第一章 暁の誓ひ
桜の匂いが濃く立ち込める晴れ渡った日。深山邸は国旗をはためかせ訪問者を待ち侘びるように大きく門が開いていた。剪定の儀の時だけ正門は開く。
◆
この日のために多くの侍従たち、出入りの奉公人が磨き上げた白木は滑らかで艶かしいほど。
桜花殿の扉が選ばれた二人の幼い神民の少女によって厳かに開かれる。
少女たちはいつも以上に着飾り、色とりどりの薄絹を重ねた巫女服の如き衣装を纏い頬が桃色に高揚し果実のよう。
◆
桜花殿の室内は白の布が垂れ下がり、詩野がいけた薄紅色を基調とした花々の浮かぶ大きな水盆が置かれている。
常と違い御簾は全て上げられ、陽の光が水盆の煌めきや薄布を透かしていた。
「…今年はご参加される方々が例年の数倍ですって」
浮き足立つ声を抑えたように詩野が言う。
詩野は編み込みを幾つも作り芍薬の簪を挿して髪をあげ、うねりのある黒髪を前髪だけ横に下ろしている。
エキゾチックな肌色と瞳の色によく似合う翠の化粧を目元に施していた。白絹の衣は、詩野の細面と長めの首を活かすような立襟に細かな銀刺繍が入ったものだ。
きっと詩野本人が作ったのだろう。後ろに静かに控える侍女の青花(せいか)はどこか誇らしげである。
「どうしよう…私、うまくお話しできないかも」
隣で緊張した面持ちの琴葉が震えていた。他の侍女に比べて中年の琴葉の侍女の風花(かざはな)が母のようにあれやこれやと世話を焼いている。
琴葉の纏う白絹の神民の民族衣装はつくりは似たようなものだが、詩野とは印象が全く違う。桃色や黄色の細かな硝子飾りが縫い込まれ、明るい赤茶の髪をおろしている琴葉によく似合う。
いつも本人が気にしているそばかすも桃色の頬紅で寧ろ可愛らしくなっている。琴葉を愛する風花の尽力の賜物だ。
穂稀が見てもとても美しい二人。この日を待ち焦がれていたのだろうか。
穂稀もまた雪花が丁寧に縫製したシンプルな白絹の衣を着ているが、着飾る気が起きず簪も挿さずよくすかれた長い黒髪を垂らしていた。
どうしてもと雪花が言うので色白の肌に紅と眦に深い赤の化粧を施してある。二人の会話に入る気にもなれず、ぼんやり座っていた。
◆
巡礼者のように長々列を作り正装をした男たちがやってくる。洋装、和装、軍装さまざまだが皆一様に黒や灰色である。
見目も家柄も申し分ない若者たちなのだろうが穂稀には同じに見えて仕方なかった。
彼らは三人の姫の前に一瞬迷いながら座ってゆく。上から下まで何人もが眺めてゆき、品定めされることに困惑する。
「この佳き日を迎えられたことを、深山邸臣下一同心より寿ぎ、姫君たちがつつがなく縁を結べますようお祈りいたします。
それではこれより剪定の儀とさせていただきます…」
神官長が厳かに告げる。静まり返った御堂で各々盃を掲げる。しばらく男性同士でぽつぽつと言葉の掛け合いが続き、その合間で三人に時折声がかかる。
琴葉が震える手で持った盃がころん、と転がった。あっ、と琴葉が泣き出しそうな声を上げた。少し年上の青年が拾い上げ手早くハンカチを差し出す。
「服は汚れませんでしたか」
「……ありがとうございます!わ、私、ごめんなさい、緊張してしまって…!」
「…お気になさらず。貴方方のための会ですからね。僕は雛森…雛森修士といいます」
琴葉の頬に血の色が戻り場の緊張も薄らいだ。修士は琴葉を熱っぽく見つめる。栗毛の髪と涼やかな顔は女性に人気が高そうだ。琴葉は終始、顔を真っ赤にしていた。
一方、詩野は列席の男性たちに向かい、堂々と話をしている。
「妻が夫を支えるのはこの国では大切な責務です。家を整え、慎み深く夫を待ち、務めを欠かさぬこと——それは国を支えることだと信じております」
口々に賛同され、詩野はにこやかに一礼する。見目も良く聡明、そして従順そうな詩野は人気が高そうだ。
その目の前で眼鏡の若者が緊張紛れになみなみと酒を注がれた杯を煽った。直後、立ちあがろうとしてふらりと倒れかける。
咄嗟に詩野が立ち上がって支えた。
「…あら、貴方さま、急にそんなたくさんお飲みになるから…」
少し狼狽えたような詩野。眼鏡の若者は緊張しきって逆に詩野の肩を強く握った。
「あっ…失礼しました!僕、僕は光井 和泉です!官僚です…!あ、あ、えっと…!
