第三話
久々に温かさを感じ、思わず頬ずりをすると、何かざらりとした感触がした。
ざらりとして、どこかチクチクするから……父のヒゲだろうか?
でももう弟のティオがいるから、一緒のベッドで寝るなんてことはしないはずなのに――
「起きたか?」
「え、あ……」
意識がゆっくりと目覚めていき、同時に目を拓いて視界がはっきりしてくると、目の前に全く知らない若い男がいた。男はハノを眺めながら、「よく眠れたみたいだな」と、苦笑している。
ガバリと起き上がり、ハノは後退りしながらそこら辺に転がっていた暖炉のひっかき棒をつかんだ。
この男は昨夜、ハノに銃口を向けていた。それから近づいてきて、それで――
「おいおい、俺は君の牙は抜かないって言っただろう?」
寝たら忘れたのか? と、男は苦笑してゆっくりとハノに近づいてくる。
よく見ると、男はあまりこの辺りでは見ない色の軍服を着ていて、拳銃が傍に置かれている。見た感じが優男に見えなくはないが、軍服を着ているくらいだから、きっと鍛えられた肉体をしているのだろう。現に、ハノに差し出される手は大きくたくましく、ハノのものよりうんと大人だ。
「……僕の牙、いらないの?」
「俺は、人殺しをしてまで金儲けしたくないんだ」
これでわかってくれたか? と、一歩また近づいてくる男に、ハノはまだ完全に心を許す気になれない。
うなずきはしたが、だからと言って男のことを信用していいのかはわからない。何せ、名前も知らないのだから。
「どうにもまだ疑ってる感じだな、俺のこと」
「……だって、名前も知らないもの」
ハノがおずおずと言うと、男は、確かにそうだなと肩をすくめ、その場に腰を下ろして差し出していた手で自分の胸元を指した。胸元には、紫の旗に金のヘビが描かれたバッジがつけられている。これは確か、隣国の国旗のデザインだ。
「俺は、ライナー=ユング。今年で二十一。元ゲファー国の下っ端兵士だ」
「もと……いまは違うの?」
「ああ、まあな」
「どうして?」
兵士がそう簡単にやめられる職業でないことは、六歳のハノでも何となくわかっているつもりだ。しかも隣国のとあれば、こちらに攻めて来たということになるだろう。
そんな彼が、竜人であるハノを前にしても捕虜にするわけでも、牙を奪うわけでもないと言うのだ。
ハノが率直にその理由を尋ねると、ライナーはそれまで柔和に微笑んでいた表情を曇らせ、呟く。
「……もう人殺しはたくさんだから」
闇色の目が、
しかしそれもほんの一瞬で、ライナーはすぐにパッと柔和な笑みを浮かべ、その笑みは先程からは想像もできないほどやさしく、ハノも思わず見惚れてしまった。
「じゃあ次は、君の名前を教えてくれるか?」
ライナーはそう言いながらハノの顔を覗き込み、微笑みかけてくれる。もうずっと長く生身の人の笑みや言葉に触れていなかったせいか、向けられると心の中の血が通っていなかった部分にも、血が巡ってくるような気がする。それが何よりハノの気持ちをほぐし慰めていく。
「……ハノ。ハノ=ヴェルグ」
「ハノか。いい名前だな」
「そうなの?」
「ああ。たしか、俺の国では“神の贈り物”という意味がある」
「神の贈り物……」
思いがけないことを言われ、ハノは凍てついた心が少し緩む気がした。ライナーといると、失った物のことを少しだけ忘れることができ、心がホッとするようなのだ。
ずっと一人きりで気を張っていたせいか、こうして寄り添うように並んで座れるほど心を許せる相手がいるのがちょっと嬉しい。でも、信じてしまっていいのかがわからない――
そんなことを考えていると途端に空腹を覚え、ハノの腹が随分と久しぶりに大きな音を立てた。
すると、ライナーの腹もまた大きな音を立て、二人は顔を見合わせる。
「腹減ったか、ハノ」
ハノがおずおずとうなずくと、ライナーは「よしっ」と言ってハノの手を取り立ち上がる。
「まずは腹ごしらえするか。何か残ってりゃいいけど」
「え、あの……」
「ハノ、厨房はどこにある?」
ライナーに手を牽かれるがまま歩き出したハノは、そのまま手を繋いで屋敷の中を進んで行く。あちこちにあった亡骸は、どうやら昨夜の内に砂になってしまったらしく、あるのはボロボロになった洋服と血だまりばかりだ。もしかしたら、ライナーが別れのキスをしてくれたのかもしれない。
