第6話:雑用の日々、侮辱と冷静

 ゴブリン洞窟の遠征から数週間が経過した。

 俺の扱いは、以前にも増して酷くなっていた。


「おい雑用! 靴が汚れてるぞ! 今すぐ舐めて綺麗にしろ!」


 朝の訓練を終えたタケルが、汗まみれのブーツを俺の顔の前に突きつけてくる。

 周囲にいた騎士たちが、下卑た笑い声を上げた。


(やれやれ、小学生レベルの嫌がらせだな)


 俺は無表情のまま布を取り出し、黙って彼のブーツの泥を拭き取る。

 内心では、彼の精神年齢の低さに呆れるばかりだ。

 こんな挑発に乗るだけ時間の無駄だ。


「ちっ、つまらねえ奴」


 タケルは面白くなさそうに舌打ちすると、どこかへ行ってしまった。


 彼らは、ゴブリン洞窟での失態を俺のせいにしたことで、味を占めたようだった。

 訓練がうまくいかないのも、食事の味が気に入らないのも、天気が悪いことさえも、全てが「無能な雑用係」である俺のせいにされた。


「カイトの用意したポーションは質が悪い。だから私の魔力回復が遅れるんだ」


 レンは、自分の魔力コントロールの未熟さを棚に上げ、俺が買ってきたポーションに文句をつけた。


「カイトさん、ごめんなさい。洗濯物がまだ乾いてないの……。これじゃあ、今日の午餐会に着ていくドレスがないわ」


 アカリは、俺が何度「今日は湿気が多くて乾きにくいです」と説明しても聞かず、悲劇のヒロインぶって俺を責めた。


 彼らの言動は、日に日にエスカレートしていく。

 それは、自分たちの未熟さや不安から目を逸らすための、幼稚な責任転嫁に過ぎなかった。

 俺という「サンドバッグ」を叩くことで、かろうじて彼らの脆弱な自尊心は保たれているのだ。


(まるで、ブラック企業の縮図だな)


 無能な上司ほど、部下に責任を押し付け、罵倒することで自分の立場を守ろうとする。

 彼らはまさにそれだった。

 異世界に来てまで、前世と同じような光景を見せられるとは思わなかった。


 だが、俺の心は驚くほど穏やかだった。

 かつての俺なら、理不尽な扱いに心をすり減らし、絶望していたかもしれない。

 しかし、今の俺には「いつでもここから逃げ出せる」という絶対的な切り札がある。

 そして何より、神様にもらった『絶対不可侵領域』が、精神的な防護壁としても機能しているようだった。

 彼らの侮辱の言葉は、俺の心に届く前に霧散していく。


 俺は、彼らの幼稚な嫌がらせを、まるで対岸の火事のように冷静に眺めていた。


「おい、聞いているのか! この役立たずが!」


 ある日の夕食時、レンが俺の胸ぐらを掴んで怒鳴った。

 原因は、スープの味が彼の好みではなかった、というだけのことだ。


「申し訳ありません。すぐに作り直します」


 俺が平坦な声でそう答えると、レンはさらに苛立ちを募らせた。


「その態度が気に入らんと言っているんだ! お前には反省というものがないのか!?」


「……どのようにすれば、ご満足いただけますか?」


「なっ……!」


 俺の淡々とした問い返しに、レンは言葉を詰まらせた。

 彼は俺が恐怖に震え、涙ながらに謝罪することを期待していたのだろう。

 だが、俺の目には何の感情も浮かんでいない。

 ただ、そこに「面倒なタスク」があるだけだ。


「もういい! お前の顔も見たくない! 下がれ!」


 レンは俺を突き飛ばすと、荒々しく席に着いた。

 俺は黙って一礼し、その場を後にする。


 自室の物置部屋に戻り、俺は小さく息を吐いた。


(そろそろ、潮時だな)


 彼らの不満と傲慢さは、もはや限界点に達しつつある。

 あと一押し。

 彼らが自ら「お前はもういらない」と切り出すような、決定的な出来事さえあれば。


 俺の離脱計画は、最終段階に入ろうとしていた。


 そのために、俺は日々の雑用をこなしながらも、水面下で様々な準備を進めていた。

 街へ買い出しに出るたびに、少しずつ携帯食料や水を買い溜め、物置部屋の床下に隠しておく。

『万物創生』のスキルで、麻痺効果のある毒草から抽出した成分を塗り込んだ、小さな針を数本作っておいた。これは、万が一の時のための保険だ。


 そして、最も重要なこと。

 それは、彼らの「弱さ」を、さらに助長させることだった。


「タケル様、本日の訓練、お見事でございました。あのような神速の剣技、私にはとても真似できません」


 訓練の後、俺はわざとタケルに媚びへつらい、賞賛の言葉を並べた。

 最初は訝しげだったタケルも、俺のお世辞に満更でもない様子で、次第に気を良くしていく。


「ふん、まあな。お前のような雑魚には、一生かかっても理解できんだろうがな」


(そうだ、もっと増長しろ。自分は無敵だと信じ込め)


「レン様、この魔法理論の書ですが、私のような者には難解で……。よろしければ、少しだけご教授いただけないでしょうか」


 レンに対しては、彼の知識欲をくすぐるように、下手に出て教えを乞うた。

 最初は面倒臭そうにしていたレンだが、俺の熱心な(フリをした)態度に気を良くし、得意げに持論を展開し始めた。


(いいぞ。もっと自分の理論に固執しろ。現実から目を背けて、机上の空論に溺れるがいい)


 アカリには、彼女が好む甘い菓子を差し入れ、彼女の「優しさ」を褒めそやした。

 ゴウには、彼の使う巨大な盾の手入れを、いつも以上に丁寧に行った。


 俺は彼らの自尊心をくすぐり、傲慢さを育て、現実から目を逸らさせるよう、巧妙に立ち回った。

 彼らは俺を侮辱し、見下しながらも、無意識のうちに俺の存在に精神的に依存し始めていた。

 俺という絶対的な「下」がいることで、彼らの脆いプライドは保たれていたのだ。


 全ては、彼らを破滅の崖っぷちまで導くために。

 そして、俺がそこから安全に離脱するために。


 俺は冷静に、着実に、しかし誰にも気づかれぬよう、自らの計画を進めていた。

 侮辱されればされるほど、理不尽な扱いを受ければ受けるほど、俺の心は逆に澄み渡っていく。


(お前たちが俺を必要としなくなる時。それは、お前たちが俺を切り捨てる時だ)


 そして、その時はもう、目前まで迫っていた。

 俺は暗い物置部屋の中で、静かにその瞬間を待ち続けていた。




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【あとがき】


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