第27話 衝動:『霧の鹿角』

「倒した……のか?」


『嵐の孤狼』を討ち果たしたアテナさえ苦戦した『霧の鹿角』を、つい先ほど召喚したばかりのスカディが、矢で仕留めたように見える。スカディの冷たい手が頬に触れるまで、しばらく茫然ぼうぜんと立ち尽くしていた。


「ルシェ様、早く行こう?」

「ど、どこへ……?」

「『霧の鹿角』の下へ、早く楽にしてあげないと……」


 戸惑う俺を連れて、スカディは足早に果樹園から出る。

 アテナたちには万が一の場合のため、村で警戒にあたるように念話を飛ばして俺とスカディは北へ向かう。


「まだ……生きて……」

「うん、私も当てるのが精いっぱいで一撃で仕留められなかった……」


 俺たちが向かった先には、地面に倒れてもなお必死に逃げようと足を動かす『霧の鹿角』の姿があった。

 が、腰の辺りをスカディの矢に射抜かれた影響で、前足しか動いておらず後ろ足はだらりと地面に引きずる形となっている。


「ごめんなさい、苦しい思いをさせて」


 スカディは優しい声色で話しかけると、クリスタルの弓を手放して無防備な状態で『霧の鹿角』へ近付き始めたではないか。


「危険だ、スカディ」

「私は大丈夫だから、見ていて」


 するとどうしたことか、あれほど暴れていた『霧の鹿角』がピタリと動きを止めた。鳴き声もあげず、何かを悟ったような静かな目でスカディを見つめる。


「大丈夫、安心して。これから貴方が向かうのは、決して飢えることのない幸せな世界だから……」


 そっと『霧の鹿角』の頭を抱きしめたスカディは、アテナとの戦闘で欠けた角をでながら全身へ冷気を伝えていく。やがて『霧の鹿角』は眠そうに目をしばたかせながら体を地面に横たえる。


「良い子、良い子……」


 スカディは赤子に子守歌を歌う様に、『霧の鹿角』の頭を撫でながら声をかけ続ける。しばらくすると、『霧の鹿角』は全身を冷気に包まれたまま魔力へとかえった。真っ白な魔力の奔流ほんりゅうが、空へ昇って行く。


「うっ――!」


 直後、スカディを通じて俺の体に大量の魔力が流れ込んでくる。

 咥えて『霧の鹿角』を討伐したことで、心の糸が切れた。膝から力が抜けて、ぬかるんだ地面に顔面から突っ込み――かけたところでスカディに抱き留められる。


「ルシェ様、大丈夫?」

「大丈夫じゃない。魔力が増えたり減ったりして、体が重たい……」


 アテナとスカディの二人に魔力を供給したことで、今までより魔力の消費が大きかったのだろう。スカディの冷気も相まって、気を抜いたらすぐに寝てしまいそうだ。


「仕方がないなぁ……よっと」

「すまない、スカディ。村まで運んでくれ」

「はーい、寝てても良いからね?」


 睡魔の誘惑に負けて目を閉じた瞬間、『霧の鹿角』の衝動が流れ込んでくる。

 周囲を見渡すと、俺は森の中に立っていた。二度目ともなると、これがどんなものなのかは分かっている。俺の予想を裏付けるように、目の前を痩せた鹿が通り過ぎていく。


 後々『霧の鹿角』になるであろう真っ白な毛に、真っ赤な目をした鹿だ。

 が、神秘的な鹿の体は泥と血にまみれていた。恐らく、他のおすと戦ったのだろう。


 縄張り争いに負けた鹿は、この豊かな森を追われたのだ。

 鹿の足取りは重たい。怪我をしているのか、後ろ足を引きずりながらゆっくりと森を出ていった。


 直後、周囲が暗転して場面が切り替わる。

 縄張り争いに負け続けた鹿がたどり着いたのは、枯れ木が朽ちる時を待つ死んだ森だった。この森に居る限り、鹿は縄張り争いをせずに済む。が、鹿の食べるものはない。


 森にたどり着いた後、吹雪に出くわしたことで身動きが取れなくなった鹿は、食べるものもなく極度の飢えに襲われた。寒さと空腹で動くこともままならない。何とか生き残った鹿は、ただただ飢えに恐怖した。


