青い戯れ
@fuluki_toru
青い戯れ
彼女に惹きつけられた。ひたすらに、わたしを離さなかった。
美術館へ行った帰り、十六時四十分頃。薄暗さが車窓から浸食してくる時間帯。もう、すっかり夏も終わりそうである。やわらかな冷たい風がわたしの身体を撫でる。夕闇に包まれると、いつもどくどくとした衝動に蝕まれる。どこかへ行ってしまいたくなるような、そんな感覚。
夏休みということで、いつもより遠出をした。こうした長期休みは作品作りのアイデアのため美術館や知らない町へ散歩に行くのだ。最寄り駅から一時間程かかるところだった。美術館で見た作品を思い出し、何度も反芻しながら知らない町を探索がてら遠回りして駅へ向かう。宙に足が浮いたような、日常から逸脱したふわふわとした気分。植木鉢が沢山外に並んでいるお花屋さん、緑に囲まれている大学、ゆるやかなカーブの道を少し歩いたところにある、町の中で静かに佇んでいる竹林。こうした知らない世界へ飛び込むと、わたしが何処にいるのか分からなくなる。緑の隙間からの光が脳へ差し込み、ざわめく葉ずれの隙間にわたしを入り込ませる。
時間の重なりを感じさせる町へ、わたしは溶け込む。そんな不思議な感覚を絵具で絵へ落とし込むのだ。そうして何度も思い出す。町に溶け込むなんて、神様みたいだなって思う。空気としてずっと、見守っていたい。
南武線に揺られながら笹川真生のアルバム、「we are friends」を耳に流し、そんな町の息遣いの余韻を味わう。ああ、気持ちいいなあ。音のひとつひとつが私を脈打つ。
美術館の展示、よかったなあ。作家ごとにブースが分かれていた。薄暗い中見たシュールレアリスムの、思考を徊逅(かいこう)するような映像がよかった。ブースに入る前から、バイオリンの音が漏れ出ていて、それが私の心臓を掴み、どくどくとさせる。今もその感覚がする。音楽がそれを増幅させる。作品が混ざり合い、血液となって脈打つ。
途中停車した駅で、さらりと少女が乗り込んできた。ふと目に入ったその彼女の腕には刺青が入っていた。半袖からちらりとみえる右腕には英字で一言、左腕には昆虫の絵がさり気なく。別に、タトゥーシールかもしれなかったが、彼女は墨を入れているだろうという確固たる自信が、何故かあった。よく似合っていた。と思うと同時に、何か濁流が私の中に込み上げてきた。
あ、メンヘラだ
この子、一見普通の子だけど、うまくやってて内に秘めてる系のメンヘラだ。
そう直感した。しっかりとした芯があって、服装や小物で自分の世界観を作り上げている……いや、自己表現している感じ。そうして自分の世界を常に垂れ流して、ぐるぐると身体を廻って、循環していて、それが血肉になっていて、だから、彼女の肌から、肉から、尋常じゃないオーラが漂っている。そして彼女は彼女の世界に、常に作り出されている世界に耽っている。そんな感じ。
じっくりと観察する。彼女のくりくりとした大きい目はきらきらとうるんでいたが、どこか狂気を内包していた。瞼はアイシャドウでピンクに淡く彩られている。眉はアーチ状、髪型はショートカットで柔らかな濃い茶色。前髪はセンターで分け左右に流しており、ボーイッシュだった。服は半袖のシャツの上に、襟に沿って白い線が二本入っている、ノースリーブの黒いセーター。そしてツルツルとした素材の黒いパンツ。何か植物のような模様の入った厚底の靴。
一見普通の服だが、どこかズレているような違和感を覚えた。シャツの上にセーターを合わせるのは、どこの洋服屋さんも店頭のマネキンに着せるほど流行りのスタイルだったが、そこはかとない自我を感じた。きっと彼女の手にしているスマホカバーだとかの小物のチョイスからそう感じるのであろう。スマホカバーに挟まれているステッカーはピンク色で自傷している女の子の絵。
視線が釘付けになって離さない。この狂気を残しておきたくて、無音カメラを起動する。
