第2章:ゲーム知識との相違

翌朝、ユウは鐘の音で目を覚ました。


重厚で荘厳な音色が城全体に響き渡る。時刻を告げる鐘だろうか。窓の外はまだ薄暗く、朝靄が城下町を覆っている。


「昨日のことは夢じゃなかった」


ベッドから起き上がると、昨夜とは違う衣装が用意されていた。深い紺色のジャケットに白いシャツ、黒いズボン。胸元には小さな銀の紋章が付いている。魔王家の紋章——黒薔薇と月のデザインだった。


着替えを終えると、ノックの音が響く。


「ユウ様、失礼いたします」


レオンが数人の使用人と共に入ってきた。手には銀のトレイが載せられている。


「朝食をお持ちしました。お召し上がりになったら、魔王様がお呼びです」


「もう?」


「はい。今日から正式に婚約者としてのお務めが始まります」


テーブルに並べられた朝食は豪華だった。見たこともないような果物、焼きたてのパン、湯気を立てるスープ。どれも美味しそうだが、緊張で喉を通らない。


「レオンさん」


「はい」


「魔王様の婚約者って、具体的に何をするんですか?」


レオンは少し困った表情を見せた。


「それは…公式な場での同席、来賓との謁見の際のお付き添い、各種儀式での立会いなどです」


「要するに、隣に立って黙ってろってことですね」


「…そのように理解していただいて構いません」


やはり、昨日ヴァルゼルが言った通りだ。ユウは道具として扱われる。


「でも、なぜ婚約者が必要なんですか?魔王様なら一人でも十分だと思うんですが」


レオンの表情が曇った。


「それは…政治的な理由があるのです。詳しくはお答えできませんが、魔王様もお一人では対処できない事情がおありで」


政治的な理由。ゲームの設定にはそんなものはなかった。『エターナル・クラウン』では、魔王は絶対的な存在として描かれていた。誰にも頼らず、誰にも屈しない孤高の存在。それなのに——


「分かりました」


とりあえず食事を済ませ、レオンに案内されて玉座の間に向かう。廊下には昨日と同じように使用人たちがいるが、今日は明らかに様子が違う。皆がユウを見て小さくため息をついている。


