沈黙の言葉を拾う人

MARC001

沈黙の言葉を拾う人

光也こうやが玄関のドアを開けたとき、土間には微かに油と土の匂いが混じっていた。懐かしく、そして少しだけ息が詰まる香りだった。


 木造の家は昼でも暗く、リビングに続く廊下には古びたカレンダーがかけられている。そこには、もう半年以上めくられていない月が貼りついていた。


 「ただいま」


 そう声をかけると、奥から足音が一つ分だけ聞こえた。母か──いや、美里みさとかもしれない。


 妹は大学を辞め、地元に戻ってきて半年になる。表向きは「家業の手伝い」ということになっているが、父が他界してからこの家に残る理由を誰も深く聞こうとはしなかった。


 光也自身、東京の職場から有休を使って久しぶりに帰ってきた身だ。妹と話すのも、半年ぶりになる。


 リビングに入ると、美里が台所に背を向けたまま、水を入れたやかんを火にかけていた。


 「……帰ってたんだ」


 声は変わらない。けれど、以前よりも少しだけ低くなった気がした。


 「うん。こっちは変わりない?」


 「特には」


 そのまま、やかんの中で水が揺れる音がしばらく続いた。


 沈黙は、優しさとは少し違う重さを持って流れていた。


 翌日、美里と光也は仏壇の掃除を済ませたあと、縁側に座ってアイスを食べた。八月の風が、少しだけ秋の匂いを混ぜて吹き抜ける。


 「結人ゆうとが帰ってきてるよ。昨日スーパーで会った」


 光也が言うと、美里は少しだけ顔を上げた。


 「そっか。あの人、まだ夢、追ってるのかな」


 「舞台やってるって。東京で。小さい劇団だけど、地道に」


 美里はアイスをひとかじりし、溶けた部分を指で拭った。


 「昔、私も一緒に東京行こうかと思ってた。大学に入るだけじゃなくて……もっと先まで」


 「知ってた」


 「でも、やめた」


 風鈴の音が、ひとつだけ鳴った。


 その夜、母が寝静まったあと、美里はぽつりとこぼした。


 「お母さん、たぶん私のこと、責めてるんだと思う」


 「そんなこと……」


 「言葉にはしないけどね。わかるよ、そういうの。空気っていうか」


 光也は返す言葉を探したが、見つからなかった。妹が何を手放し、何を守ってきたのか、ようやく想像できるようになったばかりだった。


 次の日、光也は母に聞いた。「美里のこと、何か思ってる?」


 母は小さく首を振り、そして静かに言った。


 「美里が大学に行ったのは、自分で決めたこと。でも、戻ってきたのも、きっと理由があるのよ」


 「うん」


 「私は、ただ見てるだけ。あの子がで、また歩き出せるようになるのを」


 夕方、美里は縁側でノートを開いていた。そこには、細い字でびっしりと文章が綴られていた。


 「なに書いてるの?」


 「ただの、日記。……というか、独り言」


 「声に出せない分、書いてる?」


 「うん。書いてると、ちょっとだけ、自分のこと許せる気がするから」


 その言葉に、光也は少しだけ笑った。


 「じゃあ、拾う人がいなくても、残すんだな」


 「うん。いつか、誰かに届くかもしれないし」


 そのとき、風がページを一枚だけめくった。


 書かれていたのは、たった一行の問いだった。


 ──私は、もう一度夢を見てもいいですか?


 光也はページをそっと閉じ、妹の横に並んで座った。


 沈黙は、もはやただの静けさではなかった。

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