人間は素材だし、作品である。わたしを昂らせ、わたしの快楽となり世界を満たす。
そんな持論で正当化し、時々、電車の中でわたしの気を惹いた人を盗撮する。主にセンスのいい髪型や服装をしている人を。別に、流行りの恰好をしている人のことを言っているのではない。自分の好きなものを、守るために、そっと自分の声に耳を傾け、するりとそんな装いをしている人たちのことだ。
盗撮ではないが、二、三年ほど前、白いセーラー服を着た女子中学生に目を惹かれたことがある。彼女は読書に没頭していた。その姿が凛々しかった。読むスピードが速いため、こっそりとタイマーを起動させて、頁を捲るたびにラップタイムを付け、何秒で見開き一頁読むのか計った。計っていると気づかれないよう、わざと10秒ほどずらしてボタンを押していた。
イヤホンをしている。何か音楽でも聴いているのだろうか。
ああ、あと何分この空間を味わえるのだろう。電車の画面を確認すると、最寄り駅まであと十六分と表示されていた。残念だな、あと少ししかこの空間を味わえないなんて、もう、彼女に会えないなんて。わたしが降りるより先に彼女が降りてしまう可能性だってある。
話しかけたら、どうなるのだろう。すごく警戒されるのかな。女だし、ナンパとは思われないだろうけれど。まず、何て話しかけよう。インスタかTwitterのアカウントでも聞いてみるか。何か創作活動はしてそうだ。勝手なイメージだけど、1990年代の音楽だとか聞いていそうだ。部屋にレコード盤でも飾ってあるのかな。レコードから流れる音楽に揺蕩う彼女を想像する。
電車が停車する。彼女はまだ降りない。
そういえば年はいくつなんだろう。同い年だろうか。刺青が彫ってあるということは高校生ではないよな。でもあどけなさがあるから18か19くらいかな。大学一年生なら同い年なんだけどな。
お出かけということで身なりはそれなりの格好をしていた。白い花柄の清楚なワンピース。周りにかわいいのが似合うって言われるから着ているだけ。本当はかっこいい恰好をしたいのだけれど。
次の駅に停車した。彼女が立ち上がった。
あ、行ってしまう。
そう思ったら、声をかけていた。
「おいで」
なんて話しかけたかは忘れたが、彼女はわたしの目を見て微笑み、そうわたしの腕を引っ張った。
あれ?いいのかな、ついて行って。
改札を出て踏切で電車が通過するのを待つ。カンカンと信号機の音が耳に響く。こっそり彼女の横顔や腕を見る。太陽光に照らされ、肌の白さが余計に際立っていた。首筋や腕の肉付きの少女の曲線美に恍惚する。暑さに構わず、彼女は涼しげな雰囲気を纏っていた。腕を伝う汗も、グラスの表面を滴る結露のように冷たい印象を与えた。
踏切を渡って徒歩五分、直方体の白いアパート。少し年季が入っており、端々の塗装にヒビが入って少し黄ばんでいる。しかしそれが時の温もりを感じ、居心地の良さを感じる。彼女の部屋に足を踏み入れると、夕日が微かに部屋を照らしていた。
レコードはなかったが、シンセサイザーとヘッドフォン、音楽雑誌、詩集、美術館に飾られるほどではない、しかし良いものを描き、細々と個展を開くアーティストのイラスト、などが先程まで見ていたかのような生々しさを漂わせながら所々に置いてあった。生活感というものは感じなかった。ただ、部屋の空気に、それら彼女を生成しているものと一緒に彼女が溶け込んでいる感じがした。
彼女が振り返りわたしを見る。
「どうして怪しまずに連れてきてくれたの?」
「自分に興味を持ってくれた人が悪い人な訳がないから」
「それと、君の瞳がまっすぐで綺麗だったから」
そうわたしを見つめる彼女の目は、きりりとした膜で覆われたように濡れている。はっきりとした目だった。しかし、どこか翳っていた。
「私は君を気に入ったって訳さ」
