第3話 密書と補給路の交差
夜の底が薄くなる少し前、湯を火にかけた。湯気が立つまでの間、店の表と裏を一往復する。木戸の桟は乾いて軽い音を立て、軒の板は足裏に粉みたいなざらつきを残す。乾燥のサインだ。今日の京は、燃える準備がいい。
女将が早口に言う。「新吉、三条の小間物屋へ包みを。戻りに西二条の角で湯を二つ、置いておいで」
「承知」
包みの重さは紙の重さに毛が生えた程度。だが紐が新しい。紐だけが新しいのは、不自然だ。結び目は固く、二重。誰かが解くのを嫌っている。
通りはまだ人影が薄い。井戸端を横目に過ぎると、吊瓶の鎖がきいと鳴った。誰かが夜のうちに汲んだままだ。水は軽く、風は冷たく、空は浅い。東雲がほどけるころ、三条の店に包みを渡し、すぐ西二条へ回る。角に腰掛けが二つ、言われた通り湯を置いた。置くと同時に、路地の奥から二人が現れた。昨日の夜に出会った、草履と足袋の二人だ。
「おお、ちょうど」
年上の方が湯を取り、口をつける。袖の内側に色がついている。油が飛んだ跡。二人は湯を飲み干し、返杯の礼もなく踵を返した。礼をしないのは急いでいるからか、礼を知らないからか。どちらでも、準備の手は止まらない。
店に戻る途中、小さな祠の前で足を止める。賽銭箱の角に、細い墨で小さな記号が描かれている。昨日の巻紙の末尾と同じ符牒。誰かが「ここを通れ」と言っている。祠の横の細道は、人ひとりがやっと抜けられる幅。脇の塀に、麻縄のささくれが一本だけ残っていた。指で摘むと、乾いている。昨夜、ここを何本かが擦った。
昼前、油屋の小僧が再び来た。肩で樽を担ぎ、額の汗を拭きもせずに言う。「兄さん、ここで帳付けを頼むよ。急ぎの御用でさ」
樽の数、印の形、行き先。俺は声に出さず数える。帳場の端で、女将が目で促す。小僧は言い淀み、結局は小声で漏らした。「……西」
それ以上は言わない。言わないことが訓練されている。
午後、鍛冶屋の若いのが釘を追加で持ってきた。束の根元に煤がわずかに付いている。急いで焼き、急いで打った釘は、色が疲れている。「いくつだ」と聞くと、「五」と答えそうになって、彼は言い直した。「四、だ。……一本、落とした」
一本。数をごまかすのは下手だ。下手でも、彼は走る。走りながら数える者は、たいてい覚悟している。
日が傾き、店先に影が伸びる。遠くで笛がまた短く鳴った。三度。昨日と同じ調子。声を張らない合図。俺は湯をたぎらせながら、影の伸び方で時刻を読む。塀の上、猫が一度だけ鳴いた。静かな町は、音の端がよく聞こえる。
夕刻、常連の商人が現れた。前よりも軽い足取り。袖の中の紙がさらに薄くなった合図だ。彼は茶を一口だけ飲み、「控え」と言う。
巻紙には、地名が並ぶ。西、堀川、寺町、そして「二」。数字は一つだけ。小さな丸が右上に付く。符牒。さらに別紙に、短い文。「卯の刻、鐘の後」
鐘が合図。鐘は町中に響く。誰もが聞く音を、誰かだけの合図にするのがいちばん安全だ。俺は紙の行間に、自分の観測を挟む。鐘が鳴ってから、炎が立つまでの時間。油が走る速度。梁が熱を持つまでの秒数。畳の乾燥率。数字が頭の中で組み合わさる。
商人は立ち上がる前に言った。「忘れな」
俺は頷いた。忘れない者は、時々、忘れたふりを首まで被る。
外は風が出ていた。路地の角に、団扇を逆さに吊した家が二軒。夏支度に見せかけた、目印の役目は二重だ。団扇の骨は竹。竹は火に弱い。骨が落ちれば、風は止まる。風が止まれば、炎は上へ行く。
暗くなる前に、一度だけ本能寺の南側を回った。門の前には荷痕が増え、地面の細かい傷が交錯している。塀の影に、短い棒が二本立てかけられていた。棒の端に布。火打石で火を取るための“受け”。誰かがここで、火を起こす。あるいは、起こさないふりをする。
門の前で、旅の坊主とすれ違う。昨日の男だ。鉢は空で、袈裟の裾が少し黒い。坊主は目を伏せ、俺にだけわずかに顎を引いた。挨拶とも合図とも取れる角度。宗派の印は見えない。どの寺にも入れる格好。便利な役回り。
「兄さん、茶を一つ」
茶屋に戻ると、坊主は先回りしていて、湯飲みを手にしていた。俺が注ぐと、坊主は湯気の向こうから言う。「鐘は、いつ鳴る」
「決まった時刻に」
「そうか。なら、決まったことが起こる」
坊主は湯を飲み干し、数文置いて立ち去った。残った湯気に、油の匂いが混じっている。坊主の袖口に、細い染みがあった。油はにおいを隠すことができるが、染みの縁は隠せない。袖が擦れた木の角は、茶屋の柱より硬いところにしかない。
夜が落ち、女将が灯を落とす。俺は最後の片付けをしながら、頭の中の地図をさらに狭めた。西二条の角、祠の細道、団扇の家、油の樽が通った筋。鐘の音が真上からではなく、わずかに西寄りから硬く届く場所。それが俺の立ち位置だ。観測は位置で決まる。一歩間違えれば、風の通り道を見失う。
「新吉」
女将が小声で呼ぶ。「今夜は裏で寝な。表は風が強い」
「はい」
女将は一拍置いて付け加えた。「明け方に湯を足しておくよ。旅の人が、多いだろうからね」
布団に入る前、俺は裏口を少しだけ開けた。空は薄く、星は少ない。風が裏庭の笹を鳴らす。笹の音は細くて、火の音に似ている。薪は太く鳴り、油は短く鳴る。音を覚える。音は温度の輪郭だ。
目を閉じる。数を数える。鐘が鳴ってから、炎が梁を舐めるまで。寺の中庭に風が落ちる角度。障子の桟に沿って走る火の速度。森蘭丸の足運びを、まだ見ぬのに想像する。若い者の足は、迷いの度に一瞬遅れる。遅れがなければ、退路は塞がる。
俺は明け方にそこへ立つ。手は出さない。目だけを出す。見たことを、温度と角度で記憶する。持ち帰るものは一つもない。持ち帰れないことが、唯一の証拠になる。
遠くで、犬がもう一度吠えた。今夜の吠えは、短く深い。誰かが動いた合図に似ている。夜は薄く、京は軽い。
明け方、鐘が鳴る。鐘が鳴れば、決まったことが起こる。
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