転生先は魔王の婚約者でした──前世の記憶を持つ主人公が、冷酷な魔王と恋に落ちるまで。
マスターボヌール
第1章:異世界への転生
白石ユウは死んだ。
トラックに轢かれて、あっけなく。大学からの帰り道、スマートフォンで乙女ゲーム『エターナル・クラウン』の魔王ルートをプレイしていたのがいけなった。何度やっても攻略できない相手に夢中になって、周りが見えなくなっていた。
クラクションの音が聞こえた時には、もう遅かった。
強烈な衝撃と痛み、そして暗闇。
「あぁ、俺、死んだんだな」
不思議と恐怖はなかった。むしろ、どこか安らかな気持ちだった。22年間の平凡な人生。特に悔いもない。強いて言うなら、あの魔王を救えなかったことぐらいか。
ヴァルゼル・ディ・ノクトゥルナ。ゲーム史上最も攻略困難なキャラクター。冷酷で近寄りがたく、誰にも心を開かない魔王。でも、ユウには分かっていた。あの孤独な青い瞳の奥に隠された、深い悲しみが。
「誰かに救われてほしいって、ずっと思ってた…」
魔王ルートは恋愛ルートですらない。最終的に主人公が魔王を倒すか、和解するかの二択だけ。でも、ユウはそれでもあのルートを何度も繰り返した。いつか、あの魔王が本当の笑顔を見せる日が来ることを信じて。
——そんなことを考えているうちに、意識が遠のいていった。
◆◆◆
目を覚ました時、ユウは見知らぬ天井を見上げていた。
石造りの天井。重厚で、現代の建築物とは明らかに異なる。空気にも奇妙な重みがあり、かすかに魔力のような不思議なエネルギーが流れているのを感じた。
「…これ、夢?」
体を起こそうとして、違和感に気づく。この体は——確かに自分のものなのに、どこか違う。筋肉の付き方、手の大きさ、髪の質感まで。まるで自分自身が少しだけバージョンアップされたような感覚だった。
慌てて上体を起こすと、自分が天蓋付きの豪奢なベッドの上にいることが分かった。部屋は中世の城のような造りで、壁には重厚なタペストリーが飾られ、暖炉まである。
窓から差し込む光は、どこか見慣れない色合いだった。空の色が微妙に違う。雲の形も、光の加減も。これは確実に地球ではない。
「まさか…」
嫌な予感——いや、信じられないような期待が胸に芽生えた。
ベッドから降りて鏡を探す。部屋の隅にある大きな姿見に映った自分を見て、ユウは息を呑んだ。
確かに自分の顔だが、輪郭がより整い、肌は透き通るように白い。髪は少し長くなって、色も心なしか深い黒になっている。そして身に着けているのは——
「中世の…貴公子?」
白いシャツに黒いズボン。見たこともないほど上質な素材で、細かい刺繍まで施されている。まるで王族か、それに近い地位の人間が着るような服装だった。
混乱しながら部屋を見回していると、重い扉の向こうから複数の足音が聞こえてきた。音のない廊下に響く足音は、どこか厳かで緊張感に満ちている。
ノック。
「失礼いたします」
扉が開くと、執事服を着た初老の男性が現れた。その後ろには、同じような服装をした数人の使用人が控えている。全員が丁寧に頭を下げる様子は、まるで高貴な人物に仕えるそれだった。
「お目覚めになられましたか、ユウ様」
「ユウ様?俺のこと?」
執事は恭しく頭を下げた。「はい。魔王様がお待ちです。お支度をお手伝いさせていただきます」
「魔王って…まさか」
心臓が激しく鼓動した。まさか、本当にまさか——
「ヴァルゼル様でしょうか」
執事の表情がわずかに変わった。驚きと、何かを探るような視線。
「…ご存知なのですね。では、お急ぎください」
使用人たちは手慣れた様子でユウの身支度を整え始める。より豪華な衣装に着替えさせられ、髪を整えられ、靴まで履かせてもらう。その手つきは丁寧で無機質で、まるで美しい飾り物を扱うかのようだった。
「あの、ここはどこですか?」
「魔王城でございます」
やはりそうか。ユウの心は混乱と興奮で一杯になった。
「俺は…俺はなぜここに?」
執事は困ったような、そして何かを憐れむような表情を見せた。
「それは魔王様から直接お聞きください。では、お連れいたします」
◆◆◆
城の廊下は想像以上に広く、天井も高かった。石造りの壁には見たこともない紋章が刻まれ、空気中には微細な魔力の粒子が漂っているのを感じる。まさに異世界——ゲームの世界そのものだった。
窓から見える景色は確実に現代日本ではない。遠くに見える街並みは中世ヨーロッパ風で、空には二つの月が浮かんでいる。
道すがら出会う使用人たちは皆、ユウを見ると慌てたように頭を下げた。しかし、その表情には明らかに恐怖と同情が混じっている。
「魔王様の婚約者様」
「ついに来られたのですね」
「あぁ、可哀想に…あんなにお若いのに」
最後の呟きは小さかったが、ユウの耳には確かに聞こえた。可哀想に、とは何のことだ?
