黄泉を行く船 ―帆を張って胸を張って生きろ―

とじぶた。

第一章

プロローグ


  ああ、どうしてこんなことになったのだろう。



 ちょっと前まで俺は自分の将来の進路について悩んでいた普通の高校生だった。



 春休みが終わり、新学年を迎えたばかりの教室で、数少ない友達たちと『また同じクラスだな!これからもよろしく!』なんて、くだらない会話をしていた。



 いや、くだらない会話をしていたは・ず・なんだ……



 そんなことを思いながら、閉じていた瞼をゆっくりと開ける。 



 ゆっくりと目を開けるとそこに広がっていたのはいつも通りの教室の風景ではなく、どこまでも広がる青い海・だった。そう周囲には海・しかなかったのだ。



 ふと空を見上げると頭上にはカモメのような白い鳥が大きく羽を広げゆっくりと旋回しているし、前方から吹く風は温かくて、潮の香りがする。



 そのすべてが否応なく、目の前の光景が現実だと教えてくる。



 俺は今、どこまでも広がる青い海を真っ白な線を引くように船で進んでいる。



 もっと詳しく言えば、水飛沫が雨のように巻き上がる船の上で、俺は邪魔にならないように頭を抱え、”怪物”に狙われないように甲板の隅で縮こまっていた。





 ※※  ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※





「クラーケンだ! お前ら絡みつかせるな!!」



 腹まで響く大きな号令が聞こえた。声がした方に視線を向けると角の生えた巨躯の男が血に飢えている獣のような獰猛な笑みを浮かべていた。棍棒のような武器を荒々しく振り回し、甲板にまとわりついた触手を薙ぎ払っていた。



 ――島が意志を持って船を襲っている。 



 そう錯覚するほど巨大な海の怪物が俺たちを水中に引きずり込もうと船の左舷に張り付いている。



 波の間から見える大きな触手の一振りで船員おとこたちが吹き飛び、その衝撃で船体が左右に激しく揺れ、何かが軋んだような音が鳴る。今、船が転覆していないのが奇跡に近い。この血が凍るほど恐ろしい光景を前にした俺は再び目を閉じ、目の前の現実から逃避をしようとしたそのとき――



「おー、これは壮観ですね。ではボクも行きますか」



 そんな場違いな呟きが真横から聞こえた。


 いつの間にか俺の隣には青年が立っていた。青年は紫陽花のような着物を着ていて、羽織には羽搏はばたく寸前の鳥がデザインされた刺繍が入っている。そして、腰に太刀を佩はいた美しい青年だった。



 その青年はカッという木と木を打ち合わせたかのような軽快な音を鳴らし、船の甲板から飛び降りた。彼の姿はまるで無邪気な子供がプールに飛び込むかのようだった。そして、そのまま海にふんわりと着水すると、海・面・に波紋が広がる。だが、次の瞬間――彼は目まぐるしく揺れる海面を自由自在に跳ねまわり、勢い良く触手を切り落とした。



 青年が切り落とした触手はそのまま深い海に飲まれて消えた。



 甲板から見下ろしてもクラーケンの全貌が見えない。青年もクラーケンも何も映さない黒い海面が、この海の深さを証明しているみたいだった。俺がそんな現実味がない情景に見惚れていると……突如として海が吠えたかのごとき衝撃が船全体を襲った。ぐらぐらと左右に激しく揺れる船の上で船員たちは振り落とされないために必死となって近くにあったロープにしがみく。   



「このままだと船が先に沈んでしまいますね。どうしますか船長?」



 クラーケンが引き起こした激しい揺れを気にする様子もなく、西洋の甲冑に身を包んだ人物がその恰好に似つかわしくない綺麗な声で船長に指示を仰いだ。巻き上がる海水の雨に濡れながら甲冑を纏った人物が顔を向けた方向には湾曲したサーベルを右手にクラーケンと対峙する一人の少女がいた。



 船長と呼ばれたその少女は素早く周囲を見渡し、静かに息を吸い込むと大きく声を

張り上げた。





「ヒビキたちはそのまま触手を引き剥がして! このまま突破するのよ!」



「正気か? この船の悲鳴が聞こえてないのかよ。クラーケンの触手を引き離すよりも先に、この船が沈んじまうぞ!」



「安心しなさい、シュテン! 私がいる限り、この船は絶対に沈まないわ!」



「……ッ、おい! 聞こえたか、てめえら! 船長の命令だ! さっさと動け!」





 少女の声に共鳴するかのようにガラの悪い乗組員たちが怒鳴るような叫び声を上げる。ビリビリと空気が震えたせいで耳に痛みを感じる。そんな船員たちを少し離れた外側で見守る……つまり、船の隅っこで身を潜めて隠れていた俺をさっきどまで触手を相手に棍棒を振り回していた巨躯の男が目敏く見つけた。





「おい、ジン何さぼってやがんだ。お前もはやく働け!」



「――ッ、あーくそ、やってやるよ! おっさんは触手の相手でもしてろ!」





 覚悟を決め、近くに置いてあった大砲の玉を抱え走る。だが不思議なことに恐怖はなく、むしろどこか満ち足りていた。




 もし昔の俺がこんなことを言っても信じないだろう。いや、今もどこかですべて夢なんじゃないかと疑っている自分がいる。それほどまでに馬鹿げたことが目の前で起こっていた。どうしてこうなったのかは俺にはわからない。だが、きっかけとなった少女には心当たりがある。




 大砲の玉を砲撃手の男に慎重に手渡し、大砲を装填する作業の間。船員の中心でだれよりも楽しそうに笑う船長しょうじょが視界に入った。その少女の笑顔に影響されて俺も思わず笑みをこぼしていた。




 ああ、そうだった。”海賊の娘”と呼ばれているこの少女に憧れを抱いたその日から俺の冒険は始まったんだ。


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