1-2 サイン・コカイン・タンジェント

 新しい朝が来た。希望の朝だ。

 ただし、俺以外の人間にとって。


「はぁ……まだ水曜日か」

 スマホのロック画面を見て、思わずため息が出てしまう。


 時刻は朝の六時。今年は7月下旬にして既に気温が三十度を超え、蒸し暑い日々が続いている。

 朝はまだ過ごしやすいが、腕をさすると少しだけべたついていた。


「でも、大丈夫! なぜなら、もう少しで夏休みだから!」

 そう自分に言い聞かせて、元気に体を起こす。


 麻依に目をつけられてからおよそ二ヶ月が経過し、中間・期末テストを終え、あとは夏休みを迎えるばかり。

 夏休みなら、学校という強制力が効果を失う。


 あと数日も我慢すれば、一ヶ月間あいつに悩まされない日々を送ることができる。

 そう考えると、少しだけ希望が見えた。


「ようし、今日も耐えるぞ!!」

 頬を叩き、階段を下りて顔を洗い、リビングへと向かう。

 しかし、俺の覚悟は――扉を開けた瞬間、ぐらりと揺らいだ。


 ズーーーーーッ……。


 そんな音が、ダイニングテーブルから聞こえてきたせいだ。


「あらあ、寧一くん。おはよう、今日も早いのねえ」

「ばあちゃん! 朝からコカイン吸うなって言ったよな!? 俺がやってると思われたらどうするんだよ!!」

「ウッフフフ、ごめんねえ。わたしゃ、これがないと一日が始まった気がしないのよ」


 俺のばあちゃん、椎日粟国(しいび あぐに)が鼻を鳴らしながら、紅い目を細める。


「大丈夫よお、もしマトリが来ても寧一くんには迷惑かからないようにするから」

「そんな状態で、警察にまともな説明ができるのかよ……」


 ばあちゃんを見ていると麻依の目を思い出して、げんなりする。


 言っておくが、ばあちゃんは犯罪者じゃない。

 コカインの原材料である、コカの木の薬人だ。


 薬人は自分の体――髪の毛や唾液、血液などに薬効成分が含まれ、生きていくにはその成分を摂取する必要がある。

 だから、自分の持つ成分であれば服用や携帯が許されるらしい。


 そんなこと、あっていいのか? ――という疑問は、とうの昔に消え失せた。

 現実にそういう仕組みになっているんだから、受け入れるしかない。


「ああそうだ、寧一くんのために朝ご飯を作らないとねえ」

「別にいいよ、自分で作るから」

 立ち上がろうとするばあちゃんを手で制して、キッチンへ向かう。


 ばあちゃんは今、キマっている。

 キマっている最中の人間に、まともな食事は作れない。


 薬人であろうが、親族だ。怪我でもされたら困るし――それに、食事になんらかの成分を混ぜ込まれそうで怖い。


 炊飯器を空けて、匂いを嗅ぐ。どうやら、米には何も混ぜられていないらしい。

「そういやばあちゃん、今日はどっか行くの?」

 おにぎりを作りながら聞くと、ばあちゃんは据わっていない首をぐにゃりと動かしてこちらを見た。


「今日は水曜日だからねえ。おじいちゃんとデートするのよ。楽しみ!」

「ああ、面会ね」

「おじいちゃん、きっと寂しがってるから。なんとか看守の目を盗んでキメさせてあげようと思って」

「やめろよ。またじいちゃんの刑期延びるだろ」

「ウッフフフ、冗談よ」


 目が合うと、ばあちゃんはにっこりと微笑んだ。

(本当に冗談か?)

 そう思ったものの、黙っておくことにする。


 俺は上京するにあたって、ばあちゃんの家に下宿するかバイトで家賃を稼ぐかの選択を迫られ、勉強のために下宿を選んだ。


 ただ、その選択が正解だったかどうか――未だにわからない。


   *


「それじゃ、行ってきます」

 身支度を済ませて声をかけると、ばあちゃんは見送ると言って玄関までついてきた。

 しかし不意にばあちゃんがふらついて、扉にもたれかかる。


「ちょっと、大丈夫?」

「うん、平気い。吸い過ぎたせいか、目の前がグニャングニャンしてて」

「立ちくらみじゃなくてキマり過ぎかよ」

 心配したのを後悔しつつ、靴を履く。


 その時だった。


 ピーン、ポーン……。


 インターホンが鳴って、とっさに顔を上げる。

 玄関扉の磨りガラス越しに、見覚えのありすぎる緑の人影が見えた。


「はっ……? な、なん、なんで……」

 全身に鳥肌が立つ。声がうわずって、うまく言葉にならない。

 なんで、どうして“あいつ”がここに?


「あらあ、お客さんかしら。はあい」

「ちょ、ばあちゃん! 開けるな……」

 止めようとしたが、遅かった。

 ばあちゃんが慣れた手つきで鍵を開け、なんの躊躇いもなく扉を開ける。


 そのわずかな隙間から、虚ろな瞳がこちらをのぞき込んできた。


「でー、いち、くぅん♪ おはよぉ~~~~」

「あ……麻依……!」

 思わず腰を抜かして、土間に尻餅をつく。


「うふふ……やっぱりぃ! ここが、でーいちくんの住んでるおうちなんだねぇ?」

「ひ……ひぃい……!」


 それは俺が入学以来、つきまとわれても走って撒き、聞かれてもひた隠しにしてきた家の住所が――最悪の薬人に突き止められた瞬間だった。

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