やがて、巨大な扉の前に到着した。扉には黒い薔薇と月の紋章が刻まれている。それを見た瞬間、ユウの記憶の中でパズルのピースがはまった。
「間違いない…『エターナル・クラウン』の魔王城」
執事が扉をノックする。
「魔王様、ユウ様をお連れいたしました」
「入れ」
低く、どこまでも冷たい声が聞こえた。ゲームで何度も聞いたあの声。ユウの背筋に悪寒と興奮が同時に走る。
扉が開くと、そこは玉座の間だった。高い天井、両脇に並ぶ黒い柱、そして奥に据えられた漆黒の玉座。空気中に漂う魔力は、ここでは特に濃密だった。
玉座には一人の男性が座っていた。
黒髪、青い瞳。完璧に整った顔立ちに、氷のように美しく、近寄りがたい雰囲気。身に纏っているのは黒を基調とした豪奢な衣装。そして何より、その存在感は圧倒的で——
魔王ヴァルゼル・ディ・ノクトゥルナ。
憧れ続けた人が、目の前にいる。
「来たな」
ヴァルゼルの声は低く、感情を感じさせなかった。青い瞳がユウを見下ろす。その視線は、まるで値踏みでもしているかのようで——でも、ほんの一瞬だけ、その瞳が揺れたように見えた。困惑?それとも別の何か?
「あの…ここは」
「魔王城だ。そして貴様は、俺の婚約者として召喚された」
婚約者。
ユウの頭が真っ白になった。ゲームの中で、魔王ヴァルゼルに婚約者などいなかったはずだ。そもそも恋愛要素すらなく、最終的に主人公(女性)が魔王を倒すか、和解するかの二択しかなかった。
「婚約者って…でも俺、男ですけど」
「知っている」
あっさりとした返答。ヴァルゼルは立ち上がると、ゆっくりとユウに近づいてきた。近づくほどに、その存在感は増していく。魔力が肌を撫でていくような感覚に、ユウは身震いした。
「貴様の役割は簡単だ。俺の隣に立ち、必要な時に笑顔を見せ、そして黙っていろ」
冷酷な言葉だった。まるでユウを道具としか見ていないような口調。でも——その声の奥に、何かを押し殺しているような響きを感じたのは、気のせいだろうか。
「でも、なんで俺が…」
「理由など知る必要はない。ただ与えられた役割を果たせばいい。それ以外は期待していない」
ヴァルゼルはユウの前で止まった。間近で見る顔は、ゲーム以上に美しく、そして——深い孤独を宿していた。
「城には好きに住め。食事も服も、必要なものは全て与える。ただし」
青い瞳が鋭く光った。
「俺に、甘い幻想を向けるな。これは契約だ。愛だの恋だの、そんな感情は無用だ」
甘い幻想を向けるな——その言葉は、まるで自分自身に言い聞かせているようにも聞こえた。
ユウの胸が痛んだ。これが憧れていた魔王との初対面。でも、同時に確信した。この人は、やはり一人で何かを背負っている。
「わかり、ました」
「よろしい。レオン」
執事が前に出る。
「ユウを部屋に案内しろ。明日から正式に婚約者としての務めが始まる」
「かしこまりました」
ヴァルゼルは玉座に戻ると、もうユウの方を見ようともしなかった。でも、その横顔に一瞬だけ、何かを堪えるような表情が浮かんだ気がした。
◆◆◆
部屋に戻る途中、ユウは混乱した頭で必死に状況を整理しようとした。
自分は死んだ。そして『エターナル・クラウン』の世界に転生した。しかも魔王の婚約者として。
異世界転生の話は小説でよく読んだが、まさか自分の身に起こるとは思わなかった。しかも、ゲームの設定とは大きく異なっている。原作では主人公は王国の姫君で、魔王とは敵対関係だった。婚約者なんて設定はない。
「ユウ様」
レオンが声をかけてきた。廊下には他に人影はない。
「何か質問がございましたら、遠慮なくどうぞ」
「あの…魔王様は、なぜ俺を婚約者として召喚したんですか?」
レオンは少し困ったような、そして心配そうな表情を見せた。
「それは…複雑な事情があるのです。魔王様もお辛い立場でして」
「辛い立場?」
「詳しくは申し上げられませんが」レオンは声を潜めた。「魔王様は本来、とても心優しいお方なのです。ただ…過去に辛いことがあって、ご自分を守るために心を閉ざしておられる」
過去に辛いこと。ゲームの設定を思い出す。確か魔王ヴァルゼルには悲しい過去があった。500年前、人間の恋人に裏切られ、仲間を失い、心を閉ざしてしまったという。
「あの冷たい態度も、本心ではないのです」レオンは小さく呟いた。「もしかしたら、ユウ様が来てくださったことで、何かが変わるかもしれません。魔王様の心に、再び光が宿るかもしれません」
期待を込めた口調だった。でも、その期待が重くもあった。
◆◆◆
部屋に戻ると、ユウは窓辺に立った。城下町が夕日に染まっている。二つの月が空に浮かび、見知らぬ星座が瞬いている。
見知らぬ世界、見知らぬ運命。
「怖くないと言えば嘘になる」
一人呟く。家族も友人も、前世の全てを失った。この世界で一人、魔王の道具として生きていかなければならない。
でも、心の奥底で何かが疼いていた。
憧れていた魔王ヴァルゼル。ゲームでは救えなかった相手。その人が目の前にいる。確かに冷たく、近寄りがたい。まるで氷の壁に囲まれているかのように。
でも、あの瞳の奥の孤独に触れた気がした。あの横顔に浮かんだ、一瞬の脆さを見た気がした。
「なら、俺は…」
窓ガラスに映る自分の顔を見つめる。この世界で、この姿で、この運命を受け入れるしかない。
「道具として扱われても構わない。それでも、あの人の側にいられるなら」
きっと、これは偶然じゃない。数多の乙女ゲームがある中で、なぜ『エターナル・クラウン』の世界だったのか。なぜ、攻略できなかった魔王の元に送られたのか。
「今度こそ、あの人を救いたい」
夕日が沈み、二つの月が空に昇った。城に夜が訪れる。
ユウの新しい人生が、魔王の婚約者として始まろうとしていた。そして、きっと前世では果たせなかった想いを胸に。
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