第五話 初雪

 番組に煽動された世間は、瞬く間に掌を返した。

 失う物、守る物のなくなった人間の悪意とは、こうも醜く顕在化するものなのだと、人々の声は教えてくれた。


【何が救世主だよ。こんなの詐欺師じゃねえか。死刑にしろ】

【桐谷彗、お前のせいで全人類が滅びるわけだけど、今どんな気持ち???】

【一旦こいつを生贄にして、彗星止まるか試してみようぜ】


 溢れかえる罵詈雑言を、手癖でエゴサーチしてしまう彗は、もうそれを見ても何とも思わなかった。――正確には、何とも思っていないだった。


 ――どうせ十ヵ月後には、こいつらも全員死んでんだ。もう、どうでもいい。何もかも。


 虚ろな心でそう思いながら、長い一日の大半を、検索窓に自分の名前を打ち込む自傷行為に費やしていた。

 クラスメイトからも相変わらず連絡が来ているようだが、吉田さんからは何の連絡もない。

 やはり”救世主様”の彼女になりたかっただけか、と、また自虐的な笑いが込み上げてきた。

 

 彼の心は既に麻痺していたのかもしれないが、身体の方はそうでもなかったようだ。

 その自傷行為は、確かに彗の身体に異変をもたらしていた。

 絶えず付き纏う、胃をぎゅっと握りしめられたような感覚。

 体感で子供の拳大ほどになったその胃に、十分な食事が入る余地があるわけもなく、彗は、著しい食欲の減退とともに、みるみるうちに痩せ細っていった。


 2052年12月20日。

「彗。……もう、やめなさい」


 見かねた両親は、ついに彗からスマホを取り上げた。


「もう、そんなの見なくていいの。残りの時間は、彗の好きなことだけしてよう? 欲しいものがあったら、お母さんが何でも買ってくるから」


 そう言って彗を抱き締めた母親の声は震えていた。


「母さん、…………ごめん」


 ”星の子”叩きの余波は、当然、桐谷家にも押し寄せていた。

 家の前に大量のごみが捨てられ、壁には心無い落書きがされた。

 父は、会社を辞めたらしい。辞めざるを得なかったのだろう。

 母が、いまや身の危険を感じずには買い物にすら行けなくなっていることも知っていた。


「彗は、何も悪くない。謝らなくていいんだ。よく頑張ったな」


 父親も、優しく彗を抱き寄せる。

 背中に落ちてくる両親の涙は、背中を通り抜けて、空っぽの心に少しずつ染み込んでいった。


  ◇


 2052年12月24日。

「彗、……今日も蒼生くんに、会わないの?」


 例の番組が放映されて以降、蒼生からは毎日連絡が来ていた。

 そのうち、一向に応答のないことに痺れを切らしたのか、彼は直接桐谷家を訪ねるようになった。

 しかし、彗が応じることはなかった。

 世界のすべてがどうでもいいが、蒼生には会いたくない。


「……うん。寝込んでるって、言っておいて」


 嘘を吐くのも、もう慣れたものだった。


 

 日が暮れていくにつれ、雪が降ってきた。初雪だ。


 ――人類最後のクリスマス・イブに初雪なんて、随分と粋な演出をするもんだ。


 皮肉交じりにそんなことを考えながらも、何とはなしに足が窓際に動く。久しぶりに部屋の窓を開け、その雪を直に見ようとした。

 しかし、雪よりも先に視界に入ったのは、カーテンの閉まっていない隣家の窓からこちらを横目に眺める蒼生の姿だった。


 「彗…………!!!!」


 蒼生は、彗の影に気が付くやすぐに立ち上がり、慌てて窓を開けて、大声で叫ぶ。

 彼の整った顔が泣きそうに歪んでいるのを見て、彗は動悸が急激に早くなるのを感じた。感覚が鈍麻し、ある種のなぎ状態になっていた彼にとって、久しく感じる不快な揺らぎだった。


「……お前、なんでこんな真冬にカーテン全開なんだよ」


 詰まる喉が必死に絞り出したのは、そんな他愛もない言葉だった。


「……彗と話したいからに決まってるじゃん」


 蒼生は相変わらず泣きそうな顔をしている。


「大丈夫なの? すごく痩せたように見えるけど……ちゃんとご飯は食べられてるの?」


 ――もう、やめてくれ。


 その優しさが彼の本心からのものだと、長い付き合いでよく理解していた。だからこそ辛かった。

 蒼生に優しくされるたびに、空っぽの自分が浮き彫りになるようだった。


「彗が学校来ないなら、僕ももう行かないよ。野球部も、やめる。だから一緒に――」


「なんだよそれ、同情のつもりか?」


 惨めに捩れる心を置き去りに、蒼生の言葉を遮って、彗の口は勝手に動いていた。


「お前はいいよな。”星の子”なんかにならなくても、いつもみんなの人気者だ」


 ――違う。


「初めてちやほやされて、図に乗る俺が、滑稽だったか? ……落ちぶれたのが惨めで、同情してるのか?」


 ――蒼生はそんなことを思う奴じゃない。そんなの、俺が一番よく分かってる。


「そんなわけないだろ! 僕はただ、彗が――」


「ずっとそうだ!!! お前は、……お前は、全てにおいて劣ってる俺のことを、心の中で見下してたんだろ!!! ……俺は、お前の隣にいるのが、……ずっと苦しくて仕方なかった!!!」

 

 彗はついに声を荒げた。行き場なく昂る感情は、無意識のうちに涙となって彼の目から溢れ出した。

 蒼生は何も言わなかった。彼もまた頬を濡らしたまま、ただ唇を震わせていた。


 ――そんなわけがない。俺は、蒼生といる時間が大好きだった。勝手に壁を作ったのは、俺の方だ。


「もう、俺に関わるな」


 必死に制止する心の声も、口をついて出る言葉を止めることはできなかった。


 「……最後の甲子園、出られるように頑張れよ」

 

 その言葉を最後に、乱暴に窓を閉めた彗の手は、震えていた。外気の寒さだけがその理由でないことは、明らかだった。

 カーテンを閉める直前に視界に入った蒼生は、何か言っているようだったが、先程よりも少し勢いを増して降る雪に紛れて、よく見えなかった。


 二人の歯車は、ついに回るのをやめた。

 

 人類最後のホワイトクリスマス。

 初雪の降りしきるその日、彗は、十七年来の親友を失った。

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