな。もういいよ。戯言もそこまでだ」
飛高の冷たい表情が、場をさらに凍りつかせる。
「君は土御門グループの長なんだろ?なんでカンパニーなんかに与してるんだ」
「お前に何が分かる。所詮何も知らぬ、偽善を振りかざすだけの存在が僕を語るな」
炎の矢が、彩我を拒絶するように放たれる。
その数、五本。
さっきよりも多い。
だけど、乗り越えてみせる。
こんなところで止まってなるものか。
再び雛が
「今回は盾がある、そのまま押し通るぞ。しっかり捕まって」
「分かった」
再度世界を堰き止める。
起動寸前に彩我は跳躍の体勢を既にとっていた。
飛高の周囲に嵐は吹き荒れていない。
当たり前だが、自分の起こした現象であろうと、物理的な衝撃を伴うのであれば、それは本人にも影響を及ぼす。
ある程度の耐性はあるだろうが、気休め程度のものだろう。
だから、接近は必須。
だけど。
(遠い‼︎たった三秒であそこまで近づけるわけがない‼︎ましてや、炎が近くまで迫っているこの状況で‼︎)
飛高に接近できるルートは限られている。
炎を避け、最短で辿りつける道程は限られている。
つまり、飛高はそこで俺たち一網打尽にするつもりだ。
道が一つしかないならそこに罠を敷くのは当然だ。
(俺一人なら突っ込んでもいいが————)
雛が、背にしがみついている。
それは俺にとって明確な命の重みとして、身体に枷をかける。
それを、飛高も理解しているのだろう。
故に、広範囲に攻撃をばら撒いているのだ。
雛の方をチラリと見やる。
雛は、キリッとした表情で、微笑んでいた。
「私なら大丈夫。絶対に離さないから」
「ありがとう」
雛の決意に、俺も覚悟を決める。
彼女が傷つくかもしれない。
物流センターの時みたいに、上手くいかないかもしれない。
それでも、やるのだ。
それが、彼女の信頼に応える唯一の方法なのだから。
「頭伏せといて」
「うん」
残り一秒を切っている。
だが、近づける。
少しでも猶予が与えられているのなら、それを無為に浪費しない。
勢いを増し始めた炎の矢の下をくぐる。
「彩我、もう時間が——!」
「耐えろ‼︎」
くぐり抜けきる前に、時間がやってきてしまった。
表面が炭化した盾を、雛を庇う形で構える。
より近距離で受けきらなければならないが、耐えてみせる。
時の掌握権が再び世界に渡る。
勢いをより増幅した矢が爆ぜ、俺たちを押し潰しにかかる。
「ぐっ————‼︎」
「うっ‼︎」
圧力や衝撃波だけなら盾で防げる。
でも、熱は例外だ。
防いだところで押し寄せる熱の波は、四面楚歌のように全方向からやってくる。
指先が震える。
必死に衝撃波と拮抗しようとしている俺を、指先から熱が焼き溶かしていく。
当然だ。単純に矢を増やしているのだから、火力が上がることなど。
俺にしがみついて耐えようとする雛の力も少しづつ弱まっていく。
(まだ…………終わらないのかっ⁉︎)
精一杯歯を食い縛ってみるが、痛みも衝撃もおさまることをしらない。
「彩……我‼︎前進…………しようっ‼︎」
「無茶だ‼︎そんなことしたら、二人とも仲良く火だるまだぞ‼︎」
「それでもいい‼︎このまま状況を停滞させ続ける方が……よっぽど危険だ‼︎」
「君も限界だろう‼︎無茶はさせられない‼︎」
雛は入りきらない力を振り絞るように、可愛らしい優しいパンチを俺の頬にぶつけた。
「そんなこと言ってる場合じゃない。私の遺物の種も割れたんだ。もう真っ向勝負を挑まないと、私たちに生き残る道はない‼︎」
おれは焼けるような空気に構わず深呼吸をする。
そして、言葉を紡ぎ出した。
「分かった。————無理はするなよ」
「ふふっ、どの口が」
