香る石鹸と美の衝撃

「ヴァルモットの白パン」は、文字通り、社会現象となった。


クレストン・ベーカリーの前には、噂を聞きつけた人々が、夜明け前から長蛇の列を作るようになったのだ。

一口食べれば、誰もが笑顔になる魔法のパン。


その評判は、瞬く間に領内全土に広がり、マリアの実家は、かつての素朴なパン屋から、領内一の行列店へと、劇的な変貌を遂げた。

町の経済は潤い、人々の食卓には、ささやかな幸福が届けられるようになった。


食文化革命を成功させたカイルは、その熱狂が冷めやらぬうちに、間髪入れずに、次のプロジェクトに着手していた。


ーーーーー


彼のターゲットは、「衛生文化」だ。


この世界の石鹸は、動物の脂と木の灰から作られる、洗浄力だけを追求した、アルカリ性の強いものが主流だった。

汚れは確かに落ちる。


だが、肌に必要な油分まで根こそぎ奪ってしまうため、使用後の肌はカサカサに荒れ、髪はゴワゴワになるのが当たり前だった。


(これでは、女性たちが可哀想だ。美しくなりたいという願いは、いつの時代の女性にとっても、切実なものなのだから。この世界の女性たちのQOL(クオリティ・オブ・ライフ)も、僕が改善してみせる)


このプロジェクトのパートナーとして、彼が選んだのは、もちろん、あの利発な商人の娘だった。

白パンの成功で、フォルクマン商会との取引も拡大し、数ヶ月ぶりにヴァルモット領を訪れたクロエ・フォルクマンに、カイルは一つの美しい装飾が施された小箱を差し出した。


『クロエ、これは君への投資だよ。僕の知識で、君を大陸一の商人にしてみせる』


『まあ、カイル様ったら。また何か、面白いことをお考えですのね。白パンの奇跡を目の当たりにした今、あなたの言葉は全て、黄金の響きを持って聞こえますわ。期待しております』


クロエが恭しく小箱を開けると、中には、柔らかな緩衝材に包まれた、乳白色の固形石鹸が、いくつか収められていた。


そして、箱を開けた瞬間、ふわり、と、これまで嗅いだことのないような、上品で、心安らぐ花の香りが、彼女の鼻腔を優しくくすぐった。


カイルは、白パンの時と同じように、今度は石鹸の「科学」をクロエに語った。

油脂とアルカリを反応させる「鹸化」という化学反応の仕組み。


肌に優しい弱酸性の石鹸を作るための、オリーブ油やヤシ油といった植物性オイルの最適な配合比率。

そして、【神眼】を駆使して領内の薬草の中から探し出した、保湿効果のあるカミツレ(カモミール)と、鎮静効果と芳香を持つラベンダー。

それらを組み合わせた、究極の美容石鹸のレシピ。


クロエは、カイルの話を聞きながら、その蜂蜜色の瞳を、商人としての興奮でギラギラと輝かせていた。


(……すごい。この方は、食文化だけでなく、美容の分野にまで、これほどの知識を……! 肌を洗いながら、同時に潤すですって? 香りで、心まで癒す? そんな石鹸、聞いたこともありませんわ! これは、売れる。いえ、売れないはずがない!)


彼女の商才は、カイルの想像を遥かに超えていた。

クロエは、カイルが開発したレシピを元に、ただ石鹸を作るだけでは終わらなかった。


彼女は、それを「究極の高級品」として、完璧にブランディングしたのだ。

領内で採れる美しい水晶の粉を僅かに混ぜ込み、石鹸そのものが、まるで宝石のようにキラキラと輝く、美しい見た目に。


包装には、王都から取り寄せた最高級の羊皮紙を使い、ヴァルモット家の紋章をあしらった気品あふれる蝋印を施す。

そして、極めつけは、「辺境伯夫人エレノア様が愛用する、門外不出の若返りの秘薬」という、巧みで、抗いがたい魅力を持つブランドストーリーを創り上げた。


最初のターゲットは、領内の貴族や、裕福な商人たちの夫人たち。

クロエが開催した、優雅なお披露目の茶会で、その石鹸は「ヴァルモット・ボーテ」の名を冠して、限定的に配られた。


そして、数日後。

ヴァルモット領の社交界は、文字通り、激震に見舞われることになる。


茶会に参加した貴婦人たちが、皆、まるで魔法にでもかかったかのように、美しく変貌を遂げたのだ。


「まあ、奥様! あなたのお肌が、まるで剥きたてのゆで卵のように、つるつるで滑らかに……!」


「あなたの髪こそ、まるで天使の輪ができていてよ! 一体、どんな高価な魔法を使ったの!?」


「聞いてくださる!? 昨夜、夫が、『君は花畑の香りがする』だなんて、新婚の頃のようなことを言ってくれて……!」


女性たちの、驚きと、感動と、そして喜びに満ちた声が、どんな広告よりも雄弁な口コミとなって、瞬く間に広がっていく。


カイルの母、エレノアも、その驚くべき効果にすっかり魅了され、ブランドの最高の広告塔となった。


そんな噂が駆け巡る中、一人の少女が、カイルのいる城の図書室に、竜巻のように飛び込んできた。


「カイル、大変! 大変なの!」


マリアだった。

カイルが驚いて顔を上げると、そこにいたのは、いつもの快活なマリアでありながら、どこか違う、息を呑むほどに美しい少女だった。


汗と小麦粉の匂いがトレードマークだった彼女から、今は、優雅で甘い花の香りが漂っている。

いつものポニーテールは、陽光を反射して、キラキラと輝くシルクのよう。


そして、何よりも、その頬。

いつも少しだけそばかすが浮いていたはずの肌は、一点の曇りもない、透き通るような白さになっていた。


「見て、カイル! 私の髪、こんなにツヤツヤで、サラサラになったの!」


マリアは、興奮した様子で、自分の髪をカイルの目の前に差し出す。

ふわり、と、ラベンダーとカモミールの、心を落ち着かせる香りが、カイルの鼻腔をくすぐった。


「それと、手! パンを捏ねて、いつもカサカサだったのに、こんなにすべすべに!」


そう言うと、彼女は無邪気にカイルの手を取り、自分の手の甲に、きゅっと触れさせた。

柔らかく、滑らかで、そして温かい。

少女の肌の感触が、カイルの手に直接伝わってくる。


(ち、近い……! そして、いい匂いがしすぎる……! これは、これは不可抗力だ……!)


三十六歳の魂を持つカイルだったが、身体はまだ純粋な八歳の少年。

予期せぬ美少女からのスキンシップに、彼の脳は完全にショートし、顔から火が出るかと思うほど、真っ赤になった。


「あ、あらあら。カイルったら、顔が真っ赤ですわよ」


そこへ、くすくすと笑いながら現れたのは、母エレノアだった。

彼女もまた、以前にも増して、肌に透明感と輝きが増している。


「マリアちゃん、その石鹸、本当に素晴らしいわよね。私も、お父様から『また美しくなったな』なんて言われてしまって」


母と幼馴染の、美の共演。

その眩しすぎる光景を前に、カイルはただ、照れて俯くことしかできなかった。


クロエが立ち上げた「ヴァルモット・ボーテ」のブランドは、こうして、発売と同時に、生産が全く追いつかないほどの、爆発的な大ヒット商品となったのだった。

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