花天月地【第108話 夙夜に君を想う】

七海ポルカ

第1話


 

 離宮に戻った荀攸じゅんゆうは、すでに近衛によって開始されていた下手人の捜査に加わった。

 状況が大分見えて来て、この離宮は外から、怪しい者が極めて入りにくい場所であることが分かった。


 次期皇帝となる曹丕そうひが滞在していることもあり、そもそも出入り自体が厳しく取り締まられていた。

 素性から住んでる所まで、確認出来た者しか入らない。


 曹丕は今でこそ曹操に後継者として認められたが、長い間父親との不仲は周知の事実だったので、身の危険も感じることがよくあったのだろう、そういうことは細心だった。

 特に自分が寝泊まりする居城には、いかなる立場の人間だろうと素性が分からなかったり住まいや事情が明らかでない者は立ち入りさえ許していない。


 だから元から、この離宮の警備は厳しかった。


 任についていた近衛も許都きょと長安ちょうあんの曹丕の居城から選抜された人間たちで、一応怪しき者も怪しからず者も取り調べはしたが、皆長く曹丕に仕えた者たちばかりで、買収されたような様子も全くなかった。


 甄宓しんふつの方も、実のところ身の回りの世話を焼く人間を引き連れて歩くようなことを好まない女性だったため曹娟そうけんを責任者として、女官も甄宓自身が認めた者たちしかここには連れて来ていない。

 城だともう少し下働きあたりに甄宓や曹丕が顔を知らない人間が紛れ込むが、それはそこの離宮は無理だった。


 長安と許都を行き来する曹丕の仮住まいだったため、大人数は常駐していない。

 その代わり離宮近くには曹丕が保有する二軍が陣を張っていて、離宮とは少し距離を取りつつも、非常に存在感を持っていた。


 曹植そうしょくがここに来るとき少ない供回りでやって来た理由も、あまり大人数の部隊を引き連れて来ると、この曹丕の二軍に相対して緊張感を持ってしまうからだった。

 

 離宮の内部には信頼出来る者しかおらず、出入りする外の人間も物資を運び入れる場所は決まっていて、受け渡しは物資だけ、商人や外の人間は特別な許可を得なくては離宮内部に入ることが出来なかった。


 そして今日は、特別な許可を得て入った者は誰もいなかったのである。

 運び入れた物資は、大きなものは人など紛れ込まぬよう全て確認されるし、小さなものも抜かりなく中を改めて毒薬や危険な毒を持つ動物なども入り込まないように徹底されている。

 

 そして曹丕そうひ甄宓しんふつも、多くの物資を離宮にみだりに運び入れることなども無かったので、今日運び入れた物資も信頼置ける者がいつも通り、一つ一つ丁寧に調べて中に通したことが判明した。


 一応、全ての部屋を調べさせた。

 出入りはないことが分かったが念の為である。

 二晩掛けて全ての部屋、離宮全体が捜索された。


 怪しい者は、一人もいなかった。


 取り調べにも全員が潔く答え、甄宓に関わる侍女たちは、とにかく自分たちの身よりも甄宓の身が助かるようにと涙を浮かべている者たちも多かった。


 許都きょとの城で報告を待つ曹丕には全ての人間を必ず正確に取り調べた、と言わなければならない。


 全員を取り調べ、とうとう最後の一人になった。

 曹植そうしょくである。


「私が話を聞こう」


 さすがに荀攸じゅんゆうがそう声を掛けた。

 取り調べていた監査の者が頷き、よろしくお願いしますと場を譲る。

 曹植が入って来た。

 顔色が悪く、この二日間食べもせず、眠りもしなかったのだろう、疲労が滲み出ていた。

 そんな風にしろとは誰も言っていない。

 

