第4話 真実の目

 契約が交わされた翌日、「世界のはざま」から数人の男たちが屋敷にやって来た。

 大切な儀式があるからと家を離れるよう告げられ、指定された時刻に戻ると、広間の中央に大きな鳥籠が置かれていた。

 天井すれすれまで届く高さで、部屋の半分を埋めるほどの広さだ。

 まるでこの部屋の寸法を計って、その場で造り上げたかのようだった。

 莫大な出費ではあったが、まだ金は残っていた。倹約家だった祖先たちには、感謝しかない。

「今日からここが、あなたの家だよ」

 部屋の中央、鳥籠の中にいる天使へと声をかけたが、返事はなかった。


 世界のはざまから天使を譲り受ける際の条件として提示されたのは金だけではなかった。

 一つ、天使に触れてはならない。人の身で聖なるものに触れれば、たちまち火傷を負うだろう。

 二つ、天使には毎日、捧げ物としてパンと果物を供えること。必ず新鮮なものを用意せよ。

 三つ、天使を見つめすぎてはならない。その神聖な姿を凝視すれば、やがて光に焼かれ、視力を失う。

 以上、三つの戒めを破ったとき、天使の怒りは人の手には負えず、甚大な災いが周囲を呑み込むだろう。

 そう記された紙が、机の上に静かに置かれていた。


 新しい場所に来たばかりの天使は、しばらくのあいだ目を見開き、顔をあげて周囲をしばらく警戒していた。

 けれど今は大人しく、止まり木に腰をかけて顔をうずめている。

 恐る恐るリンゴを鳥籠の中へと置くと、天使はわずかに動き、匂いを確かめたあと、そっと口にした。

 けれど多くは食べない。一口、二口ほどでふいに顔をそむけ、再びうずくまって眠りに落ちる。

 鳥籠のそばを通っても、羽一枚動かすことなく、天使はただそこにいた。

 

 石像のように動かぬその姿を見るたび、〈見つめすぎるな〉という警句が頭をよぎり、慌てて視線を逸らした。

 どれほど見続ければ失明するのかは分からない。だが、もし禁じられていなければ、永遠に見つめ続けていたかもしれない。

 気づけば、筆を取っていた。

 記憶を頼りに、天使の姿を描く。

 もう筆を執ることはないと思っていた。

 それなのに、胸の奥から湧き上がる衝動は抑えきれない。

 見たことのないものを描きとめたい――それは血に刻まれた性なのかもしれない。

 だが、まるで写真のように精緻に描いたはずの天使の絵は、どこか違っていた。

「……違う」

 描いても描いても、満足のいく形にならない。

 これまで一度もなかったことだ。

 手が思うままに動けば、絵は自然に完成していた。

 それなのに、今のこれは何だ。

 ――絶対に描いてみせる。

 歓喜がこみ上げ、血が沸きたった。

 何度も描いては破り捨て、紙の束が部屋いっぱいに散らばっていく。

 気づけば、日はすでに暮れていた。

 だが、手元の絵は鳥籠の中の天使とは似ても似つかなかった。

 違う。まったく違う。

 煮えたぎる渇望に、身が焦げるようだった。

 あの灰色の日々が嘘のように、心は燃え立ち、満ちていた。


 異変に気づいたのは天使がきてから三日目のことだった。

 止まり木に止まったまま動かないのはいつものことだったが、その日は朝から羽を大きく膨らませて丸くなっていた。食事も初日以来、口にしておらず、何か異変があったのだろうかと気が気でなかった。

「もしかして、僕が天使の絵を描いたから怒ってしまったのですか?」

 返答はなかった。天使はただ荒く呼吸を繰り返していた。

 足元を見れば、濃い緑色のどろりとした液体が鳥籠の床に落ちていた。

 

 もしもの時はすぐ連絡を――そう老紳士に言われていたのを思い出し、慌てて〈世界のはざま〉へ向かった。

 だが、たどり着いた場所を見て、思わず息を呑んだ。


「……うそ、だろ?」


 そこには、もう何もなかった。

 建物のあったはずの場所だけが、切り取られたようにぽっかりと空き地になっていた。

 まるで最初から存在しなかったかのようだった。


 妖精にでも欺かれたのか――背筋に冷たいものが走った。


 ――まさか、天使も消えてしまうのでは


 あの天使を失うなど、光を奪われるに等しい。

 天使が現れてから、灰色の世界が色づき、乾いた体に血が通い始めたのだ。  

 たとえすべてが幻覚であろうと、またあの泥のような日々に戻るなど決して耐えられない。恐れを押し殺しながら家へ戻ると、天使はまだ鳥籠の中で丸くなっていた。

 ただ、その小さな背中が、どこか遠くへ行こうとしているように見えた。


 翌日には、天使は止まり木の上ではなく床で丸くなって眠るようになった。手も顔も透き通るように白くなり、対照的に白いサテンのワンピースには黒緑色の汚れがべっとりと付着していた。半分閉じられていた目は、今や硬く閉じられている。