 このままでは死んでしまう。

 何か、何か食べる物はないか。鉛のように重たい体を引きずりながら、死んだ森の中を彷徨さまようがどこにも食べられそうな物はなかった。


 飢餓きがとは何と恐ろしいものか。

 空腹に耐えかねた鹿は、あろうことか朽ちた木の幹にかじりつく……が、案の定鹿が口にした木は腐っていた。


 空腹に加え、腹を壊してしまった鹿はとうとう地面に倒れる。

 そのまま命尽きるかと思われた瞬間、鹿は幸か不幸か魔獣へと進化することになった。魔力という力を得た鹿は、自身の飢餓感を満たすために動き出す。


(食ベタイ、食ベタイ)


 飢えに支配された鹿の脳裏に浮かんだのは、かつて追われたあの豊かな森の光景。あの森ならば、飢えずに暮らせるはず。鹿は一向に満たされない渇きと戦いながら、数年をかけて元居た森へと帰ってきた。


 そこで鹿を待ち受けていたのは自然の摂理せつりそのもの。かつて豊かだった森は大雪のせいでせ細り、影も形もなかった。森に居たのは、かつて自分を追い出した雄。


 だが、異様にせこけている。

 今にも死に絶えそうな雄の姿を見て、鹿は漠然ばくぜんと思った。


 ――どんなに強くとも飢えれば死ぬのだ、と。

 覚える渇きは強くなるばかり。鹿は、それ以来ひたすらに食べた。


「フィーーーョ!!」


 いつしか、長い年月を経て鹿は『霧の鹿角』へと進化していた。

 魔獣を倒すことで力が強くなった、縄張りだってあの森とは比べ物にならない。


 だけど……満たされない。

 終わらない飢えが、満たされぬ渇きが、地獄のように『霧の鹿角』をさいなむ。霧の中をあてもなく彷徨さまようように、『霧の鹿角』は食べ物を求めて歩き続けた。


 やがて、『霧の鹿角』は理性を失いただ何かを食べ続けるだけの、ナニカになった。縄張りを捨て、欲望のままに喰らい始めた『霧の鹿角』の目の前に現れたのは、どこまでも広がる豊かな土地。


 この地であれば、この渇きを満たしてくれるのではないか。

『霧の鹿角』は見た。たわわに実った果実、自身の渇きを癒す神々しいほどの輝きを。実際、瑞々しい果実は喉をうるおし、穀物は山のように積まれていた。


 そうして腹を満たしたのも束の間、再び渇きが襲う。

『霧の鹿角』は絶望した。いつまでこの渇きを味わわねばならないのだと。


 辺りの食べ物を食べつくし、『霧の鹿角』は近くの村へと移動した。

 これは……俺たちが村の外で襲われた時の光景か。『霧の鹿角』は、自らの縄張りに強者の存在を確認した。


 許せない。

 飢えもせず、ただただ実りを享受できる小さき者――人間が許せない。『霧の鹿角』の飢えはますます強くなるばかり。


 そうして飢えに追い立てられた『霧の鹿角』は村を襲った。

 が、アテナの存在が攻撃をはばむ。そうしているうちに、後ろから強烈な死の気配を感じた。


 スカディの放った冷気の矢が、『霧の鹿角』の姿を露わにしたのだ。

『霧の鹿角』は、脱兎のごとく森へと駆け出す。脳裏に蘇ったのは、『霧の鹿角』がただの鹿であった頃の吹雪。身の毛がよだつほどの、死の気配。


 だが、逃げられなかった。

 死は自分を逃してくれなかった。


『――、――』


 死の気配を纏った小さき者が近付いてくる。体が寒い。

 だがどうしたことか、小さき者が触れた途端、渇きが少しずつ消えて行くではないか。


『大丈夫、安心して。これから貴方が向かうのは、決して飢えることのない幸せな世界だから……』


 小さき者の言葉は分からないが、呪いのように自身を駆り立て続けた忌々いまいましい衝動が溶けていく。『霧の鹿角』の心は安堵あんどに染まり意識がゆっくりと薄れていった。次に目覚めたらきっと、飢える恐怖に追われることもないだろう。


(主様、起きてください)


 アテナの声が聞こえた瞬間、俺の周囲の景色がぼやけていく。

 意識が覚醒する直前、遠くから鹿の鳴き声が聞こえて来た……ような気がした。

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