ガンヅキサマ

樫野埼 灯

ミカ

I

潮風が塩の匂いを運び、寄せては返す波の音が絶え間なく響くこの小さな島は、まるで時間が止まったかのような長閑な日常に包まれていた。

白い砂浜にはカモメが舞い、漁師たちは朝早くから船を出し、夕暮れには地元民が港の市場で新鮮な魚を手に笑顔を交わす。

そんな穏やかな光景が、島を訪れた者を優しく迎え入れる。


しかし、夜が更け、月が空高く昇る頃、島のどこかから奇妙な声が響き渡る。

悲鳴ともうめき声ともつかぬ、背筋を凍らせるような音。

それは獣の咆哮とも、風の唸りとも異なる、異様な響きだった。


島の者たちはその声を聞くと、窓を閉め、戸を固く閉ざす。

そして、決してその出どころを口にしない。


その声は、島の外れにひっそりと佇む古い屋敷から漏れていた。

苔むした石垣に囲まれ、朽ちかけた木造の屋敷は、まるで海の塩気と時間の重みに耐えかねているようだった。

屋根瓦はところどころ欠け、窓の格子は錆びつき、昼間でも薄暗い影を落とす。


その屋敷こそ、ミカが祖母と暮らすために引っ越してきた、母の実家だった。


ミカは都会の喧騒を離れ、この小さな島にやってきたばかりの高校生だった。

彼女にとってこの島の静けさは新鮮だったが、同時にどこか不気味だった。

地元民の目は鋭く、よそ者のミカを見るたびに口を閉ざし、視線を逸らす。

まるで何かを隠しているかのように。


「ここ、なんか変だよ

みんな何かを隠してるみたい」


ミカがそう呟くと、祖母は皺だらけの手で茶碗を拭きながら、静かに答えた。


「気にせんでええ、あれはただの風の音じゃ

海の近くじゃけえ、夜はいろんな音がするもんじゃよ」


だが、ミカにはどうしてもそうは思えなかった。

あの声は、風の音などではなかった。



その夜、ミカは眠れなかった。

都会の雑音がない分、屋敷の静寂が逆に耳に刺さる。


波の音が遠くに響く中、屋敷の奥から奇妙な音が聞こえてきた。


「ガチコイガチコイ……」


何か硬いものが擦れ合うような、規則的で不気味な音。

まるで骨がぶつかり合うような、乾いた響きだった。


それに混じって、かすれた声が続く。

囁きとも呻きともつかぬ、低い声。


ミカの心臓が早鐘を打つ。

音は屋敷の奥、薄暗い廊下の先から聞こえてくる。


祖母からは「夜は奥の部屋に近づくな」と言われていたが、好奇心と恐怖がせめぎ合い、ミカはスリッパを履いて廊下を進んだ。


廊下は月明かりに照らされ、壁に古い家族写真が並んでいる。

どの写真も、祖母や知らない親戚たちが無表情でこちらを見つめていた。

まるでミカを監視しているかのように。


突き当たりの木製の格子が、薄い光の中で揺れている。


恐る恐る格子に近づくと、その向こうには二畳ほどの板敷きの間があった。

家具も調度もなく、ただ中央に粗末な皿がポツンと置かれている。


埃っぽい畳と煤けた壁に囲まれた部屋は、まるで時間が止まったような静けさに満ちていた。


置いてある皿は空だった。

まるで誰かに食べられたかのように。


「だ、誰…?」


ミカが震える声で尋ねると、闇の中から声が返ってきた。


「ガンヅキサマ」


ミカは飛び上がるように後ずさった。

誰もいないはずの部屋から、はっきりと声が聞こえたのだ。


ぬるりと、まるで耳元で囁くように近く、脳に直接響くような不快極まりない声だった。

格子の隙間から冷気が流れ込み、ミカの全身を凍りつかせた。




翌朝、ミカは震えながら祖母に昨夜の出来事を話した。

朝の光が差し込む台所で、祖母は黙って聞いていたが、やがて重い口を開いた。


「あの部屋には、ガンヅキ様がおるんや」


「ガンヅキ様? 何それ…」


ミカの問いに、祖母は目を細め、格子の向こうの虚空を見つめた。

まるでそこに何かが見えるかのように。


「神じゃ…わしらの島を守る神様じゃよ

だが、守り神は祟り神にもなる


上手く手懐けられているうちはええが、一度頭に乗らせてしまえば島ごと食う恐ろしい存在じゃ」


祖母の話によると、ガンヅキ様は古くからこの島に棲む神とも妖怪ともつかぬもの。

霧のように揺らめく顔の形をし、目は濁った赤と黄の光でギラギラと輝く。

その目はまるで腐った沼の底、見た者を惑わし、心を飲み込む。


島の者たちはガンヅキ様の機嫌を取るため、毎晩冷凍食品を捧げてきた。


ミカの仕事は、その温めた冷凍食品を皿に盛り、部屋に置くこと。

決して作りたて出来立てのご飯を供えてはいけない。


「勘違いさせんためじゃ

ガンヅキ様に分相応をわからせとかんと、欲が膨らんで島が滅ぶ」


ミカはぞっとした。

祖母の口調は真剣で、まるで冗談ではない。


ガンヅキ様の姿を想像すると、背筋に冷たいものが走る。

霧のような顔、ギラギラと光る濁った目。

それはまるで、人の闇そのものが形を成したようだった。


「お皿が空になって……誰が食べてるの?」


ミカの問いに祖母は一瞬目を伏せ、意味深に言った。


「考えるな

頭おかしなるで」


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