花蜜と硝煙 〜場末の槍使いは真を穿つ〜

@very_rude

第1話 誰の目にも留まることのないギルドにて

 朝が来たことを告げるのは、鳥のさえずりでも、鐘の音でもなかった。

 古びたギルドの天窓から差し込む、煙ったような陽光。薄く漂う油と鉄の匂い。そして、戸口の隙間から吹き込んでくる、ほんの少し湿気を帯びた風。

 それらが重なって、この街で今日も1日が始まるのだと、ようやく実感ができるのだった。


 名を持たぬこのギルドは、街の片隅にある。

 名前がないのは、かつて名前を掲げていた看板が朽ち果て、誰も付け直さなかったからだ。そのことを咎める者はいない。なぜなら、もう誰もこのギルドに期待などしていないからだ。


 とはいえ、かつてこのギルドにも名があった。

 

 《ギルド・ヨスガ》。

 “縁よすが”──途切れかけたつながりを、かろうじて結び直す者たちの拠点。

 行き場を失った者、居場所を失った者、世界から半歩ずれてしまった者たちが、言葉にならぬ形で集まった場所。


 だが、今ではもう、その名を知る者すらまばらだ。


 依頼の書状は届かず、冒険者の出入りもほとんどない。

 ただ一匹の猫が、朝のひなたぼっこをしに棚の上で丸くなり、時折小さく喉を鳴らす。

 それが、ここの“今日”を彩るすべてだった。


 「……なあ、マスター。今日も依頼はナシか?」


 このギルドで唯一、冒険者と呼べる存在──羽沢肇が、椅子に浅く腰をかけてそう言った。

 身につけた革鎧は戦うにはあまりにも軽装で、カウンターに立掛けている彼の武器の槍も傷が目立つ。

 だが、彼の背筋だけは妙に伸びていた。まるで、この空っぽの場所が“戦場”であるかのように。


 「来てねぇよ。昨日も、一昨日も。肇、それ毎日訊く必要あるか?」

 

 カウンターの向こうで意味もなく帳簿を捲る男がいる。

 白髪混じりの髪、潰れかけた左耳。何十年も戦場を潜ってきた証が、身体の隅々に刻まれていた。

 ギルドマスター、アーガス・レイン。齢五十を越えてなお、隙のない眼差しを持つ男。


 「必要だろ。ギルドの一員として」

 肇は小さく笑い、手の中のリンゴを無造作に齧る。しゃくり、と甘い音と匂いが空気を揺らす。


 「それに、もし万が一ってこともあるだろ。運命の巡り合わせってのは、意外と気まぐれなんだぜ」


 「運命は気まぐれでも、依頼主の財布は慎重だ。──今の時代、ギルドに頼る奴なんてほとんどいないんだ」

 アーガスの声には苦味が滲んでいた。


 この場所に依頼が来ない理由は、肇自身もよく知っていた。この世界では、今や“魔族団”と呼ばれる者たちが、ほとんどの依頼を引き受けているからだ。


 魔族──魔王クリシュネの管轄下にある転生者たちの総称。


 彼ら魔族(転生者)は、“奇跡”と呼ばれる力を宿している。奇跡──それは異なる世界からやってきた者だけが宿すことを許された、神の力の欠片。


 この世界は、神が張り巡らせた巨大な結界の中に内在していると言える。普通であれば、その結界を越えて異なる世界からやってくることなど叶わない。だが転生者たちは、何らかの異常によりその結界に干渉し、この世界へと足を踏み入れる。そして、その干渉の際に神の力の欠片をその身に宿す。

 異世界から干渉し、この世界に現れた存在。それが、転生者だ。

 そして魔王クリシュネがその転生者達を束ね、組織として運用するべく設立されたのが、魔族団である。

 

 強すぎる力は恐れられるが、利用できる限りは崇められる。肇はそれを知っていたし──そして、自分がその“流れ”に属していないことも、よくわかっていた。


 「依頼の達成速度は速い。値段は安い。被害も最小限」

 肇は、どこか投げやりに言った。

 「……あいつら魔族団が依頼を独占するのも、当然っちゃ当然か」


 「皮肉なもんだな。魔族団は、元はギルドの補助的な組織として扱われてたはずなんだ」

 アーガスが、書類を指先で弾いた。

 「いつの間にか、それが“ギルド潰し”に変わっちまった」

事実、新たな競合である魔族団の台頭により、多くのギルドは軒並み廃業に追い込まれた。

 「“ギルド”が古いだけさ。世界は動いてんだ。俺たちが取り残されてる」


 「取り残されて、何してるんだ?」


 「……別に? ちょっと昼寝して、槍の手入れして、猫に飯やって……。それが悪いとは思わないけどな」


 そう言って、肇は自分の槍の柄を軽く叩いた。

 《ロングポール・ショットガン》。

 肇の持つ奇跡の名だ。


 槍のひと突きを、十二の突きへと分裂させる。

 弾丸のようにばらまかれる致死の突撃。

 それが、彼が転生と同時に得た奇跡だった。


 だが、その力は──ほとんど使われることがない。

 このギルドには、もう戦う意味も、相手すらも現れないのだから。


 「お前、それで本当にいいのか?」

 アーガスが問う。

 その問いには、心配よりも、どこか申し訳なさが混ざっていた。

 羽沢肇は転生者だ。転生者でありながら、こんなちんけなギルド所属のまま活動(?)を続けている。

他の転生者からは“変人”扱いされている。

 

 「依頼も来ねぇ、評価もされねぇ。けど、お前の奇跡は、腐らせるには惜しい力だぜ」


 「腐らせてんじゃねえよ。熟成させてんだ」

 肇は笑ってそう答えた。

 そして、まるでそれが当然のことかのように、天井を見上げて言った。

 「それにな、マスター。ここが俺の居場所なんだよ。金にも栄光にもならないけどさ──俺を拾ってくれたあんたのギルドだから、俺はここにいるんだ」


 アーガスは、何も言わずに頷いた。

 彼の目は、少しだけ赤かった。


 そして、この空間は再び静けさを取り戻す。

 猫があくびをし、埃が陽に透ける。

 ギルドの中には、変わらぬ一日がまた訪れようとしていた。


 ──その時だった。


 ギィ……と、扉が軋む。


 古びた蝶番が、訪問者の重みを訴えるように悲鳴を上げた。


 アーガスが顔を上げ、肇は咄嗟に槍へと手を伸ばす。

 軽く乾いた風。重い足音。ひとつ、ふたつ、ゆっくりと中へと入ってくる。


 現れたのは――

 全身黒衣を纏い、深くフードを被った大男だった。


 その男の足取りは、まるで鉛のように重く、しかし正確で、どこか違和感を覚えるほどに“無駄がなかった”。


 ただ一歩ずつ進んでくるその様子に、空気がじわじわと凍りついていく。


 肇は立ち上がり、リンゴを咀嚼したまま軽く言った。


 「……ほら、なんか来たぜ。運命の巡り合わせかもな」

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