霧中のロックスター

朝矢たかみ

0

 それにしても汚いスマートフォンだ。

 画面にクモの巣状にひびが入っていた。それだけならまだ許せる。画面を埋め尽くし、何重にも重なった指の脂は、もはや指紋というより皮膜に近い厚みを持っている。

 脂で反射して見づらい画面に映し出された映像が放つ嫌悪感は、それ以上だった。かなり画質が悪いが、かつていさむが住んでいたアパートの部屋を映した映像であることはすぐにわかった。カメラは隣の部屋の床に置かれているようで、部屋を仕切るふすまが画面の半分を埋め、残り半分に勇の部屋のこたつテーブルが映る、不自然な構図だ。薄暗い勇の部屋と、その向こうにある廊下を、さっきから結月ゆづきと勇が行き来している。今よりもずいぶん若く見えるその髪型や服装から、古い映像であることだけは推測できる。ふいに、廊下を白い裸体が通りすぎた。一瞬のことでなにがなんだかわからなかったが、スマートフォンが勝手にループ再生するので、否応なしに何度も自分の裸を見るはめになった。映像の中のふたりはカメラにまったく気づいていない。

 こんな映像が存在していたという驚き、動揺、困惑。そしてそれが指紋まみれの他人のスマートフォンの中にあることへの嫌悪感、恥ずかしさ、怒り。次々に湧いてくる感情が渦巻いて、体が熱い。

 画面から視線を上げた結月は、スマートフォンの持ち主をにらみつける。そうすることで自分を強く保とうとした。

 喫茶店のテーブルの向かい側に座っている江口えぐちは、そんな結月の反応を楽しむみたいに、アイスコーヒーのストローをくわえたまま、唇をにやにやと歪ませている。

 江口の容姿は驚くくらい変わっていなかった。コッカースパニエルを思わせる重たそうな金髪ソバージュも、左の眉尻に着けたまち針みたいなピアスも、格好つけて片方の口角をぐっと持ち上げて笑うくせも、なにもかもが視界にうるさい。

 GAXEガックスという三人組のパンクバンドを知らなくても、デビューシングルの『YOURユア KINDカインド HANDSハンズ』なら知っている人は多い。曲名を知らなくても聞いたことはあるという人は、もっと多いはずだ。GAXEはブルーAより少しだけ先輩のバンドで、江口はそこのフロントマンだ。デビュー曲が爆発的なヒットを記録したものの、それ以降、目立ったヒットはなく、言ってしまえば一発屋だ。

 江口についてそれ以上の記憶はない。十年近く前、勇たちがまだ地元のライブハウスで演奏していたころに何度か顔を合わせたくらいの接点しかない。まだ音楽をやっていたことさえ知らなかった。

 その程度の接点しかないこの男から連絡があったのは昨日。連絡先は結月の同級生やその先輩などを経由して入手したらしい。加えて、自分で指定した時間に二十分遅れてきたくせに、それを詫びるより先にこんな映像を見せられて、結月の中で江口の心象は最悪だった。

 どうやら江口はこちらがしゃべるまではなにも言わないつもりらしく、すでにぺたんこになったストローを噛み続けている。

 結月は素早く頭を回転させる。この映像をどこから手に入れたのか、他にこの映像を知る人はどれくらいいるのか、どこまでのものを要求してくるのか。それをどうやってこの男から聞き出すのか。

「どこでこんなものを?」

 結月が尋ねると、江口は待ってましたとばかりにストローから口を離した。

「それはちょっと言えねえなあ」

 挑発とわかっていても、あまりに不毛なその言葉にはっきりといらだちが芽生える。

「じゃあ、なんなら言えるの」

 確か江口の方がいくつか年上だったはずなので、あえて敬語は使わないことにした。案の定、江口の眉がひくっと動いた。しかし、さすがにこの程度のことではペースを乱してくれない。

「俺が言えるのは、これが世間にもれちゃったら、ダニーはきっと困るだろうなってこと」

 予想通りの流れに、ため息が出そうになる。

 江口の声は大きくて、粘着質で、ひとことずつ相手に突き立てるように話す。こんな品のない声をした人間が歌うことを生業なりわいとしているなんて、信じられない。

「そう怖い顔すんなって。他にはだれにも見せてねえからよ。今んとこね」

 江口はスマートフォンをライダースジャケットのポケットにしまう。六月の晴天の日によくそんなものを着ていられるものだ。

「勇にも見せてないの?」

 江口が「いさむ?」と眉を寄せる。

「ああ、ダニーのことか。まあ、あんたの反応次第じゃあ、それも考えるけど。どう? 今の微妙な立場のあいつに、見せた方がいいと思う?」

 もの言いのひとつひとつがしゃくに障る男だ。わざと結月をいらつかせようとしているのか、それとも、もともとこういう話しかたをする人間なのだろうか。一対一で話すのは初めてなので、それすらわからない。

 だが、どこか誇らしげに語る江口の様子から考えて、やはりこのタイミングで連絡してきたのにはなにか意味があるはずだ。せっかくのチャンスを逃すまいと、結月は江口をめ上げる。

「週刊誌にあんなデタラメを書かせて、なにがしたいの?」

「デタラメだと信じたきゃ信じろよ。事実は変わらねえけどな」

 ケンカに乗るつもりはないとでも言うように、江口はスマートフォンをしまったポケットを叩く。

「その話をしに来たんじゃねえの。今大事なのはこっち」

「お金が目的なら、ないよ」

「ならダニーが盗撮したって週刊誌にタレコむだけだ。あんたが金をケチったせいで追加報道が出たって知ったら、ダニーはどう思うかね?」

 勇が盗撮なんかするはずがない。そう思うのに、週刊誌という言葉に体の芯がすくむ。センセーショナルな話題は、ときとして事実をかすませる。ただでさえ勇には逆風が拭いているというのに、こんな映像が世に出たらさらに話題が勢いづいてしまう。マスコミにかかれば、勇と一緒に映っているのが結月であり、夕月操ゆうづきみさであることなど一瞬で突き止めるだろう。大人気ロックミュージシャンが売れないラノベ作家の友人を盗撮していたなんて、こんなおもしろいネタを放っておくわけがない。

 メジャーデビューするなり一気にヒットチャートを駆け上がり、だれもが名前を知るバンドになったのに、たった五年で解散してしまった彼ら。打ち上げ花火のように突然現れて、またたく間に消えたその輝きと儚さは、伝説のように語られている。観客で満杯になったドームのステージで歌う勇は、会場にいるすべての人の目を釘づけにする。曲を書いて歌うことでしか自分の中にあるものを表現できないから、汗で髪の毛が顔にはりつくのも気にせず、すべてをさらけだして吠える。どの曲も捨て身で歌うその姿は、見ている人の胸を掴んで放さない力があった。

 けれどステージを降りてしまえば、彼はブルーAのダニーではなく、加賀谷かがや勇という普通の男だ。格好つけたがりで、人づき合いが少し苦手で、他人に厳しく、自分にはもっと厳しい、不器用なまでにまっすぐな人間だ。

 それは、小さなガレージで鼻歌を歌うみたいにポロポロとギターを鳴らしていたころから変わっていない。

 音楽の世界に入りこんでいるときの、伏し目がちな横顔。

 ひとり言のように、ふいにこぼれ落ちるメロディー。

 それを結月がほめたときの、ちょっと照れた笑顔。

 並んだ肩が感じる体温。

 結月にとってはそれこそが勇であり、どれほど人気を集めても変わらない。

 ずっと、そう思っていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る