あなた

夏久九郎

あなた(短編)

 あなたは、診察室の扉を開く。


「どうぞ、おかけになってください」

 眼鏡をかけた若い医師があなたを出迎える。


「問診票には眠れない、と書かれていましたが、具体的にはどんな感じですか。寝つきが悪いのか、眠りが浅いのか、途中で目が覚めるのか、あるいは悪夢とか」

 あなたは少し考えて答える。


「なるほど。悪夢ですか。具体的にはどんな夢でしょう。覚えている範囲で結構ですので」

 若い医師は丸メガネの向こうの目を細めて、やや口角をあげて穏やかな声で言う。


 ある日は、白い女にずっと見つめられる夢。

 またある日は、その女が後ろからついてきて離れない夢。

 そして、また別の日は、女に手をつかまれる夢。


 あなたは、それらを少しずつ、ゆっくりと語る。


「トラウマ、みたいなものでしょうか。催眠療法を試したいと思います。メリットとしては原因を客観視してリラックスできること。デメリットとしては、心を解放するので、体験が鮮明に思い出されてしまうこと。よろしいですか」


 あなたは、頷く。


「それでは、ゆっくりと息を吸ってください。はい、止めて。ゆっくりと吐いてください。目をつむって、繰り返しましょう。はい、吸ってー。はい、止めてー。吐きます。はい、繰り返します。じんわりと手足が温かくなってきましたね。五数えます。一つ数える毎に、あなたの意識は少しずつ落ちていきます。はい、一……二……三……四……五」


 あなたは、まどろみに落ちていった。


 あなたのまぶたの裏に鮮明に、ぼやけた女の顔が映る。

 あなたは、手に触れる冷たい皮膚、首筋に息づかいを感じる。

 あなたの呼吸は短く、鼓動は速くなる。


「はいっ、ここまでにしましょう」

 医師は、パンッと手をたたき、あなたを現実に引き戻す。


「催眠療法はデメリットが大きいようなので、この辺にしておきます。自律訓練法を教えますので、これで、ひとまず経過をみましょう。あと、補助的に薬は出しておくので、寝る前に一錠だけ、お飲みください。次の外来も決めておきましょう」


 医師の言葉にすっかり目を覚ましたあなたは、その言葉にがっかりする。


 結局、今日もだめだったと。


 あなたは、家に帰り、部屋の電気をつける。


 あなたの机には、十字架のペンダントや数珠、お札、聖書が散乱している。


 あなたは知っていた。


 愛しい私から逃れる術は無いという事を。

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あなた 夏久九郎 @kurou_kaku

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