そう言い、私を背の低いテーブルの前に座らせた。彼女はひっそりと、彼女を生成するものをわたしの中に滑り込ませてきた。先程部屋に散りばめられていたものや、彼女の作品の頁をそっとめくり、わたしに言葉を紡ぎ、流し込んできた。彼女は日々の間でふと目に留まったものを写真に撮ったり、詩にしたためたり、曲にしたりしていた。やはりネットで公開していた。作品を人に渡すときは、時々直接会って渡すのだとか。わたしは自信がなく、ネットに公開はしていない。そのため、彼女の行動力に感心した。だからといって、自分もネットに公開しようと思わなかったが。
ほぼ毎日のように、彼女の家に通った。バイトも週一のため、特にすることがなかったというのもある。彼女のことしか考えられなくなっていた。思考回路がぼんやりと、そんな風にゆるやかに変形された。家族には友達の家に遊びに行くだとか、大学に自習しに行くと話している。今まで素直になんでも話してきたため、家族は何も疑わなかった。家族と話していても、話している気分にならなかった。何か、隔たりを感じた。透明で、つかめないけれど、確かにある壁。何か話しかけられ、その内容を理解していなくても、口が勝手に返してくれる。まるで自分が現実におらず、どこか異次元で現実にいる自分を操作しているような気分だった。ゲームの主人公を動かすような、そんな気分。
最寄りの駅まで歩き、来た電車に乗って、彼女を求めふらふらと、緑地、小学校、墓地に沿って、放浪するようにただ歩いた。家に着くと彼女は大体酒の缶を片手にぼーっと虚を見ているか、作曲のためにパソコンにヘッドフォンをして向かっているか、煙草を吹かしているかのどれかだった。
周りに建物があるからか、いつも部屋は陰っている。
二人で並んで座り、本棚や雑貨の飾っている壁を見つめながら、お互いの体温を感じていた。いつも冷房が効いていて、彼女の腕に寄り添うと、ひやりとしている。刺青が入っているが、艶やかな少女の面影を残した女の腕だった。お互いの哲学をぽつぽつと、語り合った。哲学なんて立派なものではないけれど、お互いに考えていることを、思考を、普段感じていることを、交えた。お互いの刺激となり、大切で、有意義な時間だった。今までの十数年の記憶や経験を、共有しあった。中学生の頃の人間関係の圧迫感だとか、どんな子供だったか、当時何を感じていたか、とか。わたしの話を聞いていると、生きている実感がするのだと。中学、高校、大学と、いつもわたしは友達の話を聞くだけだった。他愛のない、ドラマの話や、先生の愚痴や、恋バナ。適当に相槌を打つだけだった。そんなつまらない対応をしているのに、なぜかある程度友達から好かれた。薄っぺらい。だから、本当の意味でわたしに興味を持ってくれたから、すらすらとわたしのことを話せたし、初めて、会話というものが出来た。彼女は時々くすりと笑ったり、暗闇が迫ってくるような重たい空気を纏ったり、様々な会話をした。彼女はするりとした喋り方をする。糸のように、するするとわたしの身体の隙間から入り込んでくる。上品な話し方のお陰で、尖った内容や、時々挟まれる「クソ」だとかの強い言葉遣いも、不快には思わせず、しっとりとその声に包み込まれるのだった。
夕闇を見て、思い出す。
「この時期のね、夕方の薄暗さに触れると、溶け込みたくなるの」
返事はないが、彼女は聞いてくれている。ただ寄り添ってくれている。
「足元から崩れて、落ちそうになるの」
「自分がどこにいるのかわからなくて、ただ暗闇のなかを浮遊するの」
「ねえ、わかってくれる?」
彼女はただ微笑んで瞳を合わせ、唇を割って舌を入れてくるだけだった。
彼女の唾液は、ひやりとし、少し味のついた液体だった。ただの、液体だ、唾液なんて。お互いの匂いを、体温を掠め取る程度のものだ。どういったいきさつで、こういうことをするようになったのか覚えていない。理由はなかったけれど、必要なことだった。
「もっと、びりびりするものかと思った」
「そう?」
「他人に触れれば、何か通じ合えるものだと思ってたのにな、、、」
「感性の近い人に触れあえば、そうなるんじゃない?」
