夏目アキ短編集「16」

夏目アキ

羅生門

 ある日のことであった。雨はしんしんと降り、静謐な底音を潜ませながら大地を叩きつけていた。下人は羅生門の下に佇み、ほとんど石像のごとき沈黙に沈んでいた。頬を伝い落ちる滴は、もはや雨水ではなかった。それは重々しく、音もなく彼の精神へと沈降していった。


朱雀大路の中央に鎮座する羅生門は、碧黒を孕んだ陰鬱な空を背負い、いっそう威容と荒廃を際立たせていた。この広大な門に、今息づく者は下人ただ一人である。都の心臓部にほど近いがゆえにこそ、その破滅の景色はより哀切に、より痛ましく映えるのであった。


ここ四、五年、京の都は災厄に苛まれ続けた。地を震わせた大地震、空を焦がした大火、そしてそれらが連鎖し招いた飢饉。かつて雅の気配に満ちていた都は、いまや重ね塵に覆われた古壺のように沈黙し、ひび割れたその姿で衰微の事実を滲ませていた。あれほど煌びやかだった京都御所も、今は荒れ果て、瓦解寸前の姿を晒している。往来に満ちていた市女笠も揉烏帽子も消え失せ、朱雀大路に棲むのは盗人と野犬ばかりとなった。盗人どもは、仏恩を顧みることなく、地蔵の首を落とし、仏像の金箔を剥ぎ取り、それを糧として辛うじて命を継いでいる。


下人の額には、紫紺に沈む痣がくっきりと刻まれていた。守銭を貪る主人を諫めた折、その怒りを買い、打擲された痕である。彼は湿り気を帯びた空気の中で、己が過日の無力と愚かさを反芻しながら、ただ黙然と自責の雨に打たれていた。


いつしか雨脚は止んでいた。しかし胸の奥底に渦巻く虚無の泥濘のせいで、彼の認識には常に遅れが生じていた。気がつけば、黒ずんだ烏の糞が衣にこびりついている。日輪は西へと沈み、遠い雲を血のような茜で染め上げていた。


その薄明の中で、下人は己の不甲斐なさを噛みしめていた。後悔と羞恥は骨の髄まで染み込み、静かに彼を侵蝕してゆく。その澱から芽吹いた無常の影は、やがて彼の首を締めあげる縄へと変じる――誰に命ぜられるでもなく、己自身の手によって。


羅生門の瓦縁から、なお雨水の滴が落ちていた。その規則的な律動は、奇妙な安堵となり、彼の意識から抵抗を奪ってゆく。


その刹那、彼の脳裏に「餓死」という言葉が、硬質の槌のように叩き込まれた。どれほど精神が擦り切れようとも、飢えは容赦なく、生への執着を露骨に呼び覚ます。


彼は今、崖の縁に立っていた。わずかな決断で容易く奈落へ崩れ落ちるほど、その精神は危うく揺らいでいた。野良犬のように荒れた姿の下人は、己が正義を疑いながらも否定しきれず、また肯定もできず、その狭間で窒息していた。それは来るかどうかも分からぬ未来の霧へ向けられた、深い無常の感情であった。


ゆえに、盗人となる選択を自ら退けようとすればするほど、彼の正義は錆び、崩れ落ちていった。それは羅生門そのものの姿と酷似していたため、薄闇の中で並び立つ下人と門は、まるで互いの残影であるかのように、奇妙な調和を成していた。


思索を胸底に沈めたまま、下人は羅生門の周囲を彷徨った。この一日をいかに終わらせるのか、どこか身体を横たえられる場所はないのか。思案というより、もはや惰性に近い歩みであった。


ふと視界の端に、腐れかけた梯子が映った。三段目と七段目が欠け、骸骨のように痩せた木肌を晒している。門の上には、どうせ屍しかない――そう思う。だが次の瞬間、彼の足はすでに梯子の第一段に掛かっていた。それが好奇心ゆえか、あるいは疲弊しきった精神が判断を拒んだ結果か、判じがたい。ただ一つ、腰の短刀の鞘が月光を拾い、冷えた銀の線を描いた。


足は微かに震えていた。背は自然に猫背へと縮こまり、呼吸は浅く速い。胸の奥で心臓が暴れ、手にも震えが伝わる。面皰は炎のように疼き、汗が痛みを滲ませる。足が一歩、後ろに逃げた。正気が戻りかけた証であった。しかし、それも刹那、彼はまた前へと進んだ。


その時だった。


弱々しい揺らめく火が、門の上方に浮かんでいるのに気づいた。それは月光より強く、しかし夜の闇よりなお深い色を帯びていた。


「誰か……いるのか?」


思考が否定を先に抱く。


いや、いるはずがない。

いや、いてはならぬ。

大丈夫だ。大丈夫だ……。


念仏にも似た言葉を心内で繰り返す。焦燥は汗腺を容赦なく開き、手のひらから滝のように湿りを溢れさせた。


下人は、這うように梯子を上りつめた。目はすでに獣染み、鼠を狩る野良猫の鋭さを帯びていた。


そして――視界が開けた。


灯火が揺れるせいで、本来なら闇に溶けるべきものが露わになっていた。そこには、一体の裸の女の死骸が横たわっていた。目と目が合った――そう錯覚するほど、眼窩は深く、虚ろであった。


