【完結】後宮から払い下げられたオメガですが、近衛騎士団長に溺愛されてます
@marine_snow
第1話 運命の日
※プロローグ
――リオンは近衛騎士団長に〝指名〟された、ただ一人のΩだった。
※ ※ ※
唇が合わさった時、白ワインが強く香った。
「酒は苦手なのだろう?」
触れ合ったまま、からかうように言うのに、離れようとはしない。
「…………」
近くに吐息が触れるだけで、すぐに体温が上がってしまうのに。
「これでは、酒に酔ったのか、私に酔ったのか、わからないな」
最初は無口だったのに、いつからこんな台詞を言えるようになったんだろう。
「……あ、あなただって……」
言い返そうとすると、柔らかい熱がゆっくりと侵入してきた。
「本当にどっちか分からないのか?」
苦手なアルコールの苦味ですら、舌の上で甘く溶けていって……頭の芯が痺れるような酔いに身を任せていった。
――これは、まだ手に入れていない未来の記憶。
出会った頃は知らなかった。彼がこんなに我慢していたなんて。
十年、僕だけを待っていてくれたなんて。
愛と焦燥に揺れる眼差しで、僕を強く抱き締めてきた。
指先が震えていたのに、腕だけは、決して離してくれなかった。
僕の前に横たわる〈制度の謎〉が開く時――閉じた記憶は氷が解けるように、静かに戻り始める。
※ ※ ※
二十五歳の誕生日。
それは後宮に別れを告げ、誰かのものになるよう定められた日だった。
ただし、その“誰か”は、王が選んだ高官の中から与えられる。
少なくとも、文官か武官として地位のある者であることは保証されていた。
「お支度を」
文官が一言だけ告げに来た。
同室のオメガたちは黙って顔を伏せている。
別れは昨日のうちにしたから、今日は静かに旅立とうとみんなと決めていた。
ここで賜った服や持ち物は、すべて置いていく。
身一つでやってきて、身一つで出ていくのだ。
――僕の十年間が、終わった。
部屋を出る時、仲の良かったルオが涙声で「お幸せに」と言って礼をしてくれた。
返事が出来なかったのが心残りだった。
声を出せば、何かが零れてしまいそうだったから。
ただ『幸せってなんだろう』その問いだけが心に刻み込まれた。
オメガに生まれてしまったのに、幸せなんて、この先、あるのだろうか。
外に出ると、ぴんと張り詰めた空気に鼻がつんと痛くなった。
朝の空は青く澄んでいて、昨日降り積もった雪が太陽にきらきらと反射している。
文官の後について、雪を踏みしめていく。
馬車に乗り込む前、最後にもう一度だけ、後宮を振り返った。
様々な思い出を押しつぶすほどに――その王宮は、ただ圧倒的に美しかった。
「参りますよ、リオン様」
文官に急かされて二頭立ての馬車に乗った。
馬車の内装は重厚だった。柔らかな座面に腰掛けると、向かいに文官が乗り込み、外から扉が閉められた。
「発て」
御者の短い声で、馬車は滑らかに動き出した。
白亜の王宮が遠ざかっていく。
馬車に揺られていると、後宮に入ったばかりのことを思い出す。
もう二度と会うことはできないと、泣きながら別れた家族たち。
後宮に入れば、街でアルファに襲われることも、無理やりつがいにされることもない。
教養を身につけて、高官の元に側室として嫁ぐことができる。
……しかし、側室は正妻よりも低い立場で嫁がされる存在であり、相手は自分で選べない。
リオンの口元に微かな笑みが浮かんだ。
これが、自分で選択できない『幸せな人生』なのか――。
馬車の小さな窓から外を見ていると、雪のように不安が降り積もっていく。
後宮で生活していると、時折、文官たちが噂をしているのを小耳にはさむことがあった。
一番仲のよかったリリカは、二十五も年の離れた高級官僚の側室の末席に加わったという。
愛情もないアルファと子を成さねばならないなんて……
――そして、今日はおそらく、名も顔も知らない相手と『初夜』があるのだろう。
後宮で教えられた心得を一つ一つ思い返していると、身震いがしてくる。
いっそ、このまま馬車から飛び降りてみたらどうだろうか。追われるだろうか。
野垂れ死ぬかもしれないが、自分で選択できない人生に流されるくらいだったら、そのほうがましだ。
リオンは向かいの文官に気づかれないように、袖で隠しながら、そっと扉のドアの金具を掴んだ。
冷たい金属の感触に手が震える。
なかなか思い切ることができない。
どんな形でも、守られて生きてほしいという、家族の顔が浮かんできてしまう。
オメガに産んでしまってごめんね、と何度も謝ってきた母や、別れの夜に唇を噛みしめていた兄の顔……。
「……それにしても、そなたは恵まれているな」
文官の声に、リオンはびくっと体を震わせた。
「なかなか『ご指名』など滅多にない。噂では、ずっとそなたに心を寄せていたらしいが……」
「そっ、それはどういう……」
その時、後ろへ引っ張られる感覚があり、車輪がきしんだ。
「おっと、着いたか……まあ良かったな、大切にして頂きなさい」
――ここが、目的地? 早すぎないか?
