『しかるべき場所で、臆病になる。』01
案内されたテーブルには、《予約席》のプレートがあり、可愛いランチョンマットが敷かれていた。運ばれて来たのは小紋柄の塗りの重箱。中には天ぷらや手毬寿司、茶碗蒸しに吸い物。ちまちまと少しづつなのに、不思議と満足感があった。
「この小エビの甘煮、すごい小さな竹かごに入ってますよ!」
「喜んでもらえてよかったよ。今回は俺の用意したプランじゃないからさ」
「とーっても、満足ですよ。へへ、これで温泉入ったら、溶けてしまう~」
「詩乃は溶けて、丁度いいくらいだって」
「……先輩、わたし真に受けちゃいますよ」
ここは山間の温泉ホテルの別館。パノラマウインドウのあるレストランで、先輩とランチ中だ。
きっかけは、先輩が差し出した《日帰り・温泉とランチの休日》のクーポン券。
「これ、行かないか。伯母にもらったから、趣味渋めだけど」
「行きましょう、連れてってください」と即答して、小旅行が決まった。
駅からのシャトルバスで山奥に着くと、空気に独特の匂い。
「オゾンの香りですよ」とホテルの人。
山の緑が目に痛いほど濃かった。
食後は貸し浴衣を選び、大浴場へ。
湯上がり、可愛い花柄の浴衣に身を包んだ。テンション上がるー。
部屋に戻ると、広縁のソファで先輩がくつろいでいた。
「ただいま。すごくいい湯だったあ」
「うん、さすがは美肌の湯。詩乃、ますます可愛くなったよ」
対面のソファに腰かけようとした瞬間、手を引かれ、そのまま先輩の膝の上に座らされる。
「やん…」
アップにしたうなじに、温かい吐息が触れた。
ランチについていた梅酒の甘い余韻と、温泉の湯の匂い、浴衣の肌触り。そして、湯上がりの先輩。
とっても血が騒ぐ。今だ、ここだ、と。覚悟はできていたから、迷いはなかった。
ふり向き、先輩の頬を両手で挟む。チュッと軽く唇を寄せて、今度はゆっくりと重ねる。舌を滑り込ませると、初めてディープキスをした時の記憶が蘇る。舌に味がないこと、ひとの唾液の意外な厚み。そして、舌そのものがこんなにも官能的パーツだという事実。指では決して伝わらない繊細な動きに、心臓が高鳴る。
*
真珠ちゃんがこのあいだ言ってた。
「ディープキスって、“”ポータブルセックス”って感じ、しない?」
「しないもなにも、本物のセックスのほうはまだしたことないんですけど」
「そっかそっか。ということはディープキスはしたんだね」
「真珠ちゃん、誘導はやめて」
「まあまあ、でも生殖行為じゃないけど、あれは確かに一種のセックスだと思うな」
*
大きな手が胸元に差し入れられて、先輩が私の体を探る。わたしは浴衣の下に何もつけずに来たから直接のソフトタッチにとてもゾクゾクした。いつのまにかまっすぐに位置が変わっていて、わたしの浴衣が後ろから開かれる。肩とおっぱいが浴衣からむき出しにされて。そのまま立たされる。浴衣が滑り落ちて素っ裸になってしまう。どこを見ていいのか興奮したまま、ふと広縁の壁、姿見に目が行く。そこに裸のわたしと先輩が映っていた。これじゃ不完全不公平。くるりと振り向いて先輩の帯をほどいて、浴衣を脱がしてあげる。さあ、どう?鏡を覗く。うん。満足。かっこいい。
胸元まで真っ赤に染まった自分も、可愛いと思った。―― バイバイ、じゃあ、ね
襖向こうの布団に連れて行かれる時、もうすっかり準備は出来ていた。
わたしは、たぶん緩くできている。裸を晒す事、肌を合わせる事に羞恥心はあるけど恐れはなかった。布団の上であれこれされている時も、もうすっかり解放されてしまっていて、先輩が初めてのわたしに慎重に、繊細に寄り添ってくれるのが申し訳ないくらいリラックスして楽しんでいた。
それは慣れて徐々に鈍麻してしまうより、うんと良かったと思う。
初めてなのに?そうなんだけれどさ。わたしは自分の体をおもちゃにされたくない。まあそこは先輩の経験値のなせる業だろうけど、先輩は“詩乃ファースト”でわたしを抱いてくれたと思う。先輩はわたしと、わたしの体の両方とに優しく会話しながら事を進めてくれたと思った。わたしはとても丁寧に味わわれた、と思う。痛みは思ったのとちがって、すぐなくなっちゃったし、満たされる充足感が勝っていた。体がじんわりとほぐれて開いた実感。布団の肌触り、呼吸のリズム、耳の奥の轟々と流れる血流、そして先輩の指使いや抱擁や身体の芯に感じる熱さ。全部、全部が波になってたゆたっていた。あー、これでいいんだなって思った。初めてなのに、なんでこんなにゆるゆるなの?って思ったけど、でも、すごく幸せだった。
もう、このまままどろんで眠ってしまいたかった。
「詩乃、散歩するんじゃなかったのか?」
先輩はもう身支度を整えて、わたしの顔を覗き込んでいた。
「い、行きますとも!」
なんとかシャワーを浴びて服を着替え、外へ出る。
外にはプロムナードがあって、林と可愛い彫刻が見どころだと聞いていた。
どうしても先輩と歩きたかった場所だ。
来ているのは若い女性グループか、仲の良さそうなカップルばかり。
みんなつるつるの顔で笑いながらお散歩している。
旅行先で見かけるような、あの“理想の恋人たち”。
気づけば、わたしたちもその中にいた。
エレベーターの鏡、ウィンドウのガラス、廊下の姿見。
映るたびに目を奪われる。
先輩とわたしも、完璧に、それだった。
とっても楽しかった。
それからわたしたちは何度もデートして、何度もセックスした。
先輩はよく聞くみたいな、
“一回やったらその後、したがるだけになる男”
ということは全然なくて、ちゃんと恋人としての時間を大切にしてくれた。
居心地のよさの前に小さな不一致には目を瞑った。
理想の恋人という階段を、欲ばりなわたしは一段も無駄にできなくて。
でも。
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