瞬間、眩暈が襲う。腐臭は鼻を裂き、肺へ突き刺さる。死ではなく、腐敗そのものがひとつの生き物として彼へ噛みついたようであった。


視線を巡らせると、着物を着せられた死骸、裸の男女の死骸、毛皮を剥がされた狸の死骸、鼠、そして塵芥虫が這い回る死骸が、無造作に散乱していた。どれも原形を辛うじて残していたが、生と呼ぶにはあまりに遠く、死と呼ぶにはあまりに執念深く留まっていた。


臭気はさらに濃くなり、まるで羅生門そのものが腐り落ちているかのようであった。瞼は鉛のように重く、感覚器官は泥濘に沈むように曖昧になった。思考は形を保てなくなり、世界がとろけはじめる。


そして闇が降りた。


下人は夢を見た。輪郭は曖昧だが、ただ一つだけ確かだったのは空が澄みわたった快晴であったこと。


やがて、彼は目を覚ました。


目が覚めた契機は、何とも形容し難い、湿った骨の軋むような音であった。眠りと意識の境界を揺らすその音は、単なる物音とは異なり、生者の意志を孕んだ「気配」そのものであった。

その瞬間、下人は誰かがいると確信した。


彼はそっと身を縮め、瓦礫の陰から音の方角を窺った。月は厚い雲に覆われ、光をひと筋も漏らしていない。闇は濃く、輪郭も距離も曖昧な世界の中、ただ炎だけがひそやかに揺れ、そこに佇む黒い影の輪郭をぼんやりと浮き上がらせていた。


その影は老婆だった。


老婆はうわ言のように意味の判然としない言葉を呟きながら、死骸の黒ずんだ髪を一本一本、まるで宝石を摘むような慎重さで抜き取っていた。光に照らされた手は枯れ枝のように痩せ、しかし執念深い獣の爪のように震えながら動き続けている。


その光景を認識した途端、下人の姿勢は猫のような縮こまりから、怒りに燃える獅子のそれへと変貌した。胸底で燻っていた恐怖や猜疑の影は、一瞬にして吹き払われ、代わりに粗削りなまでの激情が溢れた。


それはもはや好奇や戸惑いといった生ぬるい感情ではなく、怒り、断罪、そして復讐にも似た正義感であった。


腰の短刀の鞘は、まるで持ち主の血潮を吸ったように熱を帯びていた。


もし今さら饑死するか盗賊となるかの選択を迫られたなら、下人は迷いなく前者を選んだであろう。

もはや倫理や名分ではなく、死骸への哀悼が、彼の行動原理になっていた。


次の瞬間、下人は炎の前へ飛び出した。刀先は迷いなく老婆の喉元へと伸びる。


「私は検非違使の庁の役人だ。」


その刹那、雲間が裂け、月光が現れた。光は冷たい氷片のように下人の頬を照らし、その表情から迷いや弱さを削ぎ落としていった。


老婆は驚愕の声すら出せず、転がるように倒れた。その褪せた衣服と、妙に華やかな古びた模様とが、下人の神経を刺すように苛立たせた。


「逃げるな。首を刎ねる。」


ようやく老婆は頭を垂れ、震える声で言った。


「わ、私は盗人ではありませぬ、ただ、夫の伸びた髪を整えて、おっただけにござります、どうか、どうか命だけは命だけは」


その哀願はあまりに惨めで、情けなく、そして薄っぺらであった。

激情は、その瞬間ふっと消えた。


下人は刀先を揺らしながら、低くしかし温度のない声で告げた。


「私は検非違使などではない。」


老婆は「きゃっ、きゃっ、きゃっ」と、烏に似た掠れ声で笑った。その笑い声は羅生門の闇に染み込み、いつまでも耳の奥で鳴り続けた。


老婆は言葉を継いだ。


「わしはただ、この死骸の髪で鬘を作ろうていただけじゃよ。こやつらはのう、生前、罪深い連中ばかりよ。今抜いた髪の持ち主は、蛸の足の本数を誤魔化し、売っておった奴だ。あそこに転がっとる女は、蛇を四つ裂きにして鰻と称し、庶民に売りつけておった。そやつらは多くを欺き、苦しめ、生きていたならば、もっと酷いことをしたであろうよ。うせねば、飢えて死ぬだけ。ならば、わしのやっていることなど悪とは言えまい。」


老婆の言葉は、毒でも真理でもなく、ただ薄寒い現実の一欠片にすぎなかった。


紫がかった夜明けの空が、ゆっくりと門と死骸と下人を照らしはじめる。その色は、不気味なほど彼に似つかわしかった。


下人は短く呟いた。


「ああ。」


それが肯定か否定か、自身にも分からなかった。


次の瞬間、短刀が動いた。

返り血が飛び散り、刃を赤黒く染めた。


夜が完全に明けた頃、羅生門には首を失った裸の老婆の遺骸に、烏が群がっていた。


そして、下人の瞳には

もはや迷いでも恐怖でもない、硬く鋭い光が宿っていた。無論、その瞳を見たものはいなかったのだ。

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