軽口を叩き合い、互いに力を込める。
余力を残す気など無いように。
「前に進むんだね——」
愚かな選択だと、飛高は一笑にふす。
それでもいい。
その油断だけが、俺たちを勝ちに導いてくれる。
「まだ動けるなら、火力を増加するだけだ」
「ク……ソッ‼︎」
さらに炎の勢いが強まる。
(クソッ。頭がクラクラしてきた……)
俺たちの周りの酸素が、失われていっている。
これほどの大火を生み出しているのだから、当たり前のことなのだが。
空気も炎も、全てが全身を焼き、前進を拒む。
でも————
「まだ——進める‼︎」
一歩、また一歩と、鈍重になった脚を引き摺りながら進む。
「化け物が‼︎焼き尽くすことすら生温いというのなら、串刺しにして火刑にしてやる‼︎」
(まずい‼︎)
足元から、赤熱のコンクリートが槍へと変化する。
これに貫かれれば、絶命は免れないだろう。
下腹部から喉頭部にかけて一直線に穿たれた自身の姿が想起される。
濃厚な死の気配が鼻腔をくすぐった。
炎槍が身体を貫こうとした。その時。
「
飛び出しかけた炎槍が、急激にエネルギーを失い、完全に停止した。
「——間に合った‼︎」
間一髪だ。
心臓が、停止した世界の中でも脈動を速くする。
「助かった‼︎」
「お礼はいいから、早く行こう!」
その言葉にハッとして、すぐに前へ進みだす。
思えば雛の言葉に背を押されてばかりだな、なんて思ってしまう。
不甲斐ないけど、すごくありがたかった。
今はまだ頼りなくても、いつか強くなって並び立ちたい。
だから、ここで負けるわけにはいかないんだ。
「うおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおおお‼︎」
盾を構えて、スパルタ兵士のように突撃する。
今この瞬間に、俺たちを邪魔する爆風は静寂させられている。
許された滞留の中、飛高の元へと跳躍する。
床を思いきり蹴飛ばし、飛高へ拳を振りかぶる。
同時に世界の流れが再び動き出す。
雛が叫んだことで能力が発動したことを察知した飛高は既に扇子をこちらへ向けていた。
「無駄なんだよっ‼︎」
うるさい蝿を睨め付けるように、飛高は怒りを募らせている。
心なしか、哀れに思ってしまった。
理由は分からないけれど。
だから、反射的に叫んでしまった。
「無駄なんかじゃない‼︎」
「どうせ諦めない意思が大事だとか、見知らぬ誰かを守りたいとか、そんなくだらない考えでここに来たんだろう‼︎そんなものはまやかしだ‼︎僕がそれを証明してやる‼︎」
壁が、棘を伴って再び生成される。
だが、もう止まれない。
このままぶちぬいてもいいが、そしたら勢いが死ぬ。
その隙を突かれる可能性は否定しきれなかった。
(俺は、どうするべきだ)
ひたすら考える。
瞬きの瞬間にいくつもの思考を並列に起動し、速やかに考えを巡らせる。
(雷撃を……使うしかない)
一か八か、成功するかどうか分からない賭けだ。
チャージは十二分にあるが、正確に壁を打ち砕くことが出来るかが肝だ。
しかし、どれだけ考えてもこれしか思いつかない。
雛は銃を置いているし、聖痕は遠隔でつけることは出来ない。
(やるしかないな)
両の掌を合わせる。
ギリギリまで引きつけて、確実に外さない距離で叩き込む。
ガントレットが天を叩く太鼓のような、唸り声をあげる。
残り三メートル。
打ち込むなら、ここだ。
「〝
「なっ⁉︎」
指向性を与えられた迅雷が、飛高と俺たちの前に立ち塞がる障壁へと到達する。
屋上を轟音と紫紺の輝きが満たす。
その場にいる全員が、あまりの閃光に眼窩にカーテンを掛けた。
(どうなった?成功したのか?)
