『君の名前を呼ぶための嘘』
志乃原七海
第1話「緑ヶ丘中央総合病院」
深夜、時計の針が真上を指し、日付が変わってから久しい時刻。私、山本あづさは、その日最後の見回りを終えようとしていた。コツ、コツ、と廊下に響くのは私の足音だけ。静寂を切り裂くその音は、まるで私だけの世界に迷い込んだような、不思議な感覚を呼び起こす。
患者さんたちの穏やかな寝息が聞こえる病室のドアを一つひとつ確認する。安らかな眠りを守るように、そっと、しかし確実に。それぞれのドアの向こうには、それぞれの物語が息づいている。病と闘う人々、回復を願う人々、そして、明日への希望を抱く人々。
ようやくナースステーションへ戻ろうとした、その時だった。何かが違う、と感じたのは。いつもと違う、微かな違和感。それは、まるで静寂の中に潜む小さなノイズのように、私の胸をざわつかせた。
その違和感に導かれるように、私は足を止めた。そして、静まり返った廊下の奥へと、再び歩き始めた。まるで、何かに引き寄せられるように。
ふと、医務局のドアが少しだけ開いていることに気がついた。消灯時間を過ぎれば、人の気配などほとんどなくなるこのエリア。漏れ出る微かな光に、私の胸は甘くざわめいた。もしかして、彼が…?
そっとドアノブに手をかけ、さらに隙間を広げる。目に飛び込んできたのは、ソファにぐったりと横たわる人影。白衣のまま、投げ出された手足。その姿は、まるで彼の疲れが、私に助けを求めているかのようだった。
「え…?」
心臓がキュッと締め付けられる。恐る恐る、抜き足差し足で近づいた。ソファに横たわるその顔には見覚えがあった。外科のエース、高橋佑樹先生。でも、あまりにも静かで、血の気の引いた顔、固く閉じられた瞳…。
うそ、でしょ…?
まさか。そんなはずはない。でも、この静けさは何? 息、してる…? 不安に駆られて、先生の胸元に手を伸ばしかけた、その時だった。
「うわあ!死んでる…?」
ほとんど悲鳴に近い心の声が、喉元までせり上がった瞬間。
「ん……」
固く閉じられていた先生の瞼が、ゆっくりと持ち上がった。ああ、良かった。生きてる…!
「うわあ、生きてる…!」
今度は安堵の声が、思わず口から漏れた。よかった、なんて当たり前のことに、全身の力が抜けていく。思わず笑ってしまいそうになるのを、必死で堪えた。彼は私のこんな姿を見たら、きっと呆れるだろうから。
「……何だよ、うるさいな」
低く掠れた声。寝起きの不機嫌さを隠そうともしない声音で、高橋先生がむくりと上半身を起こした。ぼさぼさになった髪を手でかき上げ、眠たげな目でわたしを捉える。その視線に、私の心は少しだけ跳ねた。
「あれ? きみ……山本さんだっけ。日勤でもいたね? こんな時間になにしてんの?」
「はい。欠員が出たので、そのままダブルワークです」
わたしの答えを聞いた先生の眉間に、ぐっと深いシワが刻まれた。心配しているのが、ひしひしと伝わってくる。
「いやいや、だめだよそんなの。倒れちゃうよ? 看護師が倒れてどうすんだ」
ぶっきらぼうな口調の中に、ほんの少しだけ心配の色が滲んでいる。その優しさがなんだか嬉しくて、わたしはつい、言い返してしまった。
「わたしは先生こそ、続けてオペだったじゃないですか。昨日の夕方からですよね? 緊急で入られたって聞きました。先生こそ、倒れちゃいますよ」
「……俺は慣れてるから平気」
そう言って、先生は大きなあくびを一つした。全然、説得力がない。その顔には「疲労」の二文字がくっきりと浮かんでいた。そんな彼が、私にはたまらなく愛おしい。
「何か、温かいものでも淹れてきましょうか?インスタントですけど、コーヒーとか」
「……いや、いい」
一度は断ったものの、先生はこめかみを指で押さえながら、小さく息をついた。
「……やっぱ、頼む。ブラックで」
「はい、すぐに」
わたしは笑顔で頷くと、給湯室へ向かった。二人きりの医務局。湯を沸かす小さな音だけが響く。この静かな夜が、彼と私だけの、ほんの少しだけ特別なものに感じられた。まるで、秘密のデートみたいに。
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