解放と影

平松たいし

解放と影


 私は、初めて王を憎んだ。生涯で最も深い憎悪を抱いた。


1.

「姫、もう朝でございますよ。そろそろお目覚めください。」

「.....もうちょっとだけ寝させてよ。あとちょっとぐらいいいじゃない。」

「また、お父様.....王様に怒られてしまいますよ。昨日だって.....」

「もう、わかった、わかったから。もう起きるってば。」

 私は、姫のお付きの使用人である。幼き頃から姫の側に仕え、その成長をも見守ってきた。一見、格式ばった職に聞こえるかもしれないが、実際はそういうわけでもない。幼い頃の姫の相手と言えば、寝かしつけや遊び相手。時に泣かれ、時に笑わされ、皆が想像するような硬い仕事ばかりでもない。王様から叱責を受けることもあるが、それほど頻繁なものでもない。そんな姫の成長は、まるで我が子のように大変嬉しく感じられた。その反面、王宮という場所は、それほど甘やかな空間ではない。この国はそれほど大きな国ではないが、それでも、一国を統治する王族の側近としての仕事。常に緊張と規律が伴い、私たち使用人を始め、姫もまた、そのような空気を感じとっておられたことであろう。

「姫、おはようございます。さあ、皆様がお席についてお待ちですよ。」

「.....もっと寝たかったなあ。」

「仕方ありません。時間は規則で決まっていますから。」

「規則ねえ。」

「さあ、支度しましょう。また王様に叱られますよ。」

「お父さんはお説教長いからね。うんざりしちゃうよ。」

 王様、フローラン・セリオ王は代々受け継がれるフローラン家の血筋を継ぐ方で、この国を統治する最高権力者でおられる。類稀なるその指導力は多くの国民の支持を集め、やがてこの国の発足以来、歴代最高の王として崇められるまでであった。

「お父さん、おはよう。」

「あぁ。」

 一方で、父としては寡黙な方であり、王としての職務を全うされていたため、娘である姫のお世話をされることはほとんど使用人に任せられていた。王と姫が直接触れ合う時間は、この朝食のひとときがほとんどであり、その限られた時間の中で、お二人は言葉を交わされていた。

「お父さんは今日もお仕事なの?」

「あぁ。」

「今日は、何のお仕事なの?」

「セイル・ブライク王(我が国エルベラ王国から、西に五十キロメートル程に位置する隣国、レガーレ王国の王)との会談がある。」

「.....仕事ばっかりだね。」

「.....リヴェラ、成年の儀の挨拶は考えたのか。」

 フローラン・リヴェラ姫は、セリオ王とデリカ王女の間に授かった、ただ一人のご子息である。そんな姫は、寛容なお心をお持ちなだけでなく、容姿も大変お綺麗であり、まさしく王女にふさわしい佇まいであられる。しかし、王宮の中では、幼き頃から天真爛漫で、どこか抜けた一面もおありになり、芯が強いお方でもあった。まさに王の強き精神と王女の美しく優しい姿を受け継いだ、そんな姫であった。

「全然考えてないや。」

「.....やはりか。もう儀式まで時間がないのだぞ。」

「分かってるよ。」

 姫は、昔からこのような格式ばったことを好まなかった。王が規律と伝統を重んじる一方で、姫は逆に自由を求める心を募らせていたのだ。

「まったく。.....それと、今日は一つお前に大事な話があるのだ。」

「珍しいね。どうしたの?」

「お前も知っていると思うが、今の王家には男子がいない。つまり王位を継承できるものがおらぬのだ。」

 この国では、王位は男子が継ぐことが昔からの定めとなっている。しかし、リヴェラ姫が生まれて間もなく、デリカ王女は病で亡くなられ、今となっては、王家の血を継ぐ男子が一人もおられないのである。