破片が飛んでくるが、ゴーグルのおかげで視界は確保されている。
閃光でうまく前が見えないが、輪郭を掴むことは出来た。
棘壁は、鼠色の煙を吐き出しながら、力無く二つに引き裂かれている。
成功はした。
だが、飛高はこちらをしっかりと見つめていた。
(和服の裾で眼をガードしたか。でも、道は開けた‼︎)
振りかぶられた扇子に呼応し、剣や槍が立ち塞がる。
「それがどうしたああああああああああああ‼︎」
眼前に刃先が現れた瞬間に、手当たり次第に叩き折りながら進む。
戦慄。
飛高の瞳に初めて恐怖の色が塗布された。
「なんなんだよっお前ぇ‼︎」
拳が鼻筋への軌道に乗る。
急ぎ、自身を守らせようと扇子を振るが、もうそんな余裕は与えない。
その時、飛高が初めて後ろに一歩退いた。
飛高の瞳が、伽藍堂の如く色を喪失した。
「オラァァァ‼︎」
紫電から鼻筋を通して衝撃が伝わり、飛高は数歩後ろに仰け反った。
鼻血をボタボタと垂らしてはいるが、動きに鈍りは見受けられない。
「…………はは」
(不味い。ここまで効き目が薄いなんて)
雷掌の構えをした時に、思いきり空気抵抗を受けたのが響いた。
思ったよりも威力が乗らなかった。
電気を放出しきってしまったのも痛い。
俺はすぐに飛高へと駆け出す。
ここまで近づけたのだ、さっきのような広範囲攻撃はそうそう出せない。
格闘の腕には憶えがある。
負けるわけにはいかない。
「僕が…………は……はは………………はははははははははははははははははは」
突然、口端を弓形に曲げて笑い出す飛高に、少し戸惑うが、迷わず前進する。
拳を再び握り込み、構える。
押さえつけられた膂力を解放し、万力の鉄拳を、顔面へと滑らせた。
「っ⁉︎」
飛高は、すんでのところで紫電を受け止めた。
紫電の棘など目にも入らぬというように、平然と握り込んでいる。
掌からは真紅の血液が滴り落ちている。
カッと開かれた双眸は、狩人のそれに酷似していた。
「お前なんかに負けるわけがないだろ」
直感的に、不味いと思った。
プライドをズタズタにされ、尊厳をへし折られた今の彼に、話が通じるとは思えない。
そう考えさせられほどに、目の前の青年が纏う雰囲気が一変した。
激しい憎悪がトグロを巻いて首元に巻き付く錯覚を憶えた。
(離れないとっ‼︎)
掴まれた右腕を振り払おうとするが、出来ない。
「もう逃げられんぞ」
「そんな馬鹿力あるなら、最初から出してりゃよかっただろうにっ」
「お前みたいな弱者に対して、牙を使わざるを得なくなった時点で、僕の負けだったんだ。勝ちはお前に譲ろう。でも、二人の命はここで置いていってもらう」
「それは出来ない相談だ!」
左腕が空いていた。
咄嗟の判断で飛高の胸へ振るが、それすらも受け止められた。
完全に盤面を握られた。
(こうなったら、大博打でも————)
紫電を、起こすしかない。
以前に増して太くなった、紫電との繋がりを手繰る。
クールタイムはまだまだ終わっていない。
でも、それでも。
今の俺になら出来るはずだ。
軽いショックしか与えられないだろう。
だが、今はそれでいい。
たった一瞬の隙が勝敗を分つ。
その隙を生み出す。
「来い‼︎」
左腕との繋がりは捨ておけ。
ただ一点。右腕のみに集中しろ。
「ぐうっ‼︎」
「無駄なんだよ‼︎そのまま命が零れ落ちるのを感じながら死ね‼︎」
四肢が貫かれる。
膝から崩れ落ちたい衝動が脳裏を支配しようと手を伸ばす。
俺は歯を食いしばって耐える。
(頑張れ俺‼︎ここで崩れ落ちたら、今無事な雛にまで攻撃がくるんだ‼︎こんなことでいちいち膝を折ってどうする‼︎)
幸い雛に攻撃はされていなかった。
飛高の瞳に映るのは、俺の姿だけなのだろう。
それを分かってか、雛も手を出さずに見守っている。
紫電の、さらに深層の糸が、手におさまった感じがした。
霹靂の音が鳴る。
ついに掴んだ紫電のさらなる深層。
俺は躊躇うことなく飛高へと、それを流し込んだ。
「一芸しかない雑魚がああああああああああああああああああああああああ‼︎」
「舐め腐って負けちまうような奴には言われたくねえなあああああああああ‼︎」
飛高は電撃をモロに喰らう。だが、決して俺を離そうとはしなかった。
俺はさらなる槍の猛攻に、身体を穿たれる。
「がああああっ‼︎」
「クッソ‼︎」
互いにダメージは深刻だ。
だが、互いに一歩たりとも、後退しない。