 曹植は入って来て荀攸の姿を見ると、縋るように駆け寄って来た。


公達こうたつ殿、義姉上あねうえの容体は……」


 荀攸は首を振った。

甄宓しんふつ殿のことは万事宮廷医の手に委ねています。彼らも寝ず、甄宓殿とお腹の御子がご無事なように力を尽くしております。どうかご心配なく」

「ご無事なのだな」

 必死に尋ねて来る。


「曹植殿。お辛いことではありましょうが、落ち着いて下さい。

 甄宓殿は曹丕そうひ殿の正妻なのです。その意味はよく貴方がご存じのはず。

 私がここで、ご無事ですということは簡単に出来ますが、何がご無事かは私などではなく曹丕殿だけが判断出来ることです」


 曹植の顔が更に青ざめた。

 その通りだ。


 血を吐いた甄宓が無事ならばいいとそれだけこの二日間、祈って来た。

 だが甄宓の体には曹丕の子がいたのだ。

 もし彼女が無事でも、その子供が流れてしまったら。

 曹丕は次期皇帝なのだ。

 息子はもういるが、たった一人の子供である。


 もし甄宓の身ごもった子供が男子だったら曹丕の治世の盤石を、もっと確かなものに出来る。 

 大きなことだ。


 彼女は王の妻。


 それを今、荀攸に言われて思い知った。

 彼女が無事であってくれればいいとそれだけを願っていた自分は、本当に王の器などない。自分のことしか考えられない人間だった。

 父が曹丕を後継にしたことは正しかったのだ。


「無礼とはお思いになるでしょうがどうかお許しを。

 曹丕殿下は細心な方です。離宮にいた者を全員取り調べたと私は報告しなければなりません」


「いや……いいんだ。父上もこのような時は、身内などという容赦はなさらなかった。

 それを見て来た兄上が、例え実の弟でも私を取り調べさせるのは当然だと思う。

 理解出来るよ……」


 荀攸は小さく頭を下げた。


「私は場を離れていましたが甄宓しんふつ殿、曹丕殿の信頼なさる女官長の曹娟そうけん殿が一部始終を見ていらっしゃいました。事実だけを述べますが……」


「気にしないでくれ。甄宓殿……義姉上あねうえは私と歓談中にお倒れになった。

 あの様子では毒なのだろう。貴方はその毒が、いつ盛られたものか正確に知りたがっておられる。私もそれが知りたいよ。

 曹娟そうけん殿が見ていて下さったなら分かるだろうが、私からあの場に持ち込んだ食べ物はない。

 最初から義姉上の為に用意されていた菓子を、歓談中に許していただいて私も共に同じものを食べたが、取り揃えてくれたのは侍女だ。

 茶も同じだ。

 つまり、あの場のものに毒が盛られていたのだとしたら私だって食らっていた可能性がある。だからそのことで、私の嫌疑は兄上は解いてくれるだろうが……。

 だがだとしたら義姉上の場合、もっと前に毒を盛られていたということになるだろう……?

 だが、公達こうたつ殿……あのお優しい、美しい義姉上に毒など盛ろうとする者がいるとは思えない。私が思うにあの毒は、次期皇帝となる兄上を狙って盛られたものではないかと……」


 荀攸じゅんゆうは少しだけ眉を寄せた。

 曹植そうしょくの美徳は心優しく、純朴な所があり、輝くような言葉を使い詩を作れることだった。

 曹丕そうひは全てを疑う。

 父親に疎まれて育って来た彼は、父も母も、兄弟も、妻も疑う人間だった。


 人としての美徳は曹植が確かに遥かに勝っている。

 だが曹植の考えの甘さは、帝王の器に相容れないものだった。

 

