『浮世風呂』…銭湯から見える江戸時代の人情話…

@yk1989

浮世風呂大意(前書き)

 よくよく考えてみると、銭湯ほど近道の教訓はないだろう。

 賢者も愚者も、貧しいものも、高貴なものも、湯を浴びて裸になるのは自然の道理である。釈迦も孔子も身分の低い民も、生まれたままの姿で欲もさっぱり捨てて、皆無欲になれる。欲と煩悩を洗い清めて上がり湯を浴びれば、武士の旦那もその使用人も、皆同じ裸姿である。生まれた時の産湯うぶゆから、死んだ時の葬灌そうかん(死体を洗うこと)まで、どんな人も同じ道を辿るのである。仏嫌いの年寄りも風呂に入れば、皆念仏を唱えるし、小粋な若者も裸になれば皆前を押さえて自分から恥を知り、武士は頭から湯をかけられても人混みの中では、じっと我慢して堪える。腕に鬼神の刺青を彫った侠客も、「ごめんください」ざくろ口(浴室の入り口)を屈み入るのは銭湯の徳である。


 人には他者を思いやる気持ちがあるけど、湯にはそんなものはない。例えば、人に隠れて湯の中でおならをすれば、湯はぶくぶくとなって泡を浮かび上がらせる。これは自然の道理である。藪の中で屁をひるような矢次郎はさておき、銭湯に浸かる者として、湯に浸かったら恥ずかしくないように振る舞うべきである。


 総じて銭湯には五常の道がある。湯に浸かり、身体を温め、垢を落とし、病を癒して、疲れた身体を休めるのは「仁」の徳である。「空いている桶はございませんか?」と聞いて、他人の風呂桶を使わず、また、困ってる人に桶を貸すのは「義」の徳である。「田舎者でございまして」、「身体が冷えておりまして」、「ごめんなさい」と言うこと。また、「おはようございます」、「お先にどうぞ」、「お静かにどうぞ」、「ごゆっくりどうぞ」と声をかけるのは「礼」の徳である。糠洗粉、軽石、へちまの皮で垢を落とすこと、また、小石で毛を剃る工夫は「智」の徳である。湯に浸かっている人が「熱い」と言えば水を足し、「ぬるい」と言えば湯を足してあげる。湯に浸かる者同士お互い背中を流し合うのも「信」の徳である。


 このように素晴らしい銭湯であるが、湯につかる人も、水舟(※身体を洗うための水を貯めるための舟)の升も風呂桶も、皆環境によって善し悪しが決まってしまう。湯屋の流し板(※当時は脱衣所と浴室の間に身体を洗うための板張りの部屋があった)のように己の心を常に磨いて諸々の垢をつけるなかれ。


 人間一生五十年とはいうが、やって良いこととそうでない事の分別をつけることができるようになるのは万能膏(※腫れ物や切り傷によく効く薬)の価値がある。

 煩悩の火の用心は、火事にならぬよう書かれた湯屋の定書さだめがきとよく似ている。心におごりの風が立てば人生はすぐに尽き果ててしまう。命は天地からの預かり物であるが、命は大切なものであるというのに、色欲と酒で魂が失せてしまうということを知らない。自分から招いた災など、他人には一切知るよしもない。名誉欲からくる喧嘩や口論、喜怒哀楽の大声は無用である。このことを守らねば、湯に入り損ない、後悔して手拭いを噛むだろうが、そこに一切の得もない。


 総じて、世の中の人の心は銭湯の虱に等しく、善悪に移りやすいものである。高貴貧富は天が決めるものだが、善悪は自分の心が決めるものである。この意味を悟らなければ、人の意見は朝風呂のように自分の身に染み渡るだろう。ただ一生の用心は、与えられた環境に満足し、魂にしっかり鍵をかけておき、喜怒哀楽、そして愛憎を履き違えないようにすることである。


https://kakuyomu.jp/users/yk1989/news/7667601420196283508


https://kakuyomu.jp/users/yk1989/news/7667601420197139515


https://kakuyomu.jp/users/yk1989/news/7667601420197565810




 

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る