馬鹿みたいだと思われるかもしれないけど、多分負けたくない気持ちだけで、今ここに立っている。
負けたらみんなに顔向けができないんだ。
みんなの隣に立ちたい。
今度こそ誰かを救いたい。
そういった総てが収斂される。
耐えろ。
耐えろ。
耐えて、耐えて、耐え続けろ。
それが俺に許された、俺が唯一出来ることなのだから。
鋼のように、大樹のように、熱心な一神教徒のように。
折れることを知らない、英雄の剣のように。
だから、歯を食い縛れ。
「あ……ぐ……」
一瞬。ほんの一瞬。
飛高の拘束が緩まった。
それは致命的な綻びとなる。
この好機を、活かす。
全霊を持って腕を振り解いた。
「ぐっ」
電撃の影響を脱してもなお、禍根を根強く残す紫電の力に感謝する。
まだ紫電のことをほとんど知らない。
それでも、俺の遺物が紫電で心底良かったと思う。
感謝、情熱、憤怒。
拳に乗せられた感情を想う。
これで、勝負が決する。
最後まで、気を抜かず、確実に決着する。
俺は後先考えず、エネルギーを乗せた。
「…………………………がはっ」
綿毛のように軽々と、抵抗も出来ずに飛高は吹き飛ばされた。
瓦礫の山に突っ込んで埃が舞い上がる。
口からは破裂した水風船のように血が溢れていた。
「クソッ…………が‼︎……動け……よ…………動けって…………言ってんだよ‼︎」
飛高は惜しむように膝を叩くが、空虚な音色を垂れ流すだけで、立ち上がることはなかった。
何度も何度も膝を叩く飛高の姿は、痛々しくて見ていられなかった。
この状態にした俺が言えたことではないが。
「終わった…………ね」
「……ああ」
ついに終わった、という実感が身体を突き抜ける。
突入開始から一時間程度しか経っていないはずなのに、なんだか途方もない時間をここで過ごしていたかのような疲労感が襲ってきた。
飛高へと歩み寄る。
もう戦えない人間に、これ以上の追撃は不要だろう。
「…………なんだその手」
「お前は負けたんだ、飛高。大人しくお縄につけ。今ならまだやり直せる」
「何がやり直せる……だ。ふざけるのも……大概にしろっ」
俺の言葉を罵倒ととったのか、飛高は吐き捨てるように放つ。
それも仕方のないことだと思った。
彼は多くの人間の亡骸や想いを積み上げて、空へ手を伸ばしていたのだ。
それが、こんなところで積み上げたものを崩され、挙げ句の果てに上から手を差し伸べられている。
彼の苦悶は想像に難くない。
だが、ここで手を差し伸べないのは、違う気がした。
俺は多くの人を助けたい。
それは飛高だって例外じゃない。
自分の気持ちを、信じることにしたのだ。
「僕を愚弄するのも大概にしろっ。安っぽい正義感を振り回すだけの偽善者の手を取るほど、僕も堕ちちゃいない‼︎」
「そんなこと、百も承知だ。だけど、俺は自分の気持ちに嘘をつきたくない」
「ちょっと……彩我」
雛が静止する。
彼女が警戒する気持ちも理解できるが、少しだけ猶予が欲しい。
「ごめん、雛。少しだけわがままに付き合ってくれ」
「仕方ないな……」
ありがとう、と軽く会釈をする。
「あらためて言うぞ。俺の手を取れ。まだ引き返せるはずだ」
「断る」
「………………」
何と言えばいいか迷っていた、その一呼吸の間のことだった。
突風が突如吹き荒れ、俺たちを吹き飛ばした。
「「ヤバっ‼︎」」
俺と雛は口を揃えて同じことを口に出す。
一緒空気が緩みかけたが、すぐに本来の目的を思い出す。
「飛高は⁉︎」
「あそこだ‼︎」
雛が指を指す。
飛高が大柄なスキンヘッドの男に抱えられていた。
「離せ‼︎僕はっ、あいつらを‼︎」
「負けたくせにしがみついてんじゃねえよ。そんなんでよくルリに気に入られたなあ」
「あの女は関係ないだろう‼︎」
「そんなルリさんから伝言だ。『君が負けるのは想定内だ。何も問題はない。ひとまずアレックスの指示通りに動いてくれたまえ』だそうだ。お前も大変だなあ。あの人に気に入られると碌なことにならない」
「………………僕の敗北が想定のうちだと?」
何の話をしているのか分からない。
ただ、このまま逃すわけにはいかない。
「雛‼︎」
目配せを交わす。
雛は瞬時に俺の意図を読み取る。
「‼︎。分かった‼︎」
男との距離はかなり離れている。
だが、紫電に対する理解を深めた俺ならば、当てられる。
掌を合わせて照準。
チャージは充分に出来ている。
手の平の間から雷撃が飛び出すのと同時に、突風が力を取り戻す。
「うおっ⁉︎」
男へ稲妻が迸る、はずだった。
