私はお嬢さまのペットになりたい。

みやけたまご(百合総司令)

序章


 私の人生は、一度終わっていたはずだった。


 夜の雨に濡れ、路地の隅でしゃがみ込むだけの小さな生きものだった私を拾い上げてくれたのは――邸を治める令嬢、お嬢さまだった。


 白銀の髪はやわらかく波打ち、腰のあたりまで落ちる。光を受けるたび、細い糸の束が月光のようにきらめく。


 眠たげに半ば伏せられた紅い瞳は、ふいに上がると鋭さを帯び、心の奥まで静かに射抜いた。指先はいつだって冷たくはなく、驚くほどに温かかった。


「……大丈夫」


 たったそれだけ。けれど、その一言で私は、生きる場所を得た。

 それから私は、邸に仕えるメイドとしてお嬢さまに雇われ、広大な屋敷で働き続けている。

 大理石の回廊、吹き抜けのホール、季節ごとに香りを変える庭の薔薇。


 完璧に整えられた上質と静寂の中で、私はお嬢さまの生活を影のように支え続けた。


 とりわけ、サロンの片隅に据えられた大きな鏡は、私たちを幾度となく映し出した。

 主と従、令嬢とメイド――正しい形のまま切り取られたはずの映像。

 けれど私は、時折その鏡に目を奪われ、胸の奥に小さな波紋が立つ。

 ――正しくあるはずなのに、どこか正しくない。

 ひびのない硝子の奥に、未来の歪みだけがぼんやりと映っているようで。


 ――退屈。

 それは、邸の空気に染みついた薄い霧のようなものだった。

 お嬢さまは普段、口数が少ない。微笑むことも、声を荒げることも滅多にない。けれど紅い瞳の奥で、刺激を求める火だけは、いつも小さく燃えているのを私は知っていた。


 そんなある日――私は人生二度目の終了を迎えるかどうかの瀬戸際に立たされた。


 私の小さな私室の机から、一冊のノートが消えた。それは誰にも見せるつもりのなかった、退屈凌ぎに書き綴った妄想の小説ノート。


 その、表紙に記されたタイトルは――。


『私はお嬢さまのペットになりたい』


 背筋が、凍った。


 邸の奥、温室と主屋の間にある小さなサロン。白いカーテン越しの午後光が差し込むその部屋から、紙をめくる音がする。喉をごくりと鳴らし、私は扉を開けた。


 まず視線を奪ったのは、サロンの奥に掛けられた大きな鏡だった。そこに映っていたのは――ソファに腰を下ろし、ノートを手にするお嬢さまの姿。

 鏡越しに見るお嬢さまは、現実よりもさらに儚げで、触れれば消えてしまう幻のように思えた。


 赤茶の革ソファ。彫金の入ったティーテーブル。

 鏡の奥にいるお嬢さまが、ゆっくりと顔を上げる。


 腰までの白銀の髪を緩くまとめ、眠たげな紅い瞳のまま、私のノートを細い指で閉じる。そのまま表紙を撫でる仕草は、絵のように美しく、同時に私の心臓を嫌な速度で跳ねさせた。


「……これは、なに……?」


 低く落ち着いた声。冷たいわけではないのに、逃げ道を塞ぐように真っ直ぐに迫る。


「そ、それは……わ、私の書いた……小説で……お嬢さまを……勝手に……」

「……そう」


 短い、淡々とした相槌。怒気も嘲りもない。ただ、静か。

 静かなほどに、呼吸は浅くなる。


「も、申し訳ございません……。クビにされても……仕方ない、です」


 私は膝をついた。視界の端で、紅い瞳がふわりと揺れる。


「……クビにはしない」

「え……?」


 空気が変わった。

 お嬢さまは視線を少し逸らし、また戻す。眠そうな目が、ごく僅かに光を帯びた。


「……ただし、罰は必要……わかる……?」


 胸の奥に、冷たい稲妻が走った。


「……罰、ですか」

「ええ。あなたの描いたその物語の、罰……。――私を、ペットにしなさい」

「……お嬢さまを、私が……ペットに……?」

「……そう」


 ひと言ごとに余白がある。意味を理解するのに、数秒かかった。

 私は両手を組み、震える声を押さえた。


「あなたの小説に書かれていたことを……あなたが“する側”に、私を“される側”にするの。あなたが想像したことを、私に……」

「そ、そんな、無理です! お嬢さまは……お嬢さまなのに!」

「……だって、罰だから」


 小さく、けれど有無を言わせない声。

 彼女は一歩、私の方へ近づく。白銀の髪が肩を揺らし、光を弾いた。


「聞こえないの……? 元々、あなたは、私のペット……だから、これも命令……」

「ぁ、あ……」


 私は言葉にならない言葉で喉を鳴らしながら、視線を泳がせた。

 ――本気だった。お嬢さまの命令。断れる、わけがない。


「……お、お嬢さま。どうか……こちらに。ソファの中央に、座ってください」


 お嬢さまはほんの僅かに瞬きし、従った。

 スカートの皺を整え、膝をそろえ、背を真っ直ぐに。白銀の髪が肩で波打ち、光を零す。


「……これで、いい……?」


 ――それが、私たちの境界線を揺らす最初のひびだった。


「い、いい、です……。その……次は」

「……次は?」


 紅い瞳が、淡くこちらを促す。喉が渇く。

 小説に書いた順番を、指先が勝手に辿る。


「……“わん”と……」

「……わん」


 小さく、息のように。けれど確かに。

 ――心臓が爆ぜた。可愛すぎて、胸が痛い。私の顔から熱が噴き出す。


「つ、次……。失礼、しても……」

「……罰でしょう?」

「……はい」


 指先で、お嬢さまの髪に触れる。

 絹糸みたいな白銀の束が、するりと逃げる。ふわ、とシャンプーのやわらかな香り。耳の後ろを軽くなぞると、肩がほんの少し震えた。


「……っ」

「お嬢さま、今の……」

「……驚いただけ」


 声はわずかに上ずっている。けれど、目は逸らさない。

 私はもう一度、耳たぶを指でそっとつまむ。温度が指腹に移る。お嬢さまは目を閉じ、微かに身じろぎした。


「……まだ、途中」


 淡々とした声に、命じられる側の私の方が、酔っていく。


「……あの。お嬢さまの膝、いただいても……?」

「ん……いいけど……」


 とん、と細い指先が膝を示す。

 私はそこに、そっと頭を落とした。


 柔らかな太もも越しに伝わる体温。僅かに沈む弾力。

 お嬢さまの指が、ためらいがちに私の髪を梳く。耳の縁をなでるたび、背骨の奥に微かな電流が走る。


「今は私がペット、なのに……」

「め、命令、していい、と……」

「……飼い主なのに、無防備」


 いろいろと我慢できず、台本から逸れた。そんな私を、ペットが叱りつける。


「……そんなみっともない姿、本当の犬なのはだれ……?」

「……申し訳、ございません」

「謝ってほしい……わけじゃない」


 目を上げると、眠そうな紅がほんの少し柔らかくなっていた。


「まだ、遠慮——我慢、してる……?」

「はい……?」

「私、悪いこと言った。お仕置き……しなくていい?」


 その瞬間、何かが音を立てて崩れ、同時に新しいものが芽吹く感覚があった。

 その時に確信していたのかもしれない。私たちの関係は、もう元には戻れないのだと。

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