 ここに曹丕がいなくて、心底良かったと荀攸は思ったのだ。


 甄宓しんふつが優しく美しいから毒を盛られないなど。

 ……到底聞かせられない、曹丕を激怒させる愚かな理屈だ。



「曹植殿」



 荀攸は声を掛けた。


「薬師が確認しました。

 あの席に出ていた茶に毒が入っていたそうです。

 茶を作るために汲んだ水瓶の方には毒は入っていませんでした。

 即効性の毒で水に溶けていたと。

 つまり、あの場で毒は入れられたことになる」


 曹植が目を見開いた。


「そんなまさか……」


「もう一つ、解せないことが」


 荀攸は曹植の顔を見つめた。

 偽りには見えない。曹植は本当に驚き、怯えている。


「毒が判明した理由ですが、毒は貴方の為に用意された茶にも入っていました。

 甄宓しんふつ殿の方は淹れたばかりの茶に溶けていましたが、貴方の方の茶は置かれたままになっていた器に、毒の粉のまま残っていた」


 曹植は眼を見開いたままだ。


「つまり……。……それは、どういうことですか?」


 荀攸は曹植が毒を盛ったとは、思っていなかった。

 しかし事実だけを見れば。


「毒を盛った者は、甄宓殿の茶に毒を入れ、貴方の茶にも毒を入れた。

 貴方の方は中身が無かったことが、入れる時に分かったはずです。

 それでも入れた。私も見て来ましたが、毒は溶けずに粉末状で残っていました。

 目視も簡単に出来ます。

 あれでは必ず次に淹れる時に不審に思われるでしょうし、茶碗を取り替えても同じです。

 すぐに分かります。

 ここの召使たちは細心ですし、何かが器に残っているのを見逃したりはしません。

 貴方の茶にも、毒を入れたのはどう考えてもおかしい」


 曹植そうしょくは完全に混乱して、答えを出せなくなっているようだ。

 荀攸は曹丕に報告をしなければならない。

 曹植の人柄を考えると答えが出なくなるので、荀攸はそれは今は考えないことにした。

 明らかになった事実だけを見る。


 彼自身の、一応の結論は出した。


 つまり甄宓しんふつは紛れもなく、毒殺を企てられたということだ。

 曹植の方に入れられた毒は、同じ目的ではない。

 毒が入っていれば暗殺を狙われたと誰もが見る。


 甄宓は曹丕そうひの正妻なので、その繋がりから命を狙う者もいるはずだった。

 甄宓が死ねば、曹丕は新しい妻を決めねばならなくなる。


 曹丕は魏の王に就くと定められた。

 自分の娘を輿入れさせ、曹丕の持つ権力に関わりたいと望む豪族たちは山ほどいる。

 だから甄宓は人柄など関わりなく、命を狙われる危険はある。

 曹丕がそもそも限られた女しか自分の側に近づけたがらない性格をしているからだ。


 甄宓がいる限り、邪魔だと思う者たちはいる。


 曹丕と曹植は長く、曹操の手によって後継の座を巡って争わされて来た。

 しかし曹植は争いごとが苦手であり、表向きは息子二人の継承権争いでも、実際は曹植の後ろ盾には曹操がいる。


 これは父と子の戦いだった。


 曹植は立場だけ見れば曹丕の命を狙ってもおかしくないし、曹丕の治世を盤石にする可能性を秘めた甄宓を狙う利点も持っている。


 だが甄宓を敬愛する詩人の彼が、毒で彼女を殺すはずがなかった。

  

 曹植の方に入れられた毒には曹植を殺そうという意志ではなく、当然甄宓が毒を盛られた時、疑われるだろう人間が、その疑念から逃れるために自分も毒を盛られた人間なのだと示すための、そういう隠蔽の意図が見られた。


 しかしこれも純朴な性格をした曹植が考えるとは思えない、小賢しい、荀攸から見ると非常に雑なやり方に思えた。


 誰かが甄宓しんふつを毒殺し、その罪を曹植に着せようとしている。


 その裏にあるのは、強い曹丕への敵意だ。

 それだけが明らかになったことだった。



 荀攸は立ち上がった。



 曹植は目を見開いたまま、完全に心が空虚になっているようだ。

 

応瑒おうよう殿を呼びました。じきこちらにいらっしゃいます。

 部屋を整えさせましたのでひとまず離宮でお休みください。

 お分かりいただけるでしょうが、曹植殿、どうか部屋からはお出になりませんように」


 荀攸は一礼して歩き出した。



「……公達こうたつどの……」



 弱々しい声が聞こえた。

 足を止める。

 振り返ると曹植が呆然としたまま、呟いた。



「…………私はこれからどうすればいいのだろうか?」



 荀攸は一瞬、非常に厳しい表情で押し黙った。

 すぐに顔を上げる。


「今は、とにかく何もなさらぬことです。

 私には貴方をどうする権限もない。

 全ての決定を下されるのは、兄上です」


 もう一度一礼し、今度こそ荀攸は部屋を出て行った。


 見張りの兵が二人、留まっている。

 彼らは曹植とは視線を合わせず、石像のように扉の前に立っていた。

 なにか、とんでもない恐ろしいことが起こったことは分かる。

 自分がその渦の中央にいることも。

 だがどうすればいいのか、何が起こったかを正確には捉えられない。


 詩は、自由だ。


 紡ぎ出すことに制約など無い。

 だが現実は違うのだ。

 何か悪しきことが起こると、その為に何かを失う。


 ふと、その時気づいた。

 手の中に握りしめていたものがあった。


 甄宓しんふつが倒れた時に地面に落ちていたのを、咄嗟に拾っていたのだ。

 甄宓が髪に飾っていた装飾の一つだ。

 真珠貝をはめ込んで作られた、美しい髪飾り。

 休んでいた水場から飛び立とうとする水鳥が描かれている。


 真珠貝が濡れた。

 曹植の瞳から、大粒の涙が落ちる。


 自分が何か大きなものを失おうとしていることが分かる。

 だが祈ることはただ一つだった。



(何を失ってもいい。例えこの命でさえも。あの方が無事でいて下さるならば、

 私は喜んでこの命を捧げる) 



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