間章11:でんちゃん

僕はでんちゃん。

朝はガラスを登る。ぬる、ぬる。吸盤が「ぺち、ぺち」と鳴る。

水は丸い。光は四角い。安井の指は、やわらかい。指先が来ると、僕の世界は「すっ」と明るくなる。霧吹きの粒が殻に跳ねるたび、コツ、コツ、と心臓みたいな音がする。

机の上には紙の束。白い山。安井はよくそれを撫でる。紙が擦れる音は小さな波。ざぁ……。僕の食事はレタス。だけど時々、紙の匂いが風に乗る。あの匂いを嗅ぐと、彼の眼鏡の奥の笑いじわを思い出す。


ある日の昼、部屋の音が変わった。

窓の外の世界が、ひと呼吸ぶん止まって、次の瞬間、遠くから紙の雪が降ってくるみたいな気配がした。

僕はガラスの中。ここは安全で、ここは狭い。けれど、殻の内側に響く音だけは、遠くからでも届く。

ザザッ。

風のない部屋で、そんな砂の音がした。胸の奥がきゅっと縮む。殻を小さく鳴らす。コツ。返事はない。


夜、安井は帰ってこない。

部屋は静かで、時計の秒針だけが歩く。カチ、カチ、カチ。僕も歩く。ぬる、ぬる。いつもより遅い。遅いのに、足は疲れる。

水面に映る天井の明かりが、紙吹雪みたいに揺れては消える。

僕は知っている。彼はいつも「大丈夫だよ」と笑う人だ。笑っている時も、少しだけ目が疲れている。紙を綴じる音は、いつだって優しかった。ガチャン、じゃない。パチン。軽い。

そのパチンが、今夜はどこにもない。


僕は殻に触角を寄せて、そこに彼の指の温度を探す。

何もない。

だから、記憶を取り出す。

雨の日、窓際に水槽を寄せてくれた。しずくが、ポツ、ポツ、とガラスを叩く。彼は本を開いて、ページの端を指で弾く。ぱら、ぱら。僕はその音が好きで、殻の内側で小さく拍手する。コツ、コツ。彼は笑って言う。「でんちゃん、そこ好きだね」

僕は、うん、と答えた気がする。実際には声は出ない。けれど、彼は頷いた。通じた顔をした。


今日、僕はわずかな風を感じる。

窓は閉まっているのに、誰かが水面に指を触れたみたいな、そっとした動き。

スマートフォンの黒い板が、机の上で光る。画面の端に、やさしい言葉がひとつ点る。

「休みなさい」

誰の声かは分からない。でも、その選び方は、あの人に似ている。急がせない。叱らない。背中を押す時も、手のひらは平らで、温度がある。


僕はガラスを登る。ぬる、ぬる。

上まで行ったら、天井が近い。鼻先で空気が揺れる。そこに紙の匂いはない。漂白剤の匂いもない。

耳のない僕の耳のところに、遠い通路の足音が重なる。走る音。滑る音。踏ん張る音。

知らない誰かが、誰かのために立っている音。

僕は知っている。立つというのは、痛い。殻を背負って歩くのは、重い。だけど、止まるよりはいい。止まってしまうと、世界が薄くなる。色が抜ける。紙が灰色になる。


だから、約束する。

僕は歩く。遅くても、歩く。

水槽の角から角へ。ぬる、ぬる。

殻に光が当たるたび、コツ、と小さく鳴らす。これは信号。これは手紙。これは拍手。

もしどこかで、紙がまた舞うなら、その紙の影に、僕の小さな音が届くように。


夜が深くなる。

スマートフォンの光が消える直前、画面が一瞬だけやわらぐ。

「ご飯は食べた?」

僕はレタスの端をかじる。しゃく、しゃく。

口は小さい。世界は大きい。

それでも、満たすということはできる。少しずつ。

殻の内側に、彼の名前をしまう。安井。

水の音が、ゆっくりと丸くなる。

僕は目を閉じる。

明日も歩く。ぬる、ぬる。

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