第2話 生活ログの歪み
朝の霧が石壁に張りつき、テムズの匂いが記録所の羊皮紙にまで染み込む。
蝋と油のにおいは昨日と同じだが、帳面は昨日と同じ顔をしていない。
最初に開いたのは蝋燭支給控。
礼拝堂(蜂蝋)……通常24→昨夜48→本日予備20追加申請。
王の家(蜂蝋)……昨夜から“祈祷用”名目で増量。
廊下(獣脂)……据置。
蝋台係の女が指で数字をなぞり、「祈りが長い季節さ」と言った。指先には、薄い蝋の膜。
祈りは言い訳になる。蝋は言い訳を数に変える。
厨房の配膳表。
CHILD × 2。
欄外に小さく、黒インクで“1?”。その上に茶色の薄い擦れ跡。
「これ、誰が書いた」
厨房頭のホプキンスは目を逸らした。「朝の混乱だ。パンの塊が小さかっただけだ」
返却籠には半分かじったパンが一つ。かじり跡は小さい。二人が同じ大きさでかじることは少ない。
「皿は?」
「……二だ」
皿は二。だが、書く者の手は一を知っている。
巡診記録。
医師アルジェンティンの署名が、昨日で止まっている。
「呼ばれていない」と医師。
「具合は?」
「祈りが多い」とだけ。
医師は祈らない。だが、呼ばれない医師は祈りの陰にいる。
夜警の巡回表は、矢印がさらに内向きに寄った。
通常、外壁沿いの見回りが一周するところ、今夜は王の家周辺に立ち止まる時間が増。
老衛兵が筆の先で矢印を弾いた。「外に敵がいる時は外回りが長くなる。内が敵の時は、内回りが長くなる」
彼は笑い、笑いが石に吸われた。
水門(トレイターズ・ゲート)の通行台帳。
小舟欄に印章のみ、名なしが二つ。昨夜一つ、今朝未明一つ。
水番は言葉の端を噛んだ。「潮の転りがよかった。静かな時刻に静かな舟が通る」
印章の輪郭はかすれている。王家評議会の紋。
紙は通ったことだけを記す。誰を通したかは、紙を持つ手の側に残る。
昼下がり、記録所に貸与帳が届いた。
待っていた帳だ。鍵束が誰の手に渡ったか、紙にする唯一の機会。
最上段、空白。
次の段、“副長代”の走り書き。墨の上に刃物の細い削り跡。
「誰が—」
ガトリー主任が肩を竦めた。「白紙で済む夜もある」
白紙で済むのは、輪が命令した夜だ。
礼拝堂。
夕の朗唱は、昨日より短い。
高い声と低い声が少しずれる。ずれの幅は広い。
蜂蝋は二本、今朝追加で置いた分が半分に減っている。
「短いのに減りが早い」
蝋台係の女が囁いた。
短い祈りが蝋を食う時、祈り以外の灯りがともっている。
白塔の影から、封蝋の箱を抱えた背の高い男が現れた。
昨夜見た顔。タイレル。
副長の部屋にまっすぐ向かい、滞在は短い。
短く来て短く去る者は、輪の外で輪を動かす。
夕餉前、洗濯の控を横目で見た。
点数は変わらず。だが隅に小さく、「詰め直し」の字。羽毛の袋か。
「今日は?」
洗濯女が唇を噛む。「ふくらみが違う。同じ数だけれど、軽い」
同じ数でも、軽いものはある。中身が変われば、数は嘘をつく。
夜。
副長の部屋で、鍵束の見本ではないほうが机に置かれた。
「親は持ち替えない」と副長。
「貸与は?」
「今夜、書けないだろう」
「なぜ」
「輪の命令は、紙に書かれない」
副長はそう言い、封蝋の箱に視線を落とした。視線は長くない。長くない視線ほど、長い夜を作る。
廊下で、若い衛兵が俺を呼び止めた。
「書記殿、灯りを増やせと言われた。王の家の廊下、角ごとに蜂蝋を」
「誰から」
「印章だけだ」
印章は名前のかわり。だが、印章は祈らない。
寝台の上で、今日の数字を重ねる。
蝋は増。
配膳は二→“1?”の痕跡。
巡診は停止。
巡回は内向き強化。
水門は名なしの通行が増える。
貸与帳は空白と削り跡。
洗濯は詰め直し。
礼拝歌は短く、蝋の減りは早い。
短いのに減る。祈り以外が灯っている。
——生活ログが、先に嘘をついた。
死体はまだない。叫びもない。だが、数字の断絶は始まっている。
王子が消えるなら、その前に皿の端が欠け、蝋が祈りに化け、鍵が輪の外を通る。
俺の仕事は、嘘をついた数字の初日を捕まえることだ。
灯が落ち、石の冷たさが皮膚に戻る。
観測者は祈らない。代わりに、足りないものの列を覚える。
明日、どれかが0になる。
ゼロになった数を、俺はもう知っている。京でも、ここでも。
数字が消えた夜は、命令が紙から輪へ移る。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます