第2話 さやか、体調不良になる

 岐阜基地の医療区画は、戦場の喧騒とは別世界のように静まり返っていた。白い蛍光灯が冷たく光り、壁際の換気口からは消毒薬の匂いがほのかに漂う。


 その静けさの中、長瀬海斗と長瀬静香――今は長瀬一佐となった彼女――は、診察室の前で落ち着かない様子を隠せずにいた。


「……さやか、大丈夫なんだろうな」

 海斗が腕を組みながらも、靴のつま先で床を何度も叩いた。


「分からないわ。だから、こうして篠原主任に診てもらっているの」

 静香も落ち着かない表情で診察室の中を覗いた。


 そこには、診察台にちょこんと座るさやかの姿があった。普段は明るい笑みを浮かべる彼女だが、今は少し元気がなく、瞳の光もわずかに弱々しく見える。


「……わたしは大丈夫です。ただ……少し、体が重い気がします」

 さやかの声はかすかに遅れ、いつもの快活さがなかった。


 白衣の篠原が端末を手にし、静かに動いていた。無駄な言葉はなく、瞳のライトチェック、関節部の応答速度テスト、体内センサーのスキャン――その動きは医師というより、精密機械のように正確だった。


 長瀬夫妻は、息を詰めて見守るしかなかった。


「……ハード異常なし。主要システムも問題なし」

 篠原が淡々とつぶやく。


「でも、さやかの動きが……」静香が不安げに口を開いた。


「そうだな。記録をもう一度確認する」


 篠原が内部ログを解析し、数秒後にふと手を止めた。眉がわずかに動く。


「……原因はこれだな」


 長瀬夫妻が身を乗り出す。


「なにか分かったのか?」海斗が尋ねる。


「――食事だ」


 二人は固まった。


「……食事って、おい」


「ええと……まさか、私たちが昨日の晩に食べさせたアレ……?」静香がバツの悪い表情を浮かべた。


 篠原は頷き、静かに説明した。

「さやかには味覚センサーは搭載されているが、摂取物を処理するシステムは存在しない。つまり――体内でデータが詰まっている状態だ」


「じゃあ……この子は、私たちが食べさせたせいで……?」静香の声が震えた。


「その通りだ。だが――」篠原は言葉を区切り、少し考え込む。


「……いや、方法はあるかもしれないな」


 長瀬夫妻が同時に顔を上げる。


「方法……?」海斗が問う。


「摂取した有機物をエネルギーに変換し、不要物を安全に処理するシステムを追加する。理屈の上では可能だ」


 そこまで淡々としていた篠原の声が、ふいに熱を帯びていった。


「有機物から直接エネルギーを取り出す……そうか、そうだ……!」


 何かのスイッチが入ったように、彼の目がギラリと光る。


「昔あっただろう、未来の映画だ。車が空を飛び、主人公が過去と未来を行き来するやつだ! シリーズ二作目だ。覚えていないか? 未来の街で、ゴミを燃料タンクに放り込むだけで、あの車が動き出すシーンを!」


 篠原の手が宙を描き、まるでタイムマシンの扉を開けるかのように動く。


 海斗が恐る恐る呟いた。

「……あの映画……ですか?」


「そうだ、それだ!」篠原は机を叩いた。

「もしあのコンセプトを現代技術で実装できれば、小型で、安全で、クリーンな変換炉ができる! しかも、さやかの体内に収まるサイズでだ!」


 声がどんどん大きくなる。今まで静かだった篠原が、まるで別人のようだ。


「エネルギー効率は? 冷却系統は? 廃棄物処理は? よし、全部解決できる! 未来はここから始まるんだ!」


 静香と海斗は、ぽかんと口を開けたまま固まっていた。


「……ねえ」静香が小声で言う。

「ええ、完全にスイッチ入りましたね」海斗が苦笑する。



一週間後


「完成だ!」


 篠原は満面の笑みで宣言した。白衣の下の彼は目の下にクマを作りながらも、興奮で手が震えていた。


 さやかの胸部には、新しく小型の変換ユニットが組み込まれている。内部では有機物を安全にエネルギーへと変換し、余剰物は無害化して排出するシステム――まさに未来の技術だった。


「さやか、試してみろ」


「了解です」


 さやかはスープを一口飲み込み、数秒の処理のあとで口を開いた。


「エネルギー変換、成功。システムに問題なし。……次は味が薄いなんて言わせません」


 静香と海斗は同時に安堵の息をついた。


 だが横で水島が吹き出した。

「いや、味の問題じゃないから!」


 篠原は胸を張り、天井に向かって高らかに言った。


「見たか! これが人類の未来だ!」


 海斗は額に手を当て、静香は苦笑しながら小さく頷いた。

 ――さやかが食事をできるようになった日。戦場とは違う小さな騒動が、こうしてひとつ幕を閉じた。


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