 ――魂が、離れようとしているのか。

 このままでは、何か取り返しのつかないことが起こるかもしれない。

 写真で見たあの天使の姿から、日ごとに遠ざかっていく。

 何もできないまま、ただ事態が悪化していくのを見ているしかないのか。

 無力感が胸にわき上がり、首をふった。あの時の子供の自分ではない。

 せめて、天使の体が汚れないようにと、床の黒い汚れを拭き取るため鳥籠の中に身をかがめ、息を潜めて作業をしていたその瞬間、天使が小さく寝返りをうった。

 ほつれたワンピースが裂け、膝があらわになる。

 目にした瞬間、背筋が凍りついた。

 膝から下がびっしりと黄色の鱗で覆われ、足の先には大きく恐ろしい鉤爪が何本も生えていた。

「ひ……」

 声にならない音が喉に貼りつき、バランスを崩して床に倒れ込んだ。

 これまで足は裾に隠れていて、いつからこうなっていたのかもわからない。

 これ以上見るなと本能は告げているのに、視線をさらに膝の先へとむけてしまった。

 喉から、悲鳴のような息が漏れた。

 服の下に隠されていた裸体は陶器のように白く滑らかだった。

 だが、その腹だけが異様にボコボコと盛り上がって、膨れていた。

 妊婦のふっくらした腹とはまるで違う。

 岩のような硬さをともなった見た目であった。


 ――天使の体に、悪魔が入り込んでいるのか。


 膨らんだ腹が裂け、ぬらりと何かが生まれ出ようとしている――そんな幻を見た。

 どうしてこんなことに。僕のせいなのか。

 知らず知らずに、禁忌を犯してしまったのか。

 得体の知れない不安に襲われ、身体中から汗がふきでる。恐怖が呼び水となり胸の奥底に沈めていたはずの記憶が脳裏に蘇がえった。 


 家が炎に包まれていた。煙がもうもうと立ちこめ、熱波が全身を焼こうと行手を阻む。

 二階の大広間の窓の向こうでは、炎に呑まれた人影が狂ったように踊っていた。

 目を閉じ再び開けると、瓦礫の隙間に黒焦げの死体が横たわっていた。

 足が濡れる感触に視線を落とすと、水たまりのように血が広がっている。中心には血にまみれ倒れる母の姿があった。


 ――どうして私の代に?


 父の声が耳の奥でこだました。

 忘れようとしていた絶望が、再び底なしの穴へと誘い込もうと手をこまねいた。


 ――幻想の世界で生きていきましょう


 男の声が聞こえた。

 声のする方向へ顔を向けると、世界のはざまの老紳士が立っていた。

 闇の中で微笑み、静かに手を差し伸べる。


 ――怖くはありません。あの日に戻りましょう

 

 体が冷えていく。

 闇が体にまとわりついていく。


 ――そして揺蕩うゆりかごで、いつまでも眠りにつきましょう。いつまでもいつまでも


 視界が暗くなっていく。体の感覚がなくなっていく。ああ、今日は何もかもを忘れてゆっくりと眠れそうだ。


 夢はドンドンドンドンと激しくドアを叩かれるノックの音によって破られた。はっと正気に戻ると、闇などどこにもなく、見慣れた部屋の光景があった。体に熱が戻り、こわばっていた体が動かせる。

「今のは、なんだ?」

 底なしの沼に引きずり込まれるような感覚がまだ体に残っていた。

 もしあのまま闇に身を委ねていれば、どうなっていただろうか。

 

 変わり映えのない日常が続くなら、いっそ終わらせたいと思っていたのに、急に怖くなってきた。

 その間にもノックの音は絶え間なく聞こえていた。まるで借金とりのような荒々しさだったが、誰でもよかった。一人でこの恐怖を抱え込みたくなかった。

 扉を開くと、カラスのような漆黒に身を包んだ男が立っていた。長い黒髪を無造作に束ねているのに、どこか品がある。けれどその顔は険しく、緑色の目を細め、鋭くこちらを睨んでいた。

