妖怪演義

水無月/成瀬

一章

望まぬ出会い

第1話

 どうやら状況は考えていたよりも最悪らしい。

 踏み込んだ景色に、ユーディットは思わず息を呑んだ。

 乱雑に並ぶ木々は季節でもないのに全て裸に変わり、着飾っていた葉々は緑色のまま地面に積もっていた。その落ち葉を踏めばグチャっと汚い汁と、鼻を覆いたくなる酷い臭いを放出する。

 死が色濃く見える風景だが、一番の問題は音がまったく無いって事だった。

 聞こえる音は一つだけ、それも全力で走る自分の息遣いだけだった。

「大丈夫! まだ間に合うよね!」

 思わずユーディットは叫ぶが、求める返事は返ってこない。

 可愛い顔を渋面に曇らせて、ユーディットはさらに走るスピードを上げた。

 彼女がこんな見た目だけでもヤバい場所に居るのには、それ相応の理由があった。

 彼女はここに人命救助の為に足を踏み入れたのだ。

 それは本当に偶然だった。

 ユーディットが、彼女の兄とこの近くの草原でこれからの事を相談している時に、救難信号をキャッチしたのが発端だった。

 シグナルはレッド。

 今まさに死の危険にあっているという合図だった。

 だからユーディットは制止する兄を振り切って、一分一秒を惜しんで脇目も振らずにここまで突っ走って来たのだ。

 上がる息に、ユーディットの心は逸る。

 この急激に荒廃した現象は、十中八九『あやかし』が原因だろう。

 ならこの先に待っているのは救護者を庇いながらの戦闘だ。

 だから、このまま走っているだけで体力を消費するのは、不味いって分かっている。

 しかもここまでとなると……。

 いっそう悪い考えが頭を過り、ユーディットは慌てて打ち消す様に頭を振った。

 とにかく一も二もなく、そもそも間に合わなければ意味が無い。

 そう考え直し、強く地面を蹴れば――、

「えっ?」

 予想外にグニャリと弾力がある何かを踏みつけて、ユーディットはバランスを崩してしまった。

 それでも咄嗟に受け身を取り、無様にすっ転ぶ事は免れた。

 まぁ、頭から落ち葉に突っ込んだ所為で、体中が気持ち悪いヌメリとしたぐちゃぐちゃと、嫌な臭いまみれになったが。

「あぁ、もう! 最悪!」

 ユーディットは顔を大雑把に拭うと、すぐさま走り出そうした。

 流れる動作の中で、何気なく躓いた原因に視線を移して絶句した。

「――!」

 そこにあったのは、落ち葉の隙間から覗かせるように出ている一本の腕だった。

 慌てて我に返り、ユーディットは急いで駆け寄った。

 一瞬前まで汚く汚れた事を気にしていたのに、今は必死で素手で落ち葉を払い除けていく。

「……うそ、間に合わなかったの?」

 ユーディットは現れた光景に、思わず力なくへたり込んでしまった。

 そこに横たわっていたのは、自分よりもさらに幼いと思える少女だった。

 少女の姿は直視する事を拒みたくなる程に酷い有様だった。

 確かにユーディットと同じように、少女の場違いな白いブラウスも、フリルがふんだんに使われている黒いレースのスカートも、そして見えている素肌も、腐食液まみれだ。

 けれどそれとは違う、赤黒い染みがその下全体に広がっていた。

 ユーディットはそれに見覚えがあった、それは血が乾いた物だ。

 ユーディットは震える手を伸ばす。前髪を優しく上げてみれば、そこには汚れていて尚、息を飲む程に整った顔があった。

 まるであどけない表情で、少女は健やかに眠っているようだった。

 それを幸いと言っても良いのだろうか?

 ともかく自分は間に合わなかった。

 視界が歪んで、少女の顔が見えなくなる。

 少女の服を掴み、ユーディットは自分の不甲斐なさと、救出出来なかった事を、眠る彼女に懺悔――しようとして、まるで眠るのに邪魔だと言うように、少女はユーディットの掴む手を軽く払った。

「…………え?」

 信じられなくて、ユーディットの口からなんとも間抜けな声が出てしまう。

 そしてそんな彼女をあざ笑うかのように、遠くの方から突如爆発音が響いた。

 さらに、

「――――――!」

 人が出せる領域を超えた絶叫が上がる。

 ユーディットが反射でそちらを向けば、一筋の黒煙が空に立ち上がっていた。

 急いでデバイスを取り出し、救難信号の場所を確認し直せば、発信があるのは確かに煙が上がる方向からだった。

 立ち上がりかけて、ユーディットは少女に向き直る。

 このまま救助に向うって事は、この少女を置いていくって事になる。

 別に件の元凶は向かうべき先に居るのだから、少女が危険に会う可能性は限りなく低い……とは思う。けど、可能性はゼロじゃないし、外傷は見えないし本当に眠っているだけの様に見えるけど、こんな場所で寝るなんて普通の神経じゃ出来るわけがない。

 一秒ですら無駄に出来ない事は分かってる。

 あれ以降、静寂がまた耳を貫く。

 なにを一番に優先するかなんて考えるまでもない。

 ……でも、人の命に順列なんて存在しないんだ。

「……なら、どうするのユーディット?」

 自問自答した所で簡単に答えが出るわけじゃない。それでも声にする事で、思考は絡まりながらでも動き出す。

 力ない人を助ける為に――助けたいと思ったから剣を取った。

 だから目の前の少女を、見捨てる選択肢は無い!

 ユーディットは少女の肩を掴むと、遠慮なく強く揺さぶった。

「ねぇ! 起きて! 大丈夫なの?! 怪我してるの?!」 

 ある意味怪我をしてるかも? なんて考える相手にするレベルの揺さぶりじゃ無かったが、力加減をしている余裕はユーディットには無かった。

 だがそれが功を奏したらしく、

「や、やめてくれ……」

 鈴のように澄んだ綺麗な声と共に、少女の両手が抗議するようにユーディットの腕を掴んだ。

 薄っすらと開いた瞼から、濁った硝子のような瞳がユーディットを映す。

 死人としか思えない目だったが、ユーディットはそれを見て安堵した。

 ボロボロに汚れていても、少女の美は完璧と思えるほどだった。例えるなら神さまが本気の全力で創り上げた芸術品のような美だ。平時なら触れる事すら恐れ多いと思ってしまう程の神秘性。

 けれどその瞳だけが何もかも不一致で、だからこそ確かにこの少女は人間で、確実に生きてるんだと思えたのだ。

「良かった。アナタなんでこんな所で……って悠長に話してる場合じゃないの。悪いけど特になんの問題もないなら、しばらくここでジッとして」

 ユーディットは矢継ぎ早に言って、一枚のカードを取り出した。

 それを二つに破くと、手のひら大の丸い機械が出現する。

 ユーディットはそれを少女に放り渡しながら、別のカードを破く。今度は濃い青色の液体が入った小瓶が出てきて、それも少女に渡した。

「その簡易結界の範囲は二メートルだけだから注意してね。もし怪我とかしてるなら、そのハイポーション飲めば良いからね。

 私が戻ってくるまで動いちゃダメだからね。もし戻ってこなかったら、ごめん!」

 ユーディットは少女の反応を待たずに駆け出した。

 けどすぐその背中に少女の気の抜けた

「悪いんだけど、こんなのよりも何か食べる物が欲しいんだけど?」

 切羽詰まった状況を説明していないからこその態度……いや、こんなあからさまな場合で、その身の、命の危険すら理解してない態度にユーディットはイラつきを覚えながら一枚のカードを少女に投げつけた。

「それでも食べなさい!」

 今度こそユーディットは本来の目的の為に全力で走り出した。

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