第4話

「今日は何を描きたい?」

 雨の音が少しずつ間隔を広げる。夕方まで変わらなかった雨の強さが、少しだけ弱まってきた。

 夕菜さんはほぼ毎日例のボランティアをしているけれど、それは決まって「おばあさまたちのティータイム」の前までであるらしく、一度家に帰って夕食の支度をして日向と一緒に食事を済ましてからこの家にやってくる。

 髪をくくっているから、すっきりと現れる、形の良い小ぶりな両耳には、華奢きゃしゃな花びらをかたどったピアスがきちんとついている。夕菜さんの身につけるものは、ちゃんと夕菜さんの所有物だ。誇示するのでも、萎縮するのでもなく、それは夕菜さんの一部になっている。

「花を描きたいの。小さい花がいいわ。もちろん、かわいらしい花よ」

 絵画教室といっても、夕菜さん以外に僕は生徒をとっていない。それは、夕菜さんもきっと知っているし、知っているからといって何にもならない。

「これなら実物があるけど」

 雨が降る前に、ベランダからリビングへ移動させておいたその花を両手におさまる小さなプランターごと部屋に運ぶ。プランターからあふれるほどに、一重咲きのその花たちは咲いている。まるっこい花びらの根元が少しだけ白色に染まり、残りはすべて均一な赤色でいっぱいになっている。

 僕の胸の前に広がる赤色を見て、夕菜さんの一重の目の端に、細く皺が入る。

「ぴったりね」

 花に向けられたはずの言葉が、僕に触れる。わかっていても何も変わらない。




 テストが始まってから、ようやく一週間が経ち、今日ですべてのテストが終わった。せっかくのテスト週間も、長引く雨の日に邪魔をされて、まったく『良いお勉強』の時間にはならなかった。

 教室の空気は騒々しさの濃度を増している。秋の晴れは、夏のそれよりも、空が低く見えるのにずっと澄んで感じる。窓のサッシにまで掃除の行き届いたこの教室と、その空の下とでは、空気の純度がずっと違っていて、だからいつも、山井さんを考える。山井さんのまとう大人を思い出して、いつもいれてくれる紅茶の香りをそっと吸い込む。

 教室の濃度が下がるのを待たず、わたしは席を立つ。スカートの襞が裏返っていないか手を沿わせて確認し、教室を出て行く。


「久しぶり」

 わたしはいつも山井さんを考えているから、まったくそんなことは思わなかったけれど、山井さんのまとう、その空気に、ちゃんと同じ言葉を返した。

「テストはどうだった?」

 いつもの紅茶の香りを深く吸い込む。正しい香りをちゃんと思い出すために。

「テストはいいの。終わったことはどうにもできないから」

 山井さんは、テーブルに肘をついて、左手にゆっくりとその細い顎を預けて、笑う。

「そっか」

 声も仕草も、いつもの山井さんなのに、どこか違う。山井さんのまとう大人をちゃんと深く吸い込んだはずなのに、落ち着かない。でも何が違うのか、言葉を選び出せなくて、慌てて紅茶に口をつける。

「日向が来ない間にひとつ絵ができあがったんだ。お手本用のね」

 わたしが一口飲むのを待ってから、山井さんはさらりとそう言って、玄関に近い絵を描くその部屋から、一枚の小さなキャンバスをもってくる。

 どこかの家の庭だろうか。低く広がる雲から、透き通った霧雨が降っている。一面に広がる湿った低木とまばらに見える黒の混じった土。その土の部分に、背の低い赤色の小さな花たちが、控えめに描かれていた。

「お母さんのためのお手本ってこと?」

 わかっていることをあえて聞くことは、相手を追い詰めてしまいたいとき。いつかお母さんが、そう言っていた。

「そうだね。日向はどう思う?」


 わたしが電話の相手を見つけるのにまったく時間はかからなかった。あの日の数日後、夕食を済ませた後にふらっと出て行くお母さんをつけていった。

 お母さんのノック音に反応して開いた扉から出てきた顔は、パパとは違って色白で、力の抜けた猫背は頼りなげだった。お母さんはこの人のことを好きにはならないだろうな。漠然とそう思って、まだ少し疑っていた恋人説はすっかり消化された。

 けれど、あの電話があった日からわたしとお母さんの関係は少し変わった。それは、わたしが無視をするとか夜遊びに明け暮れるとか、そんなたいそうなことではなくて、微妙なもので、でも決して、元には戻せないものだった。


 一度は興味を失った山井さんに近づいたのは、お母さんがもって帰ってきた絵を見たからだった。その絵は、どこかの外国の田舎の風景画で、晴れているように明るいのに、雨が降っていた。柔らかい色彩の中の、透明で清潔な雨を、綺麗だと思った。

「碧人くんがね、わたしをイメージしたんですって」

 こともなげにそう言って、わたしにその絵を渡したお母さんは、コーヒーを飲んでいた。

 お母さんは気づいていないのだろうか。この絵を描いた人が、お母さんをどう思っているのか。

 次の日には、山井さんの家のインターホンを押していた。どんな風に言って家にいれてもらったのか、もう覚えていないけれど。山井さんから見えるお母さんはどんな人なのか知りたかった。本当に、はじめは、ただ知りたかっただけだったのに。


 初めて会ったときから今までずっと、山井さんのわたしを捉えるその目は、どうしたってお母さんを通していて、わたしはその人の娘としか映らない。

「山井さんはやっぱり大人だね。お母さんたちと同じ」

 キャンバスに描かれた赤いその花は、わたしの目にたまる濁った水で、もうよく見えなかった。




 玄関の扉が開く音が聞こえても、日向の「ただいま」と言う声は聞こえなかった。

 わたしが、あの人から離れた理由を話したあの日から、一度も聞いていない。それは仕方のないことだと思う。わたしが日向に話さなかったのだから。驚いて、わけがわからなくて困惑するのは仕方のないことだから。

 けれど、わたしがあの人から離れる理由も仕方のないことで、仕方のないことと、仕方のないことが、重なり合ってしまったときは、上手く解きほぐそうとすることなくそのまま受け入れてしまえばいいのに。

「お母さんはずるい。山井さんはお母さんが好きで、お母さんはそれを知っているのに何もしない。パパも山井さんもどっちもだなんてずるいんだよ」

 久しぶりに話しかけてきた娘は、落ち着いた口調を維持して、けれど、一息で話しきった。碧人くんと何かあったのだとすぐにわかった。今日でテストが終わった日向は、きっと碧人くんの家に行っただろうから。


「コーヒーが飲みたいわ」

 この子は、どうして仕方のないことを整頓して、単純にしようとするのだろう。その複雑さに振り回されるくらいなら、複雑は複雑と、そのまま受け入れてしまえば良いのに。

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