「そこで、例外ではあるが、お前に王位を継承させることが決定したのだ。」

「.....決定って、そんなの私は嫌だよ。私は王様なんて向いてない。そんなのお父さんだってわかってるでしょ。」

「これは決定事項だ。お前に拒否権はない。」

「.....やりたいことだってたくさんあるの。まだまだ遊んでいたいし、私はまだ子供なの!」

「やりたいこと?そんな子供の戯言を言うでない。お前は生まれながらにして王族。普通の子供達とは違うのだ。これは運命なのだ。」

「運命だなんて、私の人生は私のものなのよ。どうして勝手に決めるの!私は普通の女の子みたいに暮らしたいのよ。一人の人生を運命だなんて、そんな綺麗事みたいな感じで済まさないで欲しいわ。」

「.....残念だがそれは叶わぬ夢だ。今の現実は変えられぬのだ。歴代の王族も皆、この道を辿ってきた。お前はそれが少し早いだけである。」

「.....お父さんは嫌じゃなかったの?こうやって、王族に生まれて、大きな責任を背負わされて。」

「.....今更それを語っても仕方あるまい。一つ言えることとしては、王は決して人前で弱音を吐いてはならない。」

「.....そんな。」

「これからは、王家を背負うものとして、それ相応の振る舞いを身につけねばならぬ。より一層勉学に励み、礼儀作法を身につけてもらう。それが王女としての責務だ。話はこれだけだ。私は、もう行かねばならぬ。」

 そう言い残し、そのまま王は部屋を後にされた。

「.....姫、朝食はもうよろしいのですか。」

 姫は小さく頷かれ、足早に自分の部屋へと帰られた。私は、姫のすぐ後ろで控えていたため、先ほどの王のお言葉をすべて耳にしていた。ゆえに、姫のお気持ちも痛いほどに理解できるものだった。

 片付けを済ませ、部屋に戻ると、姫はベッドで布団にうずくまっておられた。かすかに肩が震えており、そのお姿が言葉以上に姫の心を物語っていた。

「姫、成年の儀の挨拶を考えねばなりません。」

「.....今は、そんな気分じゃないわ。」

「.....お気持ちは重々承知しております。しかし、今回の儀式はただの通過儀礼ではございません。多くの国民が、姫のことに注目しておられます。」

「.....それって、王家の血を引くのが、女子の私しかいないから?でも、私は嫌なの。そんな大きな責任なんて背負いたくない。今までみたいに、ずっとあなたとおしゃべりできたらそれでよかったの。毎日笑って、普通に暮らしたかったのよ。.....私は、まだ子供なの。」

 声には少し涙が揺れていた。胸が締め付けられる。姫の言葉をすべて肯定して差し上げたい。しかし、王族に仕える立場の者として、それは許されなかったのだ。国のために、王のご命令に背くわけにはいかなかった。そう、王族に仕える者として。

「では、姫。一つお約束をいたしましょう。」

「.....約束って?」

「姫がご就寝なさる前に、私はこの部屋に参ります。それが、たとえ短い時間であろうとも。必ず訪れますから。そこで、今までのように何気ないお話をいたしましょう。その時だけは、今まで通り、笑ったり、おふざけしたり。愚痴だっていくらでも聞きますし、いつまでも子供のように夢を語っても構いませんよ。」

「.....必ず、約束してくれる?」

「はい。必ずです。」

「それなら.....私、少し頑張れる気がする。」

「そう仰っていただけること、大変光栄です。」

「あなたがいてくれるなら、きっと大丈夫だわ。今なら挨拶も少し考えられる気がする。」

「それは良かったです。さあ、儀式での挨拶を考えましょう。私もお力添えいたします。」

 

2.

 城の前の広場には、王侯貴族や多くの国民が集まり、厳かな空気に満ちていた。天井高く掲げられた旗が大きく揺れ、黄金の燭台の炎がゆらめく。その中央に、純白のドレスを纏った姫がゆるやかに歩み出られた。そのお姿は、大変お美しく、この国の未来を照らす光のようであった。もし、私が使用人でなければ、恋に落ちていたかもしれない。いや、使用人であっても恋に落ちてしまいそう。そんなお姿であった。