 見覚えのある顔だ。確か『世界のはざま』を訪れる前に、路地裏で見た若い男だった。天使の所有者であった男の兄弟だと、あの紳士は言っていた。


 ――天使を探してここまで来たのか


 悪夢から覚めたと思ったら、今度は悪夢の形をした現実が立っていた。

 思いもよらぬ人物の登場に、驚きと混乱で言葉が出なかった。

 その隙をつかれ男は脇をすり抜け、家の中へとズカズカ入っていった。

「ちょ……!?」

 慌ててその背中を追いかける。天使を探しているのは明白だった。

 あの天使が産もうとしている何かと関係しているのではと考えると、会わせたくなかった。

 だが男の足は迷いなく進み、天使のいる部屋へとたどり着くと、鳥籠に侵入し、倒れる天使を抱え上げた。

「天使に、何をする!」

 声を張り上げたものの、次の瞬間、言葉を失った。

 天使に触れれば火傷を負うはずだった。けれど、男は平然とその体を抱いている。

「どうしてだ? 天使に触れると火傷するんじゃないのか?」

 男は僕を一瞥すると、舌打ちをした。

「天使? 火傷? 何を言っている? こいつはハーピーだ」

「……はーぴー? なんだそれは?」

「そんなことも知らないのか? 古の神話にでてくる、女性の体に猛禽の羽と下半身を持つ人面鳥だ。その名は掠める者を意味し、食べ物を見ると意地汚く貪り食い、食い散らかした後に汚物を撒き散らかす。お前は詐欺師にハーピーを天使と偽られて買わされたんだよ」

「う、嘘だ! 天使がそんな怪物のはずがない。僕をだまして奪おうとしているんだろう?」

「お前の目は節穴か? こいつの足を見たか? 獲物をがっしりつかむための爪が発達している。口を見たか? 肉を切り裂くための鋭い犬歯が生えている。何より猛禽類特有の鋭いアンバーアイ。どっからどう見ても肉食動物だ。それともお前の聖書にでてくる天使は肉を喰らうのか?」

 男が何を言っているのか分からない。嘘だと否定したいのに、喉がカラカラに渇いて声がでない。男の鋭い眼光から逃げるように後退り、地面に落ちていた紙束を踏みひっくり返った。

 紙が部屋中にひらひらと舞う。

 目に入ったのは

 ――ハーピーの絵だった。

 獰猛な黄金の瞳でこちらを威嚇している絵だった。

 大きな爪で止まり木につかまる絵だった。

 開いた口から鋭い歯が見えている絵だった。

 ――天使が描かれた絵は、一枚もなかった。

 この手は確かに写真のように目の前のハーピーを描いていた。

 けれど思い描く天使とは違うと捨てていたのだ。不都合な部分を見ようとしなかった。

 たとえ目の前の真実と乖離していても、認めたくなかった。

 天使だけが地の底まで落ちた僕を救ってくれる存在だったから。

「だから……僕には、この子が天使じゃないと、だめなんだ」


 静寂が訪れる。男は深く息を吐き、ゆっくりと口を開いた。

「お前を騙した男は、どこからか連れてきた人ならざる者たちを売り捌いている悪党だ。犠牲になるのは売られた者たちだ。環境の激変、不適切な食事、扱いの悪さ。そうやって弱っていく姿を俺は何度も見てきた。この子も同じだ。腹が膨れているのが分かるだろう? これは“たまごづまり”だ。卵が体の中で詰まり、出せなくなっている。不適切な飼育管理などが原因で、放っておけば死ぬ」


 淡々とした声だったが、その奥に怒りが滲んでいた。


「こう見えて俺は医者の端くれだ。人だけじゃなく、時々“人ならざる者”も診る。『世界のはざま』の店主には、前に忠告した。“このままじゃ死ぬぞ”とな。だが奴は言った――“傷ものにされたら価値が下がる”と。次に行った時には、お前に売られたあとだった」


 男は抱えた天使――いや、ハーピーの顔を見下ろす。

「なぁ、お前の目には、何が見える? 穏やかに眠る天使か? それとも、苦しみに喘ぐハーピーか?」


 男の腕の中で、天使は空気を求めるように口を開いた。喉を鳴らし、かすかに身をよじる。

 その顔に、確かに苦痛の色が浮かんでいた。

 虚ろな瞳から、ぽろりと涙がこぼれる。


「――っ……」


 胸が締めつけられる。

 見たくない現実から目を逸らし、都合のいい夢にすがっていた。

 救われたいという欲のために、命を見殺しにしていたのだ。知らぬふりをしていた代償が、いま目前にあった。


 だが、手は動かない。声も出ない。ただ、死にゆく姿を見つめるしかなかった。


 男はそんな僕を見て、再び舌打ちした。

「勝手に諦めるな。俺が何のために来たと思ってる。まだ助けられる」

「本当に……?」

「ああ、部屋を一室貸せ。色々と準備する必要がある。治療費もきっちりもらうからな」

「分かりました。お願いします。どうかハーピーを……この子を助けてください」


 

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