「本当に始まってしまうのですね」


「お可哀想に…」


「魔王様も、あんな方法しか取れないなんて」


聞こえてくる呟きが気になったが、レオンは何も答えてくれない。


◆◆◆


玉座の間に入ると、ヴァルゼルはすでに玉座に座っていた。昨日と同じく威厳に満ちた姿だが、今日はどこか疲れているように見える。


「来たか」


「はい」


「今日から貴様には正式に婚約者としての役割を果たしてもらう。まずは基本的なことから教える」


ヴァルゼルが手を挙げると、玉座の間の空気が変わった。魔力が渦巻き、床に複雑な魔法陣が浮かび上がる。


「これは転送魔法陣だ。緊急時には俺の傍らに瞬時に移動できる。覚えておけ」


「転送魔法…」


ゲームでも出てきた設定だが、実際に見るのは初めてだった。複雑な模様が金色の光を放ちながら回転している。


「それから」ヴァルゼルは玉座から立ち上がった。「人前では俺に触れるな。必要以上に近づくな。笑顔は作れても、感情は見せるな。分かったか」


「はい」


「よろしい。では早速だが、今日は人間国の使者が来る」


人間国。ゲームでは主人公の出身地だった王国のことだろう。


「使者?」


「貿易についての交渉だ。表面上はな」ヴァルゼルの口調に皮肉が混じる。「実際は俺の動向を探りに来ている。そこで貴様の出番だ」


「俺の?」


「婚約者がいることを見せつけて、人間国を牽制する。貴様はただ俺の隣に立ち、時々微笑んでいればいい」


政治的な道具として使われる。それは理解していたが、実際に言われると複雑な気持ちになった。


「でも、俺が婚約者だと知って、向こうはどう思うんでしょうか」


「驚くだろうな」ヴァルゼルの瞳が冷たく光る。「魔王が人間の男を婚約者にするなど、前例がないからな」


そこでユウは重要な疑問を思い出した。


「そもそも、なぜ俺なんですか?人間の女性じゃダメだったんですか?」


ヴァルゼルの表情が一瞬硬くなった。


「…女は信用できない」


低く呟かれた言葉。そこには深い傷を感じた。やはり、500年前の恋人の裏切りが影響しているのだろうか。


「それに」ヴァルゼルは続けた。「男であれば、余計な感情に惑わされることもない。純粋に契約として成り立つ」


余計な感情。愛や恋のことを指しているのだろう。でも、ユウはもうヴァルゼルに惹かれていた。契約だけの関係でいられるだろうか。


◆◆◆


使者との謁見は正午から始まった。


玉座の間には豪華な絨毯が敷かれ、両脇に魔族の重臣たちが並んでいる。ユウはヴァルゼルの右隣、少し後ろに控えていた。


「人間国リベルタニア王国、外務卿マルクス・フォン・ライデン殿下」


重厚な扉が開き、中年の男性が現れた。後ろには数人の従者が続いている。立派な髭を蓄えた男性は、一見穏やかそうに見えるが、その瞳は鋭く光っている。


「魔王ヴァルゼル・ディ・ノクトゥルナ陛下。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」


「ライデン卿。わざわざ遠路はるばる、ご苦労だった」


二人の会話は表面的には礼儀正しいが、空気には緊張が漂っている。まさに外交の場だった。


「さて」ライデン卿の視線がユウに向けられる。「こちらは?」


「俺の婚約者だ」ヴァルゼルが淡々と答える。「ユウ・シライシ」


ライデン卿の瞳が驚きで見開かれた。従者たちもざわめく。


「婚約者…でございますか?しかも男性の?」


「問題があるか?」


「いえ、そのようなことは…ただ、初耳でしたので」


ライデン卿は明らかに動揺していたが、すぐに表情を取り繕った。しかし、その視線は何度もユウに向けられる。値踏みするような、探るような視線だった。


交渉が始まると、話は貿易協定の細部に及んだ。関税率、輸送ルート、品質保証など複雑な内容だったが、ユウには表面的な話だということが分かった。本当の目的は別にある。


「ところで」ライデン卿が話を変えた。「魔王陛下がご結婚されるとなると、魔族の国にも新たな時代が訪れますね」


「そうかもしれんな」ヴァルゼルの声に感情はない。


「お子様ができれば、後継者問題も解決いたします」


その時、ユウは気づいた。これが本当の目的だ。魔王の後継者について探りを入れている。子供ができるかどうか、魔王の血筋が続くかどうか。それが人間国にとっては重要な情報なのだ。


でも、男性同士で子供ができるはずがない。それを知っていて、あえてこの話題を出している。


「後継者については、まだ考えていない」ヴァルゼルが冷たく答える。


「そうでございますか。では、お相手の方はどちらのご出身で?」


今度は直接ユウを探ろうとしている。


「それは重要なことではない」


「しかし、魔王陛下の婚約者となれば、我が国としても関心を持たざるを得ません」


空気がピリピリと張り詰めた。ヴァルゼルの魔力が微かに漏れ出している。


「それ以上詮索するなら、交渉はここで終わりだ」


「申し訳ございません。失礼いたしました」


ライデン卿は慌てて頭を下げたが、その表情には満足げな色があった。十分に情報を得られたということだろう。


交渉はその後も続いたが、ユウの頭の中では別のことが回っていた。


この世界は、ゲームで知っていた世界とは大きく違う。魔王は絶対的な存在ではなく、政治的な制約の中で動いている。人間国は魔王の動向を常に監視し、隙あらば攻撃の機会を狙っている。