 式が始まる直前、姫が私の元を訪ねてこられた。

「.....やっぱり緊張するわ。こんなに大勢の人の前で話すなんて、今までになかったから。」

「お気持ちはよくわかります。しかし、昨晩まで何度も練習してこられたのですから。今の姫なら、きっと大丈夫です。私はいつものように、すぐ側で見守っておりますから。どうか安心なさってください。」

「.....でも、もし失敗したらどうしよう。言葉に詰まってしまったら。みんなに笑われてしまうかもしれない。それに、お父さんにだって怒られてしまうかもしれない。みっともないって思われるかも.....。」

「そのようなことは、誰も思いませんよ。人はそこまで意地悪ではありません。きっと姫の努力を見抜いてくれるはずですよ。だから、自信を持って。皆が姫の味方ですから。」

「.....本当に?」

「本当にです。」

「.....あなたは。あなただけは、いつも私を励ましてくれる。でも、だからこそ怖いの。もし、あなたが私から離れてしまったら、私は一人になってしまう。」

「大丈夫です。私は、いつまでも姫の側におりますよ。」

「.....この儀式が終わって、明日になれば、勉強とか堅苦しい嫌なことがたくさんある。もし、これから私がどんな私であっても、あなただけは、味方でいてくれる?」

「もちろんです。先日もお約束しましたように、私は必ず側にいます。私は全て受け止めて、きっと姫のお心の支えになれるように、全力を尽くしてまいります。」

「.....ありがとう。そんなふうに言ってくれるのはあなたしかいない。」

「ありがたいお言葉です。.....さあ、お時間です。広場へ向かいましょう。堂々と歩まれてください。」

「ええ。」

 姫が広場へと歩みを進められるそのお背中には、不安や緊張の影も感じられながら、どこかそれ以上に、気高く、美しく、そして強さを感じさせるものがあった。幼い頃から寄り添ってきた私には、そのわずかな震えを感じ取れたが、おそらく国民からは、ただ未来を背負う立派なお姿として映ったであろう。そのようなお姿を見て、私は込み上げる涙を堪えることに必死だった。どこか誇らしいような思いであった。

 やがて、広場の中央に立たれた姫は、深く息を整え、透き通るような美しいお声で挨拶を述べられた。そのお姿を見て、私のなかで呼吸を忘れるほどの緊張が走った。最初は微かに震えていた声も、次第に力を帯び、言葉の一つ一つに生命が宿っているようだった。その瞬間、今までの幼き少女ではなく、一国を背負う者としての気高さが感じられた。

 やがて姫の挨拶が終わると、広場を埋め尽くす民衆からは大きな歓声が湧き上がった。その歓声は、王宮一帯を揺らすかのように響き渡り、民衆の眼差しは希望に満ちていた。その光景を見て、私はまた涙が込み上げてくるのを必死に堪えた。

 儀式が終わり、日がすっかり落ちた頃。王宮の廊下は昼間の賑わいがまるで夢だったかのように静まり返っていた。私は一日の務めを終えて、約束通りに姫の部屋へ向かおうとしていた。その時、背後から何やら慌ただしい足音が響いた。やがて、一人の息を切らした使用人が私の元へと駆け寄ってきた。

「どうかしたのか?」

「王がお呼びです。」

「.....私をか?」

「はい。直接お伝えしたいことがあると。」

 王に直々に呼び出されることなど、これまでほとんどなかった。

「今日の儀式の姫についてであろうか。」

 そう思いながらも、私は急いで王室へと向かった。王の私室に足を踏み入れることを思うと、恐れ多く、全身に緊張が走った。王室の重い扉を開けると、光に照らされた玉座の前で、王は背筋を伸ばし、静かに私を見据えておられた。その圧倒的な威厳に、背筋が凍り、身体が縛り上げられるような感覚が走った。

「よく来てくれた。」

「何か、御用でございましょうか。」

「今日の儀式を経て、リヴェラは正式に成人と認められた。まずは、我が娘をここまで育ててくれたことに感謝をする。」

「滅相もございません。」

「そして、お前も知っているであろうが、これからは、いずれ王位を継ぐ者として、徹底的に学ばねばならぬ。政治、外交、礼法、すべてをだ。」

「承知しております。」

「前例のない女性の王位継承に、国民からの期待も集まる中、少なからず不安の声もある。その不安を払拭するためにも、今までよりも、より厳しい教育を行うことになる。だからこそ、リヴェラに甘えを許してはならぬのだ。」

