パンの香りと平穏な日々
カイルとマリアは、大人たちの目を盗んで裏口からこっそりと城を抜け出した。
彼らにとっては、それすらも探検の一部であり、胸を躍らせる冒険の序章だった。
眼下に広がるのは、ヴァルモット辺境伯領の城下町。
石畳の道が緩やかな坂を描き、道の両脇には、漆喰の壁と木材の梁が特徴的な、素朴ながらも頑丈な家々が立ち並んでいる。
王都アストリアと比べれば、その規模も華やかさも、比べるべくもない田舎町だ。
だが、そこには確かな生活の息遣いと、活気が満ちていた。
鍛冶屋の工房からは、リズミカルな槌の音が響き渡り、井戸端では女性たちが楽しげにおしゃべりをしながら洗濯をしている。
露店に並べられた野菜は、どれも朝露に濡れたばかりのように瑞々しい。
行き交う人々の顔には、貧しさからくる卑屈さや、帝国との緊張関係からくる恐怖の色はない。
誰もが自分の仕事に誇りを持ち、ささやかな日常を懸命に生きている。その顔には、穏やかな笑顔が浮かんでいた。
「あ、カイル様! マリアちゃんも! 今日はどちらへ?」
「こんにちは! 森まで競争だよ!」
「まあ、お気をつけて」
声をかけてきた雑貨屋の女主人に、マリアが元気いっぱいに手を振り返す。
カイルも、貴族の子息らしい落ち着いた態度で、小さく会釈を返した。
(これが、父上が守ってきたものなんだ)
カイルは、このありふれた、しかし温かい光景を目に焼き付けた。
前世で彼が住んでいた世界は、物質的には遥かに豊かだった。
だが、人々の心は常に何かに追われ、隣に住む人間の顔さえ知らないことも珍しくなかった。
それに比べ、この世界の、人と人との繋がりが密で、共同体として成り立っているこの空気感は、彼にとって新鮮で、そして守るべき価値のあるものだと感じられた。
これが、父レオンが武骨なまでに辺境の盾としての任を全うし、守り続けてきた日常なのだ。そして、カイル自身が、未来で決して失いたくないと願う宝物でもあった。
そんな感傷に浸るカイルの思考は、隣を歩く太陽によって、いとも容易く中断させられる。
「あ、そうだ! カイル、ちょっと寄ってこ!」
そう言うが早いか、マリアはカイルの腕をぐいっと掴むと、当然のように脇道へと逸れていった。
その強引さは、もはや彼女の標準仕様である。
マリアがカイルを引っぱって駆け込んだのは、一軒のパン屋だった。
年季の入った木の看板には「クレストン・ベーカリー」と、少し掠れた文字で書かれている。
彼女の実家だ。
店先に一歩足を踏み入れた途端、ふわりと香ばしい匂いが二人を包み込んだ。
小麦が焼ける甘い匂い、天然酵母の少し酸味のある香り。それは、人の食欲を根源から刺激する、幸福な匂いだった。
『お父さん、ただいまー! カイルと一緒に森に行くから、残りのパンもらってくね!』
店の奥から「おお、マリアか!」という野太い声と共に現れたのは、マリアの父親だった。
鍛え上げられた逞しい腕、白いエプロンについた小麦粉、そして娘とそっくりの快活な笑顔。
彼は、カイルの姿を認めると、人の好い笑みを深めた。
「これはこれは、カイル様。ようこそお越しくださいました。いつも娘がご迷惑をおかけしておりませんかな?」
「いえ、そんなことは。こんにちは、クレストンさん」
カイルが丁寧に挨拶をすると、マリアの父は「はっはっは」と豪快に笑った。
マリアはそんな父親とのやり取りなどお構いなしに、棚に並べられた焼き立ての黒パンをいくつか、手際よく布袋に詰め込んでいく。
この世界のパンは、精製技術が未熟なため、栄養価の高い胚芽やふすまごと挽いた粗挽きのライ麦粉を使うのが主流だ。そのため、色は黒く、食感は硬く、そして独特の酸味があった。
(ああ、前世のふわふわな食パンが恋しい……)
カイルは、マリアが布袋に詰めた黒パンを一つ手に取り、まじまじと見つめた。
そして、彼のユニークスキル【神眼】を、そっと発動させる。
【対象:ヴァルモット式黒パン】
【原材料:粗挽きライ麦、天然酵母(複数種混在)、岩塩、湧き水】
【状態:焼き立て。栄養価は非常に高いが、発酵プロセスが不完全なため、組織が密で硬質化。
酵母の選別が行われていないため、酸味が強く残留している】
【改良提案:精製小麦粉の使用、酵母の純粋培養、二段階発酵プロセスの導入、
窯の温度と湿度の精密管理により、食感と風味の大幅な向上が期待できる】
(……やっぱりな。素材はいいんだ。ただ、技術が追い付いていないだけだ)
カイルの頭の中には、前世で培ったDIYや、趣味で凝っていた料理の知識が、膨大なデータベースとして詰まっている。
この世界の食材と、前世の調理技術を組み合わせれば、食文化に革命を起こせるかもしれない。
人々が、初めて食べるふわふわの白いパンに目を丸くし、頬張っては満面の笑みを浮かべる光景が、彼の脳裏に浮かんだ。
(いつか、必ず実現させてみせる。僕の知識で、この世界の人々を笑顔にしてみせるんだ)
そんな壮大な計画を、彼は誰にも告げずに、胸の奥で温めていた。
「カイル、お待たせ! 行こっ!」
パンを確保して満足したマリアに手を引かれ、カイルは彼女の実家を後にした。
パンを頬張りながら、二人は城下町を抜け、森の入り口へと続く小道へとたどり着く。
喧騒が遠ざかり、代わりに鳥のさえずりや、風が木々の葉を揺らす音だけが聞こえてくる。
木漏れ日が、キラキラと輝きながら地面にまだら模様を描き、どこまでも平和で、ありふれた午後を演出していた。
この穏やかな時間が、永遠に続けばいい。
カイルは、隣で楽しそうにパンをかじる幼馴染の横顔を見ながら、心からそう願っていた。
だが、彼が転生した『アナザー・ガイア』の世界は、そんな主人公のささやかな願いすら、踏みにじることを喜びとするかのように、いとも容易く、そして唐突に、その牙を剥くのだ。
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