「嘘だろ⁉︎」
男が手を横へゆったりとスライドさせる。
それと呼応するように雷撃が歪曲したのだ。
男の手がたどった足跡が、陽炎のように歪んだ。
電撃は虚空へと舵を取り、エネルギーを失って霧散した。
「そうだ‼︎睡蓮はどうした‼︎」
「あの子ならルリさんの人形が回収したぞ」
男は攻撃を受けたことを忘れたかのような軽妙さで会話を続けた。
「もう一度紫電でっ‼︎」
「何回も攻撃されても面倒くせえし、そろそろトンズラするかね」
「待て‼︎せめてあいつを…………‼︎」
「駄々こねんなよ。こっちだってリスクを負ってここに来てんだ」
二人は俺たちとは反対方向へ駆け出す。
「待てっ‼︎」
俺がそれを追いかけようとするのを、雛の手が静止した。
「このままだと逃げられる‼︎」
「落ち着いて。私たちは満身創痍だよ。あの男は相当やり手だ。今どころか、万全の状態でやっても勝てないと思う」
「…………確かに」
「今はとりあえず、アイリスとジークと合流しよう」
「そうだな」
飛高には逃げられてしまった。
でも、日本におけるカンパニーの影響力は削げた。
そう思って納得することにした。
雛の身体を両手で支えて、楽な姿勢でおぶる。
普段なら恥ずかしがっているだろうが、極度の疲労からか、素直に身体を預けてくれる。
その信頼が、今はただ嬉しかった。
「帰ろう」
「うん」
そうして、俺たちの二度目の死線に、緞帳が降りた。
♢
「全員無事でなによりダ‼︎」
「隊長が無事なのが一番びっくりなんですけどね……」
「この人はいつもこんな感じですわよ?」
俺たちは治療施設で各々のメンテナンスを行なっていた。
失血の酷かった俺と雛はすぐさま輸血が行われ、医療担当の人の遺物で治療を受けることになった(ジーク)。
ジークの遺物は他者にも適用出来るらしく、みるみるうちに傷が塞がっていった。
雛は慣れているようで、パッパッと終わらせていた。
隊長とジークとアイリスは大した怪我はないようで、ピンピンとしていた。
特に隊長は、たった一人でビル一棟を担当していたはず。
本気で戦う隊長の姿が少し気になった。
「申し訳ありません。お二人の救援へ向かうことが出来なかった」
ジークが心底申し訳なさそうに腰を折る。
そんなことをさせてしまったことに、罪悪感を憶えた。
「いえ、そんな……謝るようなことじゃないですよ」
急いで慰める。それにアイリスも便乗した。
「そうですわ。ワタクシだって上へ向かったら全て片付いていたんですから」
「お前が止めてなかったら、どっちかに更に負担がかかってたわけだロ?だったらそれは誇るべきことダ。自身持テ」
しんみり——とはしていないが、互いに健闘を讃えあう。
初任務のときよりも、達成感があった。
でも、心残りもある。
「あの……飛高の追跡は…………」
「次の任務は飛高の追跡がサブミッションだから気にすんナ」
「どういうことですの?」
「飛高はおそらく、ルベライトバートリ号って豪華客船でアメリカに向かうみたいダ」
「そんなに具体的に分かってるなら、すぐに制圧しないの?」
雛が怪訝な表情で問う。
「人が乗り始めてル。大事には出来なイ。それに、次の目的地はニューヨークだから一石二鳥なんだヨ」
今、なんて。
ニューヨーク?
アメリカだ。
「「「アメリカ⁉︎」」」
「そうダ。まだ話せないが、あるデカい任務に合流する形になル」
「ずいぶん急なんですね」
「まあちょっと前に声が掛かったところだったしナ。安心しロ。アメリカは統轄機構支部の中でトップクラスにデカい。強い奴がいっぱいいるから、色々吸収してくレ」
俺は日本から離れたことはない。
だから、胸が躍った。
しばらく日本には帰れないだろう。
だから、最後に後悔は残していきたくなかった。
「あの、豪華客船にはいつ向かうんですか」
「五日後だナ」
「その間、行きたいところがあるんですけど、良いですか?」
「ああ、やり残しがないようにナ!」
「ありがとうございます!」
俺は精一杯の笑顔で、明るく返事をした。
生活感のない静謐な室内で、物騒な格好をした五人組は、楽しく笑い合う。
きっと、これからの旅路で壁にぶつかっても、俺たちはきっと、こうやって笑い合うのだろう。
そう確信できるのが、どれだけ幸福なことか。
俺はクッキーを一つつまんだ。
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