彼らの場合は
緋櫻
第1話
この家はきちんと呼吸をしている。黒褐色の壁も、同じ色に染まった床板も、きちんとその日の空気を含んでいるから。
一階の居間へ降りて、コーヒーをいれる。二階のわたしの部屋の床板よりも、居間のそれはもっと、十分に空気を吸い込んでいるようで、温度はきちんと朝にふさわしく、低く保たれている。
学校が終わってから碧人くんを訪ねて、必ず暗くなる前に帰ってくる。
夕方を越えても明るさの残る夏は、週に何度も、何時間も、碧人くんのところへ通っていた。けれど、日の短い冬は、学校からまっすぐ帰ってくるだけで日が暮れてしまうから、と言って、あの子はほとんど碧人くんに会いに行かなかった。
頻度も、時間の長さも、まったくバラバラだけれど、日向が碧人くんの家へ行くことはずっと続いている。もう一年になるほどに。
日向の身の回りは、きちんとしている。
早起きが得意ではないのに、毎朝、制服のブラウスに自分で丁寧にアイロンをかける。スカートの
わたしは日向に誠実でいたい。だから今朝もあの子を起こした。きっちりと制服を着られるように。
朝の空気に、手元から広がるコーヒーの良い香りがくるくると混ざる。今日は一日中、いつだってコーヒーを飲むことができてしまう。
悠々自適。
二十八歳の、働き盛りの男に使われる言葉ではないような気がする。けれど周囲の自分への判断は、間違っているとも思わない。親の用意した一人暮らしには不向きなファミリー用のマンションで、気の向くままに好きな絵を描いている。株をやってもほんの小遣い稼ぎにしかならないし、たいした興味はない。
テーブルに戻ると日向が窓の外に目を向けていた。昼過ぎの暖かな日差しが窓を通り抜けて、日向に柔らかにぶつかっている。日を浴びて茶色に透ける髪は、夕菜さんのと同じ色だ。同じ色に目も透けているけれど、まぶたには夕菜さんにはないはっきりとした二重の線が入っている。
「今日、早いね」
日向は僕の家に自由に来るけれど、それはいつも決まって、もう部屋に日差しは届かないくらいの時間帯だから。
「テスト週間なの」
肩をすくめて控えめに笑う目尻には、夕菜さんと同じ形に、けれども夕菜さんのよりも薄く、
山井さんは大人。もう十分に大人。年齢とかじゃなくて、仕事をしているからじゃなくて、大人という言葉がぴったり体に合ってる。だって、年齢でいったらわたしはもう十八歳で大人のはずなのに、山井さんとは全然違うから。あと十年経ったら、今の山井さんと同じ年齢になるけれど、きっと山井さんのもっている大人にはなれない。
山井さんの家は、わたしの家と高校のちょうど中間地点にある綺麗なマンション。五階建てで、外壁は清潔な白。きちんとリビングと寝室が別になっていて、もちろん浴室とトイレも別になっている。それにもう一つ、リビングの半分くらいの大きさの部屋もある。東向きのこの部屋にはバルコニーもついていて、必ずお花が置いてある。
バルコニーに面したリビングにはまだ日差しが注いでいて暖かい。いつもの紅茶の匂いと一緒に山井さんがキッチンから戻ってくるのを横目に感じながら、わたしはそっと、少しだけ腰を上げてスカートの襞を直す。
山井さんに、訪ねてくる時間がいつもと違うわけを聞かれたから、正直に答える。山井さんは椅子をひく手をすっと止めて、わたしの方へ目を向けて優しく笑う。
向かい合わせに座った山井さんは、左肘をテーブルの上にのせ、線の細い
「まだ子どもなの、わたしは」
思っていたよりもふてくされた声になってしまったことに勝手にたじろぐ。山井さんは気づいていないのか気にしていないのかわからないけれど、口元にまで笑みを移し、カップを置いて、空いた右手の中指で角砂糖の入った小さな入れ物をわたしの前まで滑らせる。
「砂糖は大人にも
山井さんはたまにいたずらをする。子どもみたいなことなのに、山井さんはいつだって大人だ。角砂糖をひとつ溶かすといつもと同じ紅茶になった。ついでにもう一度紅茶の香りを味わう。さっきよりも少し深く吸って向かいにいる山井さんまで一緒に感じる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます