SCENE#110 ストラングル・ホールド

魚住 陸

ストラングル・ホールド


プロローグ





深夜、古びたジムには、サンドバッグを叩く鈍い音だけが響いている。その音は、まるで男の心臓の鼓動のように…





男、神崎 亮(かんざき りょう)は、一人、黙々と汗を流していた。彼の脳裏には、数年前のあの日の記憶が、フィルムのように何度も繰り返し映し出される。日本レスリング界の頂点を極めるかと思われた、そう…あの全国大会決勝。





神崎は、勝利を目前にして、禁じ手とも言われる危険な締め技、「ストラングルホールド」を仕掛けた。その一瞬の判断が、相手の選手生命と人生を奪ってしまった…彼の輝かしいキャリアはピリオドを打つことになってしまった。そして、同じ階級のライバルで、親友でもあった鷹山も、その試合での無理な闘いがたたり、選手生命を断たれた。神崎の栄光は、二人の男の未来を奪う代償として、永遠の罪悪感に変わっていた。





「 ストラングルホールド……。あの技が、俺の人生のすべてを変えた。栄光も、ライバルも、何もかも…そして、俺自身も…」






第一章:失意と光




神崎は、過去の重荷に耐えきれず、指導者としても熱意を失っていた。ジムは寂れ、若手選手たちは彼の背中を「過去の人」と囁きながら離れていった。経営は悪化し、ジムを閉鎖することも考えていた。そんなある日、一人の少年がジムの扉を叩いた。





「あの、ここでレスリングを教えてもらえませんか?」





「…ああ」





神崎は少年の顔を見て、一瞬言葉を失った。その顔は、間違いなく、彼が、ストラングルホールドで再起不能にしてしまった高梨のものだった。





「…君、名前は?」





「高梨翔太といいます。父も昔、レスリングをやっていたんです…」





翔太の言葉に、神崎は過去の記憶が蘇り、うつむいた。胸の奥に、鋭い痛みが走った。





(高梨…まさか、あいつの息子か。なぜ、よりによって…。 )

 




その夜、神崎は携帯を手に取った。画面には、鷹山のジムのニュースが映し出されていた。彼のジムは、全国でも指折りの強豪ジムとなっていた。画面に映る、鷹山の表情は、常に鋭く、どこか憎しみに満ちていた。






第二章:因縁の再燃




翔太の才能は目覚ましく、神崎は指導者としての情熱を徐々に取り戻し始めた。しかし、翔太は父の試合映像を参考に、無謀な攻撃を繰り返すようになっていた。





「待て! 無茶だ!そのやり方じゃ、いつか、大怪我をするぞ!」





「でも、父はこうやって勝ってたんです!これが一番強い勝ち方だって、父も言ってました!」





「そのやり方で…お前まで壊れる気か?」





神崎の言葉に、翔太は反発した。お互いの心に、見えない壁が立ちはだかった。





「そんなこと、あなたに何がわかるんですか!父は、こうやって勝っていたんだ!こうやって!こうやって…」





夜、ジムのベテラン選手が神崎に話しかけた。彼は神崎の過去をすべて知っていた。





「神崎先生、あんたはまだ『あの技』に縛られてるんだな。あの技は、あんたにとってレスリングのすべてだった。だが、同時にあんたを囚える鎖にもなった。もう、ほどいてやれよ…」





「鎖は…もう、ほどけない。俺は、あの技から、あの時の過ちから、逃げられないんです…」






第三章:選択と試練




翔太の努力は実を結び、彼は全国大会への出場を決めた。しかし、トーナメントの組み合わせは、鷹山の教え子と当たることが決まった。鷹山は、この機会を待っていたかのように、神崎の過去の過ちをマスコミに向けてリークした。





その夜、神崎のもとに、鷹山から電話がかかってきた。




「久しぶりだな、神崎。お前の生徒は、俺の生徒と当たるらしいが…まさか、お前が犯した過ちを、そいつにも教え込んでるんじゃないだろうな?俺の人生を壊したように、今度はそいつの人生も壊すつもりか?」





電話を切った後、神崎は激しく動揺した。しかし、翔太を同じ道に進ませてはいけないと強く決意し、彼にすべてを打ち明けることを決めた。





「翔太…話がある。お前の父さんを再起不能にしたのは、俺がしかけた『ストラングルホールド』なんだ。俺は…お前の父さんの人生を奪ってしまった…」





「知ってました…。父から聞いていたんです。でも、父は、あなたにレスリングのすべてを教えてもらったって、あなたのことを話す父はいつも嬉しそうでした。父は、あなたを恨んでなんかいなかったですよ…」





「…だが、俺は自分を許すことはできない…あの時の勝利への執着が、俺を鎖で繋いだんだ。『ストラングルホールド』は、俺の罪そのものだ。だから、お前には、同じ鎖を背負わせたくないんだ…」







第四章:宿命の激突




試合当日。会場は、神崎の過去の過ちを揶揄する野次で満ちていた。




「おい、殺人技の使い手だ!あんな奴の生徒なんて、まともじゃないぞ!」




相手選手が翔太を挑発した。





「お前も、アイツみたいに汚い手を使うのか?お前の親父、アイツのせいで再起不能になったんだろ。ざまぁみろ!」





翔太は冷静さを失いかけるが、神崎の言葉を思い出した。心の中で、神崎の苦悩が自分と重なった。





『魂の鎖…。先生は、この鎖をずっと背負って生きてきたのか…。』





試合終盤、翔太は相手を追い詰めるが、勝利を確実にするため、ストラングルホールドを仕掛けるべきか迷った。翔太の手は、自然とその技を仕掛ける体勢へと入っていった。





「やめろ、翔太!その技を使うんじゃない!その技は…俺の鎖だ!お前まで囚われるな!お前は…俺じゃないんだ!!」





「頼む…その技だけは…その技だけは使わないでくれ…頼む…」






第五章:再生の夜明け




神崎の叫びを聞き、翔太はストラングルホールドの使用をためらった。彼は、勝利よりも大切な、レスリングへの敬意を選び、別の技で相手をマットに沈めた。試合は、翔太の勝利に終わった。





試合後、翔太は神崎のもとに駆け寄った。その瞳は、涙で濡れていた。





「先生。俺、『ストラングルホールド』使いませんでした。あの技は、勝利のためだけのものじゃない。あなたは、俺に教えてくれたんです…レスリングは、相手を壊すためじゃなく、相手を尊重するものなんだって…どうも、ありがとうございました…」





神崎は涙を流しながら、翔太の肩に手を置く。長年囚われていた「魂の鎖」が、ゆっくりと、しかし確実に解き放たれていくのを感じた。





「…ありがとう、翔太。お前が俺を、鎖から解き放ってくれた…」





遠くから、鷹山が二人の姿を静かに見つめていた。彼の表情には、憎しみだけではない、何か別の感情が浮かんでいた。





『…神崎。お前は…お前は、まだレスリングを続けられるのか…』






後日、神崎と翔太は新しいジムで練習を始めた。過去のジムよりも狭く、簡素な場所だったが、そこには確かな希望があった。






「さあ、行こう。俺たちのレスリングは…これからだ…」

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