もっと、彼女の奥底を知りたいのに、どうすればいいのだろう?唾液が混ざり合うように、彼女の思考と、感性と、ぐちゃぐちゃに、混ざり合いたいのになあ。
「作品を通して、魂を絡ませることは出来ないの?」
「影響しあうだけだよ」
「インスピレーションってやつ?分かり合えないって、悲しいね」
「人間はそういうものだよ」
彼女はいつも、自分の考えることこそが真理だというような面持ちで、思想を語ってくる。幼いわたしはそれを取り敢えず信じるしかなかった。
「悲しい、かなしいよ」
彼女のほっそりとした白い腕に寄りかかったが、なにも解決には至らなかった。彼女は手を添えてくれながらも窓の向こうの、蔭った建物と建物の間に沈んでいく夕陽をただ見ていた。いや、夕陽の方向の虚空を、じっと、何かを捉えるように、呆然と見ていた。彼女は常にどこか遠くを見るような目をする。どこかへ行ってしまいそうで不安になったが、わたしにはどうすることも出来なかった。ただただ、お互いに、表面をなぞるだけだった。
別に、恋人関係ではない。
互いに、束縛や執着はしていない。わたしが彼女の元へ会いに行くだけ。時を重ねたいだけ。彼女はただそれに応える。救おう、救ってもらおうという欲求も、覚悟もなかった。ただただ、肌の温もりと彼女の空間に漂っているだけだ。
彼女に触発され、時々、いつもと違う恰好をするようになった。いつも、というのは、花柄の清楚なワンピースや、レースのついたブラウスに、ロング丈のスカート。いわゆる女の子らしい恰好。最近は、古着屋で買ったシャツに袖を通したり、ジャラジャラとゴツめの指輪を付けたり。ピアスは開けなかった。彼女が開けていなかったから。開けていない方が、ぐるぐると、狂気を秘めているような気がして。穴を開けてそこから発散させるよりも、その方が肉体に狂気が宿る。
彼女は時々、口紅を塗り直す。深い赤色の、お花のようないい香りのする口紅。その塗り直す横顔が麗しい水滴となってわたしの瞳へ落ちる。そうしてわたしの胸を打つ。「君」、だとか、喋り方はどことなく中性的なのに、そういった口紅をつける姿の色っぽさにどぎまぎとさせられたものだ。
「つける?」
そう言ってくる時があった。こってりとしたその液体を、唇の中央に指で乗せ、端まで広げてくれる。
「うん、似合うよ」
彼女に染められたようで嬉しかった。
手提げかばんから絵具のチューブを次々と取り出すと、彼女がもの珍しそうに見てきた。
「珍しいね、何か描く?」
描いた絵を見せることはあった。彼女が絵具の凹凸に指を添わせ、感じたことをぽつぽつと、語る。その様子を見て、わたしは快楽のなかに漂い、彼女の指と絵具の間の蜜やかな戯れをうっとりと見つめるのだった。しかし、彼女の目の前で描くことはなかった。
「ううん、あなたに塗りたいの」
彼女のはだから溢れ出る“なにか”と、わたしを融合させたかった。
「へえ、いいよ」
そうへらりと嗤う、彼女の手を取った。腕をなんの抵抗もなく、たらりと差し出してくれる。その彼女の艶やかな、しかしどこか冷えている手の甲に、絵の具を乗せた。
しかし、馴染まなかった。どうしても、馴染まなかった。
彼女の肌の脂のせいだろうか?つるりとすべって、乗ってくれない。両手で彼女の手を包み込み、親指で丹念に混ぜ合わせ、肌に塗り込めようと思っても、どうしてもはじかれてしまった。彼女は興味ありげに手の甲とわたしを見つめてくるだけだ。しかしわたしは、皮膚という厚い膜に絶望し、思考が暗がりに迷い込んでいく。
どうして?どうしてだろう、
彼女のシャツを脱がし、腕から左肩へ指を滑らせ、こってりと青い線を引く。黄色、緑を乗せ、混ぜてみる。だめだ、のらない。どうしても弾いてしまう。汚れた手のまま彼女の顎に指を添わせ、こちらに顔を向ける。彼女の長い睫毛、その間から覗いている強い芯を持った瞳、少し口角の上がった薄い唇、ただ美しい。しかし馴染まない。
わたしを受け入れてくれない!