詩野さんのようなものすごく綺麗な人を見るのは初めてで…!その…緊張してしまって…」
詩野は和泉が真っ直ぐ目を合わせてはっきり言った言葉に、顔を真っ赤にして押し黙った。
二人共立ったまま固まっている。侍女の青花が引き離すまでそのままであった。
促されて着席した和泉は忙しなく襟元を整えるが耳たぶが赤く染まりそわそわと落ち着きがない。詩野もまた頬を染め、代わる代わる来る求婚者の言葉に心ここに在らずという状態になってしまった。
穂稀は微笑ましくその様子を見守った。
人の輪の外側で赤銅色の洋装の男性が人に囲まれて微笑んでいるのが見えた。穂稀は彼はこの場において主役であるはずの少女はより目立っているように思い、不思議そうに首を傾げた。
◆
本殿の中の暑さを理由に穂稀はひっそり庭へ出た。けぶるような桜吹雪が舞い散る。濃い桜の匂いが甘く苦しく薫る。
石畳を歩き、白木の壁に身をもたせかける。
風が少し冷たい。男たちに値踏みされる現実も、嬉しそうな友人の幸せを素直に喜ぶことが出来ない心も、お勤めの時に出会う民と今日出会った男たちの明白な貧富の差も。
何もかもが穂稀の中で膿んでいた。
胸の底から溢れた言葉が自然に口元へ上がってくる。
「紅土染血民声哭——
栄華如夢国未安
(紅い土は血に染まり、民の声は泣き続け、栄華は夢のように消え国はいまだ安らがぬ)」
古い響きはしん、とした庭に殊更響いた。と、すぐ背から応える声が上がった。
「新風吹拂千古塵——
一志花開照長宵
(新しい風が千古の塵を祓い、一つの志だとしても花開き長い夜を照らすだろう)
穂稀が驚いて振り向けば先程の赤銅の洋装の男が返歌を口にしていた。
彼は桜花殿の屋根の下の影から穂稀の方へ歩を進める。外の光を受けて一瞬だけ眩しそうに目を細める。穂稀は目敏くそれをじっと見た。
彼は盲目だ、と無意識に——そう判断しかけて、彼の動きの確かさに混乱が生じる。
「……わたし以外誰もいないと思い込んでいて…」
「…可憐な声と素晴らしい詩に誘われました」
特に言葉を続けるわけでもなく佇む。艶のある黒髪を撫で付け、高価な生地の赤銅の洋装を一部の隙もなく着込み、涼やかな端正な顔付き。
穂稀は彼が盲目であろうことを知って、恵まれた生まれの男ばかりと冷めた目で見ていた己にじわじわと恥ずかしさが込み上げていた。
「——見えぬことは、見えぬことを隠すことは、苦しくはないのですか」
口をついて出てしまったあまりに不躾な言葉に穂稀は後悔した。しかし彼は全く気にもせずに答える。
「苦しいと感じたことはありません。私はこの程度の苦難に膝を折るようでは到底成し遂げられない目的がありますから…」
半ば独り言のように笑う。
「緋乃宮 明嗣(ひのみや あきつぐ)といいます。生まれ持った魔力量が多く、溢れてしまい生来弱視でしたがここ数年は全盲になりました。ただ、魔力のお陰で大抵のことは感じる事が出来るので生活に支障はありません」
優しげな言い方に少しほっとしつつ、穂稀は内心動揺していた。緋乃宮家はこの国で最も力のある歌族(かぞく)であり魔石事業の最大手であり…命を落とした母の勤め先でもあった。
「ご存じでしょうけど、穂稀と申します」
明嗣がすっと手を伸ばす。困惑しながら穂稀は握り返した。
「…正直に申し上げると、私は神民の力に興味が湧かないまま父に命じられここに来ました。
しかし、貴方の国を憂う聡明さに興味が湧きました。貴方のことをどうか教えて下さい」
穂稀は目を見開いた。
穂稀は困惑したが、押し黙ったままにこやかに沈黙し話すのを待つ明嗣に気圧され、仕方なくぽつぽつと自分の身の上や悩みを語った。
神民のこと、自身の志や努力する日々のこと、未来への不安や迷い、そして魔力枯渇で亡くなった母の記憶——。
「…申し訳ありませんでした。穂稀さん。私如きに謝られても何も変わらないとは思いますが…」
母の死の話に、唐突に深く明嗣が頭を下げた。
「あの、あ、明嗣さまのせいではございませんよ…!幼くってわたしも詳しく覚えてもおりませんし…」
しかし尚も頭を下げたまま明嗣は続ける。