「.....。」

「そこで、この三年、お前がリヴェラと接することを一切禁ずる。」

「.....!」

「幼い頃から育てられたお前が側にいる限り、リヴェラは子の気持ちを捨てきれぬ。王になり国民の上に立つ者として、甘えは許されぬのだ。」

「.....そこまで厳しくなされずとも、充分に務めは果たせるかと存じます。あまりにもご憐憫に堪えませぬ。」

「お前のその優しさこそが、リヴェラの甘えに繋がってしまうのだ。これは親としての言葉ではない。王としての命令だ。」

「.....承知しました。」

 深く頭を下げながらも、私は容易にそれを上げることができなかった。胸を裂かれるような痛みが、呼吸することさえも忘れさせた。約束したはずだった。『毎晩必ず訪れる』と。姫の笑顔を側で支えると、そう誓ったばかりだったのに。

 私は、初めて王を憎んだ。生涯で最も深い憎悪を抱いた。


3.

 それからというもの、私は『姫との約束を破ってしまった』そんな罪悪感に日々苛まれていた。これは姫という王族との約束を違えたからではない。ひとりの人としての約束を破った。ただ、それだけの現実が私を苦しめた。時々、無意識のうちに姫の部屋の前まで足を運んでしまうことすらあった。その度に心臓が押しつぶされるような感覚になり、王の命令を破り、中へ入ろうかとも何度も考えた。しかし、これも姫が立派に育たれる為なのだと自分に言い聞かせ続けた。

 しかし、本当に辛いのは、おそらく姫であろう。姫は、こんな取るに足らない、使用人である私を、心の支えであると、必ず味方でいてくれる者であると、そう信じて下さっていたのだ。その信頼を寄せてくださった相手に、幼い頃から共にあった者に、裏切られてしまったのだ。そう思えば思うほどに、耐えれない痛みが全身を走り、心配でたまらなかった。姫は、私が王の命令に従ってこのような行動を取らされていることをご存じであるのだろうか。どうか知っていて欲しい。せめて、そこの一点だけでも伝わっていて欲しい。私は、そんな些細な祈りを捧げることしかできなかったのだ。

 そんな毎日を過ごし、およそ一年が経ったある日のことである。私はいつものように、王宮内で職務をこなしていた。王室前の長い廊下を掃除していた時のことである。この日はエルベラ王国の建国記念日であり、王宮内でも盛大な行事が催される予定であった。私は、その行事の場で遠くから姫のお姿を拝めることを、密かに楽しみにしていた。それだけが、この日々を生きるための支えだったのだ。

 そんな時であった。ある人が廊下を通りかかるのが遠くから見えた。目をしかめるようにして見ると、そこには、あの姫のお姿があった。この日の行事のために、純白のドレスを纏っていらした。その姿は、わずかに背がお伸びになったようで、以前よりもいっそう大人らしさが感じられた。そしてやはり、大変お美しかった。遠くから見ても、瞬時に虜になってしまう程であった。

 私は、今すぐにでも駆け寄りたかった。せめて一言だけでも、お声をかけたかった。姫のことを思わぬ日など、一日たりともなかったのだから。しかし、気がつけば私は、柱の影に身を潜め、そのお姿をひっそりと見守るだけであった。心の奥底で眠る恐怖。裏切ってしまったという、消えぬ事実。その重みが、私の体を縛っていたのだ。それでも、姫は強く気高く生きておられる。もはや、ここまで思いを引きずっているのは私だけかもしれない。そんな姫の姿を目にし、今の私とはどこかとても遠い存在であるように思えたのだ。

