2話 名前を呼ばれた日

──放課後の部室。



「ねえ、今日の水、お願いしていい?」



部室に入った瞬間、萌が当然のようにペットボトルを私に押しつけてきた。


まだキャップすら開けていない新品のボトル。


冷気が指先に伝わる。



「うん、わかった」



反射的に答えてしまう。


本当は「一緒にやろうよ」と言いたいのに、声が喉で丸まって消えていく。


断れない。


そういう性格だと、自分でもわかっている。


入部してまだ数日。


私たち一年の仕事は、タオルを並べたり水を用意したり、練習の補助ばかり。


覚えることは多いけれど、やること自体は難しくない。


最初は、萌と一緒に動こうって話していたはずなのに――。


気づけば、彼女は先輩たちと談笑したり、練習を横目にスマホをいじったりしていることが増えていた。


その間に自然と、水を入れるのも、タイマーを押すのも、雑巾を用意するのも・・・。


ぜんぶ、私の役目になっていた。



(・・・まあ、いい。私にできることなら)



小さく息を吐いて、言葉にならないため息を飲み込む。


手にしたペットボトルを抱えて、体育館へ向かった。





コートでは、先輩たちが真剣な表情でボールを追っていた。


パスの音。


ドリブルのリズム。


シューズが床を擦る乾いた摩擦音。


体育館全体が、熱を持ったリズムで動いている。


ベンチ脇に水を並べながら、私はふと手を止めた。


この音に包まれると、不思議と自分まで身体が熱くなる。


さっきまで部室で感じていた孤独感が、少しだけ和らいでいく気がする。


たとえ部員ではなくても、この空気の中にいられることが、嬉しい――そう思った。


そのときだった。



「ありがとう、長谷川さん」



不意に名前を呼ばれ、心臓が強く跳ねた。


驚いて顔を上げると、そこに立っていたのは結城先輩。


体育館の光の中で笑う横顔が、あの日の記憶と重なる。


差し出したボトルを受け取るとき、指先がかすかに触れた。


ほんの一瞬。


けれど胸の奥で、はっきりと「どきん」と音がした。


結城先輩は気にする様子もなく、軽く笑ってから再び仲間の輪に戻っていった。


けれど――。


その笑顔と声は、熱を帯びて心臓の奥に残り続けた。



「え……」



息がもれた。


頬が一気に熱くなる。


耳の裏まで真っ赤になっていくのが自分でもわかる。


さっきまで冷たかったペットボトルの感触が、急に指にまとわりついて重くなった。



(いま……名前を呼ばれた?)



頭の中で何度も反芻する。


“長谷川さん”――ただそれだけの言葉なのに、特別な響きを持って胸に刻まれる。


マネージャーになってから初めて、先輩に呼ばれた私の名前。


たった一言なのに、世界が一瞬で色を変えた。





その後の練習は、まるで夢の中みたいだった。


ボールが弾む音も、コーチの笛も、遠くにあるように感じる。


私の意識は、結城先輩の姿を追ってばかりいた。


速いドリブル。


視線を鋭く走らせながらのパス。


跳躍の瞬間にふっと力を抜いて放つシュート。


どれも無駄がなく、自然で、でも確かに美しい。



(やっぱり・・・綺麗だ)



入部見学の日に感じたあの言葉が、また胸の中に浮かんでくる。


けれど今日はそれだけじゃない。


そこに“私を呼んでくれた声”が重なって、心臓の奥がずっとざわめいている。


萌が隣で「すごい! 今の見た?」「さすが結城先輩、エースって感じだよね!」と声を上げる。


私はただ頷くだけ。


声を出したら、胸の動揺まで零れてしまいそうで。



⸻練習後。



汗と熱気がこもった体育館で、私と萌はタオルを集めていた。


籠いっぱいになった布を抱える腕にずしりと重さがのしかかる。


でも不思議と苦じゃなかった。


――むしろ、心の中に燃える熱が支えてくれるようだった。



「翠ちゃん、ありがと! 私、先輩に話しかけてくるね!」



萌はそう言って、また先輩の輪に駆けていった。


私はその背中を見送りながら、胸の奥に手を当てる。


さっき呼ばれた“長谷川さん”という一言。


それは萌にも、他の誰にも聞こえていたはずなのに――なぜか私だけの宝物みたいに思えた。


夕方の光が体育館の窓を透かして差し込む。


埃がきらきら舞う中で、私はひとり、小さく息をついた。



(明日も・・・呼んでくれるかな)



そんな期待を抱く自分が、少し怖かった。


でも同時に、その怖ささえ甘くて、心の奥にそっと沈んでいった。


──その日、私は初めて「自分がここに居てもいいのかもしれない」と思えた。








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