そして、ユウ自身も単なる道具ではない。政治的な駒として、重要な意味を持っている。


◆◆◆


使者が帰った後、ユウはヴァルゼルと二人きりになった。


「お疲れ様でした」


「…まあ、及第点だ」ヴァルゼルは玉座に深く座り直した。「余計なことは言わず、適度に微笑んでいた。それでいい」


「でも、あの人たちの本当の目的は」


「俺の弱点を探ることだ」ヴァルゼルの瞳が鋭くなる。「貴様がその弱点になり得ると踏んだのだろう」


弱点。その言葉にユウの胸が痛んだ。


「俺が、足手まといになってるんですね」


「そうだ」


あっさりとした肯定。でも、その後にヴァルゼルは小さく付け加えた。


「だが、それでも必要なのだ。貴様が」


必要。道具として、駒として。それでも、必要だと言ってもらえるのは少しだけ救いだった。


「魔王様」


「何だ」


「この世界は、思っていたより複雑なんですね」


ヴァルゼルの視線がユウに向けられる。


「思っていたより?」


しまった。ゲームの知識があることを悟られてはいけない。


「いえ、その…魔王様なら何でも一人でできると思ってました」


「…甘い考えだな」ヴァルゼルは自嘲するように笑った。「魔王とて万能ではない。特に、人間という種族は厄介だ」


人間への嫌悪が言葉に滲んでいる。やはり過去の傷は深い。


「でも」ユウは慎重に言葉を選んだ。「全ての人間が同じではないと思います」


ヴァルゼルの瞳がユウを見据えた。


「貴様もそう思うか?」


「はい。きっと、魔王様を理解しようとする人間もいると思います」


長い沈黙が流れた。ヴァルゼルは何かを考えているようだった。


「…甘い考えだ」


最終的に、ヴァルゼルはそう結論づけた。でも、その声には先ほどまでの冷たさはなかった。


「今日はこれで終わりだ。明日からは別の務めがある。準備をしておけ」


「分かりました」


ユウが部屋を出ようとした時、ヴァルゼルが呟いた。


「貴様は…変わった奴だな」


振り返ると、魔王は夕日の差し込む玉座の間で、どこか遠くを見つめていた。その横顔に、ほんの少しだけ柔らかさが宿っているように見えた。


◆◆◆


部屋に戻ったユウは、一日の出来事を振り返った。


この世界は確かに『エターナル・クラウン』の世界だが、ゲームでは描かれなかった部分がたくさんある。政治的な駆け引き、複雑な国際関係、そして魔王の抱える制約。


ゲームでは魔王は最終ボスだった。強大で、冷酷で、倒すべき存在。でも現実の魔王は——


「一人で戦ってるんだ」


窓の外に広がる城下町を見下ろす。夕日が街を染める中、人々が行き交っている。魔族たちの生活。その全てを守るために、ヴァルゼルは一人で重責を背負っている。


人間国との緊張関係、国内政治、そして500年前から続く孤独。


「だから、婚約者が必要だったんだ」


政治的な道具として。でも、それだけじゃない気がする。レオンが言っていた「複雑な事情」。きっと、まだ知らない真実がある。


ノックの音が響いた。


「ユウ様、お食事の時間です」


使用人の声。だが、ユウには別のことが気になっていた。


「すみません、一つ聞きたいことが」


「はい」


「魔王様は、いつもお一人で食事をされるんですか?」


使用人は少し驚いたような表情を見せた。


「はい…ここ数百年、魔王様は常にお一人で」


数百年、一人で。


ユウの胸に、温かいような、切ないような感情が広がった。


「分かりました。ありがとうございます」


明日もまた、魔王の隣に立つ。道具として、駒として。でも、いつか——いつか、その孤独を少しでも和らげることができるだろうか。


夜が更けていく城の中で、ユウは新しい決意を胸に秘めた。ゲームでは救えなかった魔王を、今度こそ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る