 やがて、王宮の大広間では建国を祝う儀式が執り行われた。高々と国旗が掲げられる下で、王が玉座にお座りになられ、その隣に並ぶように姫が立っておられた。華麗な装飾が施された大広間で、楽団の奏でる壮大な音楽が一斉に止まる。その静寂の瞬間、自然と姫に視線が集まり、誰もが息を呑むように次の言葉を待った。やがて、透き通った清らかなお声で祝辞を読み上げられる姫の姿は、やはりまだ、どこかあどけなさが残っていたものの、成人の儀の時よりもはるかにご成長されていて、あの天真爛漫であったお方とはとても信じ難いほどに気高く、そしてやはり、大変お美しかった。私は、そのお姿を民衆の中のただ一人として、ただひたすらに目に焼き付けた。そして込み上げてくる涙を堪えることなく流した。

 それからも姫は、まさに王族として恥じぬまでにご成長なさっていった。品のある礼法を身につけられ、大勢の前でも少しも怯まず、堂々と振る舞われた。そのお姿に、徐々に国民からは『次代を担うに相応しい』と賞賛されるまでになられた。そんなお姿を遠目から見て、もはや私の支えなど必要ないのではないか。もう私を必要としていないのではないか。裏切った者が身勝手な考えだが、そんな不安を抱くことも少なくなかった。それほどに、姫は充分に立派にご成長されていたのだ。

 やがて月日は流れ、姫との約束を破ったあの日から三年が経った。私はこの三年間、姫の出席する行事には必ず参加し、そのお姿を遠くから見守ってきた。最初の一年は、ただただ胸を引き裂かれるような痛みの中で毎日を過ごした。姫のことで頭がいっぱいで、他のことを何も考えられないような日もあった。だが、あれだけ辛かったはずだったが、今では薄れ、それほど感じなくなっていた。慣れとは恐ろしいものである。だが、姫のことを思わなかった日は、一日たりともなかった。姫のお姿を遠くから目にしながら、罪悪感に苛まれる。日に日に成長なさる姫に反して、過去のことを引きずり続けてきた私。そんな自分が恥ずかしくてたまらない、そんな三年であった。


4.

 そして、私は再び王に呼び出された。実にあの日以来である。王室の扉の前に立つと、あの姫との約束を破った瞬間をまだ、鮮明に思い出すことができた。それほど私にとってあの日は衝撃的だったのだ。そしてやはり、この場へ来ると全身に緊張が走る。自然に身体に力が入り、背筋が凍る。正直、あまり入りたくない。だが、そういう訳にもいかない。重い扉を押し開けると、光に照らされた玉座の前で、王が背筋を伸ばし、静かに私を見据えておられた。やはり大変威厳があった。

「よく来てくれた。」

「何か、御用でございましょうか。」

「まずは、私から謝らなければならぬことがある。.....三年前のことだ。」

「.....。」

「私にとっても、あれは心を抉る思いであった。リヴェラにとってお前は、親に等しい存在であった。そうした者を、唐突に離れ離れにする決断を下すことは、いくら私といえど、正気を保つのは難しいほどの苦渋であった。」

「充分に承知しております。」

「だが、王位を継承する者として、どれほどの苦悩があろうとも耐え続け、職務を全うする責任というものがあるのだ。」

「.....左様ございます。」

 その言葉を聞いた時、私は少し安堵した。もし今日、王が一言も謝罪の言葉を示さなかったならば、いくら王といえども、私はその顔を殴っていたかもしれない。それほどに私、いや、姫にとってこの三年は、あまりにも苦しいことであったのだ。

「しかし、この苦悩も、きっとリヴェラを立派に育てるためにも大切な期間であったと、私はそう信じておる。」

「.....。」

「これからは、またリヴェラの傍で仕えてやってくれ。ただ甘やかすのではなく、リヴェラを立派な王族へと導いてやってくれ。」 

「承知しました。」

「お前ならきっと、リヴェラを立派に成長させてくれることだろう。今回は、王としてではなく父として、頼んだぞ。」

「はい。必ず、姫を支え続け、立派な王族へと導けるよう尽力いたします。」

 深く頭を下げながら、心の内では舞い上がるような感情を抱いた。一刻も早く姫の元へ向かいたいものだった。

 しかし、一度裏切ってしまった人の元に会いに行くことは、そう容易なことでは無い。私はこの三年間遠くから姫を眺めることしかできなかったのだ。おそらく今頃、姫は私に大きく失望し、もはやすでに記憶の片隅へと追いやられているかもしれない。そう思うと、その夜はどうしても姫の部屋へ足を運ぶことができなかった。だが、このまま約束を破ったままに、謝罪のひとつもせずにのうのうと生き続けるなど、それは私にとって許されないことだった。