「我が祖父は戦後、復興の為にこの国で最初に魔石製造業を立ち上げました」
頭を上げ真っ直ぐ穂稀の方を向く。
「事業の問題点は最初から祖父は知っていた…それでも祖国再興のために手を付けました。その罪は私もよく理解しているつもりです。
ですから、私には貴方と貴方の母上に謝らなければならない理由があるのです」
潔く、そして強く言い切る明嗣の姿に何故か胸がいっぱいになる。
必死に言葉を探す穂希の手を、壊れるのを恐るかのようにそっと明嗣が握った。
「私は、我が一族が広めた闇を人生を賭して祓うつもりです。
——そのために私は、生まれてきたのですから」
二人は見つめ合っていた。
責務に対する明嗣の覚悟は、一個人にとって重たいもののはずだ。それでも心の底から全く迷いなど一切ない声だった。
見えないはずの明嗣の瞳が意思を持って穂希を射抜いていた。
穂稀の胸にあの言葉が響く——苦しいときほど、自分の力を人のため、世のために。
穂希は迷子のように不安だった心が静かに鎮まってゆくのを感じた。彼の言葉が海のように深く染み込む。
(わたしの生まれた意味は——)
彼女は手をに握ったまま半歩、明嗣に寄った。
「その御心に、わたしは——」
言葉が途切れザァッと大きく吹いた風が、幹を揺らし桜の花びらを散らせる。
言葉もなく見つめ合った。穂稀の黒く長い髪が明嗣を包む。
穂希は両手でぎゅっと明嗣の手をしっかり握った。
風が止む。
あたりを眩く激しい白い光が包んだ次の瞬間には、穂希の髪がぶわっと立ち上がった。
その光が終息した瞬間、明嗣は見えないはずのものが輪郭を持つのを感じた。
桜の薄紅、白木の温もり、石畳に落ちる光と影のコントラスト…そして目の前に立つ華奢な少女の影。
明嗣は目を見開き、吸い込むように息をして静かに呟いた。
「……貴方は、美しい」
零れ落ちた呟きに穂希は目を見開き、すぐにくすりと笑った。
「…桜よりも?」
「桜の花よりも…」
「こんなにも咲き誇っているのに?」
「…ええ」
「変わったひとね」
二人は顔を寄せ合っていつの間にか笑っていた。無邪気な幼子のように手を取り合って。
穂稀は背に咲いていた花がなくなっていることが感覚的に分かった。今日会ったばかりの彼に一番大切な力を使ったことは、あまりに突然ではあるものの、必然だと感じていた。
「私と結婚してくれますか」
暫くして、ぽつりと明嗣が呟いた。真剣な声色に戸惑いながらも穂稀もゆっくりと頷く。
「…けして後悔はさせません。
それから…神命力を使って下さらなくても、私は貴方に惹かれていましたからね」
穂稀は顔に熱が集まるのを感じた。さらさらと二人の黒髪が風に揺れる。繋いだ両手が熱く感じる。
「——わたしはただ、導かれるように、貴方にこの力を使うべきだと感じたのです」
「…真に夫婦になるには、私の事を愛してもらえるようにならねばなりませんね」
明嗣の熱っぽい視線につい穂稀は目を伏せた。
「お手柔らかにお願いします」
見つめ合う二人の永遠のような、一瞬のような、そんな時間が過ぎる。桜花殿の方からは音楽が流れ、桜の花びらがちらちらと舞い散ってゆく。
「…必ず迎えに来ますから」
「…はい」
穂稀たちが連れ立って桜花殿へ戻るとしたり顔の雪花が目配せをした。侍従長や神官長は式にほぼ不在だった主役に複雑そうな表情だ。
遠くにはにかむ琴葉とぎこちなく笑う詩野が見えた。
明嗣は穂稀の手を取る。
「…緋乃宮の名に誓って、貴方のことを大切にいたします」
突然の甘い声に固まった穂稀に柔らかく微笑むと、明嗣は何やら神官長に告げ別室へと移って行った。
穂稀は名残惜しいような早く終わって欲しいような矛盾した落ち着かなさのまま雪花に促されて私室に戻り気付くと深い眠りに落ちていた。
翌朝、新しい縁組を告げる侍従長の言葉に少女らは歓喜の声をあげ、当人たちは耳まで赤く染めて俯いていた。
天つ風の嫁入り ―緋ノ国縁譚 壱― あいまいにあい @imainii
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