本当に、ハノだけになってしまったんだな、と言う思いがしたが、亡骸がない分恐ろしさや悲しさが薄れる気がする。それがほんの少しだけ、ハノの気持ちを上向きにしてくれる。
厨房は一階の食堂の隣にあり、そこもまた、料理人たちの亡骸のあとがあった。砂と血だまりだけになっているので、恐ろしさはあまりない。
賊の侵入者たちは牙や調度品などが目当てだったのか、思っていたよりも食料品を持ち去っていなかった。食糧庫の前で体の大きな料理人が亡くなっていたのもあるのかもしれないが。
「ハノは何が好きだ? ……と言っても、俺はろくに料理なんてできないんだけど」
そう苦笑しつつ、ライナーは食糧庫から肉や野菜を出してくる。調理台に並べられたそれらを前に、ハノは少し考えて答えた。
「……スープ。お肉入ったスープ、食べたい」
「おお、良いな。それなら俺でも作れそうだ」
そう、ライナーが笑ってうなずいてくれたので、ハノはほっと息を吐き、それから見よう見まねでライナーとスープを作ることにした。
いままで厨房に入ることなど滅多になかったから、道具の場所さえわからなかったが、何かをしていると悲しみが紛れていくのがわかる。特に何かを作っている時は無心になれることに気が付いた。
出来上がったのは干し肉を入れた野菜のスープで、パンすらない。でも、しばらく何も食べていなかった体にはこれで十分だろう。
金色の透明なスープをひと匙、ほろほろになるまで煮込んだ野菜と肉と共に口に含むと、何とも言えずやさしい味がする。
「……おいしい」
調理台に丸椅子を並べて口にしたスープは、何もかもに疲れ切って傷ついているハノの心に染み入る。ひと匙二匙と食べ勧めていく内に、あっという間に器が空になった。
「もっと食べるか?」
「うん」
いつ振りになるかしれない食事は、何よりも美味しく、弱っている心身に沁み込んでいく。無言で食べ勧めていく間、ライナーはハノをじっと見つめていた。
結局、四杯ほどおかわりをしたハノは、随分と久しぶりに満腹を覚え、体がホカホカとしている。
「よく食べたな」
そう言いながらライナーが頭を撫でてくれ、それがまたハノの心をホカホカにしてくれる。
食べている内に日は高く上り、厨房にも日が射してくる。ライナーは窓の外を見やり、遠くを見ていた。その眼は、ここではないどこかを目指す色をしている。
(ライナー、どこか行っちゃうのかな……)
ふと過ぎった考えに、ハノは心が急激に冷えるように萎んでいくのを感じ、戸惑う。家族も使用人もいない今、ひとりきりで生きていかなくてはならない。それはわかっているつもりだったが、いざ想像してみると、とてつもなく心許ない。
一人きりでこの廃墟と化した屋敷にい続けることを想像し、思わずうつむいていると、「ハノ?」と、ライナーが声を掛けてくる。
「どうした? 何か思い出して辛いか?」
ライナーの問いかけにハノはゆるゆると首を振り、そして尋ねていいものかどうか迷い、口を開いては閉じを繰り返す。
ライナーはハノが自分で問うてくるまで、じっと待っていてくれた。それが何よりもハノは嬉しかった。
「ライナーどこか行っちゃったら、僕、一人になっちゃうから……」
でもきっと、ライナーはすぐにでもここを離れたいのではないだろうか。軍を抜け出して来た者は、きっと軍によって捜されていて、捕まってしまえば何かしらの罰を受けるだろう、と。
それが薄々わかっていながらも、ハノはライナーと離れがたくなっていた。いまこの世でただ一人、確実にハノをまっとうに扱ってくれるとわかっている相手であり、安心できるとわかっている相手でもあるからだ。
その想いを、どれだけ六歳のハノが伝えきれるかはわからない。空になった器を見つめながらうつむいていると、ポンと汚れたままの薄緑の髪を撫でるものがあった。
「そうだな。こんなところにハノを一人にはできないから……しばらく世話になろうかな」
やさしく、しかし少し困ったように微笑みかけながらそう言うライナーの笑みに、ハノはほんのわずかに顔をほころばせ、こくんと頷く。家族を亡くしてから、初めて見せる笑みだ。
「……ありがと、ライナー」
撫でてくれている手を取り、頬に寄せるようにして言うと、ライナーはそのまま痩せた頬も撫でてくれた。その手が心地よく、ハノは母の手を思い出し、少しだけ泣いた。
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