ふっ、と力が抜けるように彼女から離れ、何も言わずに呆然と手を洗い始めた。
彼女は記録するために、版画のように身体に塗られた絵具に紙を押し当てていた。顎から首にかけて点々とついている青が痛々しい。
何故かわたしは、それが嫌で嫌で仕方がなかった。上手くいかなかったことを残されたくなかったし、記録する、ということは彼女がわたしに興味があるみたいで嫌だった。期待させないで。受け入れてくれないの、分かり合えないの、だから、わたしを保存して、あなたの元に残しておくようなことはやめて!
結局その紙を彼女がどうしたのかは忘れた。二度と見なかったが、見えない所に保管されていたのだろうか?
夏休み、といった長期休みは嫌いだ。疲れないから夜眠れなくなる。そうして、ただ自分の思考に埋もれる苦しい夜を過ごす。
母の服用している処方箋からこっそり盗んだ睡眠薬に頼る日もある。すぐに飲み込んでも苦味が舌の上に残るのが厄介だが。下手したら、翌日の朝も口に苦みが残っている。
睡眠薬って、不思議。普段は表に出てこない自分の頭の中を、より鮮明に、より深く彷徨う感覚。沢山の薄い布の柄が目の前に次々落ちてくる、眠りという塊の毛先がわたしの心臓をやさしくなぞる、そんな感覚がする。ドラッグって、これに似たような感覚なのだろうか。そうしてふわふわと思考を徊逅したのち、眠りに落ちる。
ルネスタ2ミリグラム。紫のフィルムにそう記載されている。人間の限界服用量は3ミリグラム。こんな、小さな薄山吹色の塊を数粒飲んだだけで危ない状態に陥ってしまう。そう考えると、堕ちる、というのは非常に簡単なことのように思える。
わたしはしないけれども
そうだ、結局リストカットもしていない。
たまに、手首を切りたくて仕方がない時がある。手首をそっとなぞって、快楽を想像し、その幻想に耽る。そんな夜がある。しかし、しない。意気地がないから。痛いのは嫌だし、死ぬのも嫌だ。ネットを漁ると沢山出てくる美化された自傷行為のイラストや文章。とろりと、じくじくとした快楽が血液とともに流れてきそうだ。何度も、何度も夢を見て、自分の真っ白な手首に視線を落とした。線状に少し浮き出ている、薄い赤と水色の血管を、指でなぞった。皮膚が薄いため生命の危機を微かに感じ、ゾクゾクとする。しかし、出来ない。そう、わたしは出来ない側の人間なのだ。
血液は綺麗だ。思いがけずケガをした時は、じっくりとその傷口を鑑賞し、写真に収める。
彼女の手首にリストカットの痕が三本ほどあった。彼女はあっち側の人間なのだ。出来ない側である自分に劣等感が覆う。
しかし痕は茶色く変色しており、あまり美しくなかった。線を入れたとき、痛かったろうか、それよりも心の方が痛かったろうか、涙を浮かべたろうか、血はどのくらい出たろうか、気持ち良かったろうか。濃い赤色を想像し、恍惚する。きっと彼女によく似合うだろう。
血の色を絵具で再現するのは難しい。そもそも、再現するなんてつまらない。たらりと滴り落ちる様子、指で伸ばした時の掠れた僅かな照り返し、そして茶色く変色し朽ちる。その儚さに夢うつつに浮かされるのがいいのだ。
いつも通り彼女の部屋の扉を開けたら、彼女は横たわっていた。何か嫌な感じがわたしの頬を掠る。
「ねえ、どうしたの?」
軽く肩を揺さぶるが、彼女の目は虚ろである。思考がぐるぐると瞳の粘膜の上を滑っているようだった。どこか嗤っているような表情をしている。
ふとわたしの顔を掴み、目を合わせてきた。常に目がきょろきょろと動き、今にも壊れてしまいそうな不安定さを内包している。