 翌日の晩、一日という時間を費やし、覚悟を固め、重い足を引きずるようにして私は姫の部屋の前へと辿り着いた。扉の前で何十分もの間躊躇していた。身体を縛り上げるような緊張は、王に呼び出されるときのそれをはるかに上回る程だった。そして、 震える手で扉を叩いた。その音は想像していたよりもはるかに軽く、鼓動がますます速くなった。ゆっくりと扉が開き、そこには、まるで女神のように光りを纏う姫が立っておられた。しかし、表情はどこか厳格で硬いようだった。

「.....お久しぶりでございます。」

「.....そうね。」

 背後で扉が閉まる音がした。

「.....本当に.....久しぶりだね。」

 その瞬間、姫の瞳には涙が滲んでいた。その表情は、先ほどの堂々たる王族の姫とはまるで別人のようであった。ご成長なさっても、どこか懐かしい、そんなお姿だった。

「お許し乞うなど、そんな身勝手なことは申しません。ただ、誠意として謝罪だけでもさせていただきたく、.....あの時は、本当に.....」

「やめて。.....あなただって、望んでこうなったわけではない。きっとお父様のご指示だったのでしょう。そうでしょう。」

「しかし、約束を守れなかったのは、紛れも無い事実。どうか謝罪だけでも。」

「あなたは、何も悪くないのよ。そんな人の謝罪は、私は聞きたくないわ。ただこうしてまた会えて、二人でお話をできることがとても嬉しいの。それだけでいいの。」

「.....ありがとうございます。」

「ふふっ。さあ、切り替えましょう。私たちにそんな重苦しい空気は似合わないわ。三年間も話していなかったのだから、話題もさぞたくさんあるでしょう。」

 そこから、私たちは日が傾き、空が星に包まれるまで、途切れることなく語り続けた。

「三年間、本当に大変だったのよ。毎日毎日、勉強ばっかり。それだけじゃなくて、普段の生活も、王族に相応しいようにとか言って、歩き方一つから、言葉遣い、表情まで、全部徹底的に叩き込まれたんだから。」

「それは辛かったですね。しかし、以前よりもいっそう王族として、いや、それだけでなく、一人の女性として魅力が増したようにも感じます。」

「そうかしら。冗談でも嬉しいわ。.....お父様は『歴代初の女性の王になるのだから、お前には申し訳ないが、より厳しくするつもりだ。私だってこんなことはしたくないが、この国のために仕方ないのだ。』って言ってたの。実の娘まで犠牲にして。そこまでして制度を維持することって大切なのかしら。」

「この国は、これまで長い間、この制度で国を統治してきて、それでいてこれまでに国が滅ぶなどといった危機もなかったのです。もし今の制度を変えてしまうと、予測もできないことが起こるかもしれない。たとえそれが良いことであっても悪いことであっても。その変化そのものが怖いのです。人は皆、どこか変化を嫌うものです。その対象が大きければ大きいほどに、どんな犠牲を払ってでも、現状を維持したいものなのです。そして、その対象が国となれば、たとえ自分の娘という父親にとっての一番の宝であっても、犠牲にするしかなかったのでしょう。」

「そっか。.....なんだか、人間って残酷だね。私は、お父様を、王としては尊敬してる。やっぱり歴代最高の王と言われるだけあって、見習うべきところはたくさんあると思う。でも、父としては私は嫌い。幼い頃からそれほど遊んでもらったこともないし、かといって特別何かをしてもらったこともない。忙しかったかもしれないけど、昔から私はお父様からあまり愛を感じられなかったの。それは、別に一緒に遊んだりとか、お話しをしたりとか、そういうことを求めてるわけでもないの。ただ、言葉にできない何か。それを欲しかったの。」

