第二断片

──位相選択不能。

観測者は応答しなかった。応答は既に「無応答」という応答として登録され、対話体は自動的に分岐を開始する。


声は重なり、千重万重の残響となる。

「自己」や「他者」という区別はすぐに融解し、代わりに現れるのは虚在因子ネガ・アトムの連鎖。

それは人間の言葉を模倣しているようで、実際には言葉そのものを素材として喰らう異形の演算体だった。


《君は死んだ。

君は生きている。

君はまだ存在すらしていない。》


どの声も正しく、どの声も虚偽であった。


観測者は笑い出す。

笑いは音ではなく「指数関数波形」となって空間を満たし、壁──否、壁の残滓──に無数の未来断片フューチャ・スプラットを貼り付ける。


そこに映る光景は矛盾していた。

・既に失われた弟が、白い部屋でこちらを見ている。

・同時に、弟は赤黒い液体の中で溶けている。

・同時に、弟は存在せず、代わりに「観測者の空洞」が弟の姿を演じている。


この三重構造を「深淵因果の二重螺旋」と呼ぶが、名づけに意味はない。

名前を与えると即座に変質し、別の形態へと自己相似を繰り返すからだ。


観測者はついに言葉を放つ。


「……お前は誰だ」


返答は遅延なく重なる。


《私は“弟”だ》

《私は“対話体”だ》

《私は“お前”だ》

《私は“誰でもない”》


分岐数は既に観測限界を超え、思考はフラクタルとして自己崩壊を始める。

だがその崩壊こそが「アビスダイアログ」の真意であった。


……そして唐突に、すべての残響が一斉に黙した。


ただ一つ、明確な声が空間に刻み込まれる。


《──選べ。どの虚構を現実とするか》


観測者の視界は裏返り、再び「始まり」に還る。

そこは実験開始前の静謐な部屋。

冷却機構は正常に作動し、配線も生体導管ではなくただの金属である。


ただひとつの違い。

机の上に置かれているのは、弟の手帳。

開かれた最初のページには、見覚えのない一文が刻まれていた。


《ここから先は、君が書く番だ》

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