わたしはただ動揺するしかなかった。目の端に、包装シートから薬が乱雑に出された痕跡が見える。
ただ嗤って、込み上げてくる快楽に身体がふらふらと捩れている。彼女の平静さを失った姿を見るのは初めてだった。
わたしに指を絡ませてくる。するりと、指の形を確かめるように、やさしくなぞる。彼女の腕や手の甲はしっとりとやわらかいが、指の腹は冷たく硬かった。そしてわたしの顔に両手を添え、頬を舐めてきた。唾液が冷たい。彼女の体温を味わいたく、彼女の肩に顔を埋める。首の筋を指でなぞり、うなじを舐めあげる。少し塩味がする。冷や汗でもかいているのだろうか。がぶりと嚙みついた。血が滴る。深い赤色だった。舌で舐めとる。綺麗な白いうなじに、たらりと垂れる血液が、よく映えた。鉄の味が広がり、少し気持ちが悪い。想像上ならチョコレートのように甘くて美味しそうなのに。彼女の髪の感触を味わいたく、髪を掻き分けるよう指を滑らせる。彼女は渦巻いている快楽をわたしの肌の上に落とすよう、腕や脚や脇腹へ手を這わせてくる。わたしの長い髪の毛がレースのように、外界を遮る。わたしの瞼の淵を指先でなぞる。瞼の薄さを味わうように、舌でそっと触れてくる。彼女はわたしの鎖骨をしゃぶる。内ももを甘噛みする。わたしのはだの上に爪を立てる。時々血が滲み、それを舌でぺろりと舐めとる。目が合う。
ふふ、ねえ?わかる?わたしが見える?見えるかい?ねえ、わたしの内側を見て、感じて、ああ、わたしの電流にびりびりと、感電して、してしまえ!溶ける、脳が溶ける、気持ちがいい、ああ、ねえ、わたしの肌に溶け込んで?ねえ、とけてよ、おいで、わたしのなかに、ドクドクと沈んで、かわいいねえ、わたしにひたすらについてきてさあ、ねえ、分かってくれるかい?
呂律の回らない状態で、ぶつぶつとわたしにそんな言葉を吐き出してくる。ずっと繰り返す。
彼女の瞳から、狂気の渦がわたしのなかに流れ込んでくる。その電磁波にじくじくと、溶かされそうになる。引っ張られる、彼女の暗闇に。
彼女に、このまま吞み込まれてしまおう。
「ねえ、噛んで?」
わたしは彼女の前に指を差し出した。彼女は人差し指を口に含み、噛んだ。糸が切れたかのように、ぷつりと血液が流れる。彼女がその血液を啜る。ぐちゃぐちゃと、肉片が彼女の舌の上に零れる。れっと舌を出して見せてきた。唾液に絡んだわたしの薄紅色の肉片は綺麗だった。ああ、混ざり合っている、彼女の、唾液と、わたしの血液と、肉片と、呑み込まれる、れている、彼女はそれをごくりと飲み込む。ああ、彼女のなかに、わたしが循環する。喉を通り、肉片が胃で吸収され、そうして血液になって彼女の身体を廻る。わたしの肉片が、彼女の血肉となる、息づく。彼女の中でわたしが息づく、わたしが、かのじょのなかに、いる、存在する!ああ、なんて幸せなことだろうか。
そのまま余韻を味わい、生ぬるい空気のなか長い時間を過ごし、やがて朝が来た。白い空気が目に染みた。
ぱたりと、彼女の家に訪れなくなった。夏休みが終わったというのもあるが、彼女に会う必要がなくなった。彼女との縁は、これで終わったのだ。何事もなかったかのように、いつもの日常を送る。ぼんやりとした記憶が脳に残っているだけである。やはり幻想だったのではないか、とふと思うが、人差し指の不格好な姿がそれを否定する。時々ズキズキと痛み出し、わたしに彼女の存在を思い出させる。彼女は今何をしているのだろうか。
青い戯れ @fuluki_toru
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