「.....王も辛いお気持ちでいらしたそうですし、愛がなかったというわけではなかったのではないですか。」

「わからない。ただ、私には今まで自由がなかった。一人でお出かけするにしても、遊ぶにしてもなんでも。このことには、この三年で気付かされたことなの。王族として、国や国民を見渡すことが多かった。すると、みんな友達と楽しそうに遊んでる。お揃いの服を着たり、写真をとったり、歌ったり踊ったり.....。私にはそれがなかった。友達すらもいなかった。別に、今までが不幸だったとかそういうわけでもない。けど、私がもし王族に生まれていなかったら、普通の家庭で育ったら、毎日友達と遊んで、たまに喧嘩して、それでも仲直りして、よりいっそう友情が深まって。そんなことを考えると.....なんだか寂しかった。やっぱり、友達っていいものなのかな.....。」

「.....必ずしも良いものばかりとは限らないのですよ。実際、友人関係に悩みを抱えている者も少なくはないですから。そういった人はむしろ、姫のような王族の暮らしが、羨ましく映るのです。豪華な食事に綺麗なドレス。そして、隣国の王子などと婚約して、幸せな暮らしをする。そんな生活を夢見る人も多いのです。」

「でもそれは、あくまでその人の空想の王族でしょう。きっとおとぎ話とかで見るようなね。でも、現実はそんなきらきらした生活じゃない。だから、私はおとぎ話があまり好きじゃないの。あれは、都合のいい部分だけを切り取って見せているものだから。現実の部分なんてものはほとんど描かれていない。そのせいで人々は、王族や姫は、毎日きらきらした世界で生きている、なんて思い込んでいるの。でも私はそうじゃない。むしろ私は、その物語に出てくる名前もないような普通の人。王子とか姫とかじゃない、ただの人。そんな人に憧れていたの。でも、現実の物語には、そういう人が主役のお話なんてほとんどない。だから、私は昔から絵本とか小説とか、あまり好きじゃなかったのよ。」

「物語というものは、現実の世界に疲れた人たちがその疲れを忘れるために、現実から目を背けるために見るものなのです。そこでも、現実と変わらない普通の生活を描いてしまえば、それはなかなか受け入れられないものなのです。皆、物語には非現実や理想を求めているのです。物語の世界では、いわゆる普通の人。特別でもない、ただの普通の人には用がないものなのです。」

「なんだか、残念。もし私が生まれ変わったなら、どこかの王族や貴族なんかじゃなくって、ただの一般人。毎日働いて、大変だけど、それでも充実感がある。そんな人になれると良いな。」

「.....そうなれると良いですね。」

いつの間にか、窓の外には陽が昇りかけていた。

「もうこんな時間なのね。やっぱりあなたと話していると、あっという間に時間が経ってしまうわ。.....これからも、毎日ここへ来てくれるって約束してくれる?」

「.....はい。今度こそ、必ず約束です。」


5.

 しばらくの間、大変でありながらもそれなりに幸せな日々を送っていた。そんなある晩餐の時、一人の使用人が密かに王の傍へと近づき、一通の封書を差し出した。王は僅かに眉をひそめながらも、封を切られた。私は少し離れていたので、あまりはっきりとは見えなかったのだが、封書には『レガーレ』という文字がうっすらと確認できた。おそらくそれは隣国からの書状であった。

「セイル王からの書状だ。.....『両国の繁栄と友好を願い、貴国の姫君と我が嫡子、セイル・フレイルとの婚姻を結びたく存ずる。』とのことだ。」

 その場が騒然とし、ざわめきが広がった。私もまた動揺した。これはつまり、政略結婚である。姫はそういうものが一番嫌いである。その恐怖のあまり私は姫の顔を直視することができなかった。そして、晩餐を終え、姫と王は二人だけで長時間にわたって意見を交わされた。

