ようこそ、クソゲー世界へ
赤ん坊としての生活は、一言で言えば「退屈」と「発見」の無限ループだった。
腹が減っては泣き、おむつが濡れては泣き、眠ければ泣く。意思の疎通は、この「泣く」という単一の出力方法に全て集約されていた。前世で三十年間培ってきた語彙力もコミュニケーション能力も、ここでは何一つ役に立たない。
移動は常に「抱っこ」待ち。自分の意思で一歩も動けないというのは、想像を絶する不自由さだった。魅力的な母親や、かいがいしく世話をしてくれる侍女たちに抱き上げられるのは満更でもないが、たまに無骨な父や、鎧姿の騎士に抱っこされた日には、その硬さと居心地の悪さに半泣きになったものだ。
(これが……俗に言うフルダイブ型VRMMOのチュートリアルか何かか? だとしたら、あまりにも操作性が悪すぎる……!)
そんな不自由極まりない日々の中で、カイルは自身の置かれた状況を最大限に活用することにした。つまり、徹底的な情報収集である。幸い、赤ん坊というのは警戒されない。むしろ、そこにいることすら忘れられることさえある。彼は、その特性を利用した、完璧な諜報員と化した。
主な情報源は、侍女たちの他愛ない噂話だ。授乳の合間や、部屋の掃除中に交わされる会話には、この世界の常識や文化が詰まっていた。
「まあ、聞いた? 中央の魔術師団が、新しい攻撃魔法を開発したんですって」
「うちの旦那、今度の休みに教会へ行って、息子のためのスキルオーブを拝借してくるって張り切ってたわ」
(魔法……スキルオーブ……。間違いない、ファンタジー世界だ)
父と母の語らいは、より具体的で重要な情報をもたらしてくれた。父レオンが辺境伯として治めるこの「ヴァルモット辺境伯領」 は、アストレア王国 の北東に位置し、常に北の大国からの軍事的圧力に晒されていること。母エレノアが、王都の由緒ある公爵家の出身であること。
それらの断片的な情報と、【神眼】がもたらす詳細なデータを組み合わせることで、世界の輪郭は驚くべき速度で鮮明になっていく。侍女が「回復薬」の存在を口にすれば、次に薬瓶を見た瞬間に【神眼】がその正式名称、成分、市場価格まで表示してくれる。
まるで、答え合わせをするように、カイルの頭の中にはこの世界のデータベースが構築されていった。
だが、情報が集まれば集まるほど、カイルの胸には奇妙な既視感が募っていく。
(アストレア王国……ヴァルモット……どこかで聞いたような……。まるで、昔やりこんだゲームの地名みたいだ)
思い出そうとしても、霞がかかったように判然としない。そんな日々が数ヶ月続いた、ある日のことだった。
その日、カイルはベビーベッドの中で眠ったふりをしていた。隣接する父の書斎から、珍しく低い声での議論が聞こえてきたからだ。
相手は、ヴァルモット家に仕える騎士団長だろう。普段は固く閉ざされている書斎の扉が、今日は少しだけ開いていた。絶好の盗み聞きチャンスだった。
壁越しに聞こえてくる会話に、カイルは赤ん坊の鋭敏な聴覚を最大限に集中させる。国境付近の警備体制、兵士たちの練度、そして――
『……北のグリフォン帝国が、また国境付近で不穏な動きを見せている』
(グリフォン帝国……!?)
その名を聞いた瞬間、カイルの脳内に、忘却の彼方に沈んでいたはずの記憶が、まるで稲妻のように突き刺さった。全身の産毛が逆立つほどの衝撃。忘れるはずもない。それは、前世で彼が不眠不休でデバッグ作業に当たった、あの忌まわしきVRMMO『アナザー・ガイア』に登場する、主要な敵対国家の名前だった。
霞のかかっていた記憶が、一気に晴れていく。
アストレア王国、ヴァルモット辺境伯、グリフォン帝国。点と点が繋がり、一本の絶望的な線となって、彼の目の前に突きつけられた。
(嘘だろ……あのクソゲーの世界だっていうのか!?)
『アナザー・ガイア』。それは、些細な選択ミスが国家滅亡に繋がるような「滅びのフラグ」が異常なまでに仕込まれた、理不尽極まりないゲームだった 。
親切そうに話しかけてきた村人が実はラスボスの部下で、世間話に付き合ったが最後、街ごと消滅させられる 。良かれと思って盗賊に襲われていた商人を見逃してやれば、その商人が実は国を傾けるほどの詐欺師で、数日後には自国の経済が破綻するフラグが立つ 。開発者の悪意が煮詰まってできたような、そんな悪夢の世界。
そんな世界で、自分は赤ん坊から人生をやり直さなければならないのだ。
(無理だ、無理すぎる……! セーブもロードもできないリアルで、あの鬼畜仕様をどう攻略しろって言うんだ!)
ようやく手に入れた第二の人生が、開始早々イージーモードどころか、バグだらけで即死トラップ満載のデバッグモードであることが確定した。
カイルは、これから自分を待ち受けるであろう無数のデッドエンドを想像し、まだ温かいミルクの匂いが残るベビーベッドの上で、静かに戦慄するしかなかった。彼の穏やかな赤ん坊ライフは、今この瞬間、終わりを告げたのだ。
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