王宮近くの高級官僚の住宅街。その奥にある、ひときわ大きな邸宅。
リオンは馬車から降りると、その威容を見上げた。
石造りの堅牢な正門は冷たくそびえている。
王宮の瀟洒な建物とはあまりにも違う、ここはまるで監獄だった。
馬車を待ち構えていた初老の男が、外側から礼儀正しく扉を開けた。
「文官様、お疲れ様でした。
そして……ようこそ、いらっしゃいましたリオン様。
私は家令のヴァルトでございます。
どうぞ、こちらへ」
ヴァルトは親しみやすい笑顔を向けてきた。
文官に礼をした後、リオンは家令に導かれて正門をくぐった。
そこには長いアーチの回廊が伸びていた。数えきれないほどの太い石柱が、それを静かに支えている。
柱の間からはよく手入れされた庭が見えたが、リオンの視線は真正面の木の扉に吸い寄せられていた。
「こちらでございます」
ヴァルトはリオンを先導するように歩き出した。
王宮の使用人とは異なる、軍人のようなきびきびとした動きだった。
「当主は、玄関ホールでお待ちしております」
歩きながら、家令は言った。
執務服の背中が止まり、リオンはとうとう扉の前に来たことを知った。
オーク材の扉の表面には、精緻な彫刻が施されている。
――僕は誰のものになったのだろう。
オメガは地位のあるアルファに振り分けられると聞いている。
きっと、年配の方に違いない。
ヴァルトは両開きの扉の片側のノブを掴み、ゆっくりと開けた。
リオンは息を呑んだ。
扉の向こうには、見上げるほど背の高い男が立っていた。
男は輝きのない金色の髪に、フロストブルーの目をしていた。
その瞳が驚いたように見開かれ、彼は暫く金縛りにあったように動かなかった。
その唇がわななき、なにか言いたげに開かれたが……また食いしばるように閉じられた。
――この顔、どこかで見たことがある、王宮のどこかで!
ヴァルトが中に入り、扉を閉めた。
天井の丸い窓からは朝の光が差し込み、壁にはトーチの灯りが並んでいる。
ふと視線を戻すと、男の表情は落ち着いていた。
「ようこそ。
王命により、あなたを拝領いたしました。
我が名は、レオハルト・ヴォルフグランツ。
以後、我が剣はあなたに属します」
低いけれども、どこか懐かしい記憶を撫でるような不思議な声。
それは心を落ち着ける響きがあった。
男の黒い礼服の胸元に近衛騎士の金の刺繍が浮かび上がる。
即座に軍人だと分かる、大柄な体躯。その体が流れるような動作で右ひざを突いた。
マントが、石畳の上にゆっくりと広がっていく。まるで黒い海のように。
「……!!」
跪くその姿に、王宮の光景が重なった。
王の傍にいつも控えていた、あの男。
近衛騎士団長――レオハルト!
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