 私はまだ胸のざわめきを抑えられないまま、いつものように姫のもとを訪れた。その部屋には、これまで無いほどの静寂があった。いつもなら、扉を開けた瞬間に、姫が笑顔で迎えてくださり、部屋には明るい空気が漂っていた。しかし、今は時が止まったかのように、姫は椅子に腰掛けたまま動かず、風の音がうっすらと聞こえる程であった。

「書状の内容について、王とお話しされたのですか?」

「ええ。」

「それで、王はなんと?」

「.....隣国の王子と婚姻を結べ。」

「.....。」

「私だって、もちろん反対したわ。これまで、たくさんのことを我慢してきたのだから、せめて婚姻相手くらいは自分に選ばせて欲しいって。でも、また『気持ちは充分わかるが、国のためだ』って断られたわ。どうやら相手国も、王位を継承する人が少なくて困っているとか。それで、隣国同士で手を取り合ってさらに両国の関係がより深まるとか.....。」

「.....それは、なんとも.....。」

「.....私は、道具じゃない。国をよくするための道具なんかじゃないのよ。.....ないのに。それなのに、お父様は、いつもこの国のためだとかいって、私からどんどん自由を奪っていく。あんなのもう親でもなんでもないわ!」

「.....。」

「もう、私に味方はいないのよ。みんな、私のことは所詮ただのあやつり人形のようにしか思っていないの。言われたことを遂行するだけの奴隷に過ぎないのよ。」

 私はその姫の言葉に、何も返すことができなかった。ただ話を聞きながら、側にいることしかできなかった。

 それから数日が経過し、姫の思いも虚しく、隣国との政略結婚は正式に可決された。


6.

 ある日の夜。我が国を震撼させる出来事が国を襲った。我が国の王、フローラン・セリオ王が突如として急逝されたのだ。このことは瞬く間に国中を駆け巡り、国全体が悲しみに包まれ、王宮の中でも重く苦しい沈黙が広がっていた。だが、それよりも私は姫が心配で仕方がなかった。政略結婚の話が可決されてからも日が浅く、ただでさえ姫の心は乱されていた時に、このような突然の悲劇。私はすぐさま姫の元へと駆け寄った。そこには、涙に濡れる姫の姿があった。無理もないことである。ここまでの悲劇の連続。胸の締め付けるような思いであったが、私は姫の目の映らぬ場所へと身を引いた。今は、一人で悲しみを受け止め、整理する時間が姫には必要だと思ったのだ。

 少し時間を置き、私は再び姫の元へと訪れた。先ほどよりは落ち着かれた表情であった。

「大丈夫ですか?」

「.....うん、ありがとう。」

「.....。」

「私、まさか泣くなんて思ってなかったわ。.....今まで、お父さんは嫌いだった。小さい頃から遊んでもらったこともあまりなかったし、つい最近だって婚約相手まで勝手に決められたばかり。愛なんてなかったと思ってた。それなのに.....なんでだろう。いざこうやっていなくなってしまうと、悪いことが消えちゃったの。あれだけ嫌いだったはずなのに。今はなんだかとても寂しい。」

「.....。」

「最後にお父さんと話したことってなんだったかしら。.....もしかしたら、喧嘩してたかもしれない。もし、こうなるなんてわかっていたなら、もっとマシなお話ができたのかな.....。もう今では、声すらも上手く思い出せないわ。」

 しかし、本当に残酷だったのは、明日から急遽、王に代わって姫がこの国を治めなければならないという現実であった。いずれは訪れるべく宿命だとはわかっていたものの、まさかこんなにも早く.....誰もが予測していなかったのである。そのため、翌日から姫は、激務に追われていた。自由な時間などもちろんなく、夜遅く、就寝の時間だけが息をつける唯一の時間であった。私はその時間に姫の元へ訪れていたが、過労の為か、姫はすでに就寝なさっていることも少なくなかった。


7.

 王が亡くなられてから、およそ一月が過ぎたある夜のことである。いつものように私は姫の元へと訪れた。最近はすでに就寝なさっていることや起きていたとしても、話している最中に寝てしまわれることが多かったが、今夜は珍しく姫が起きておられたのである。

「無理なさらず、就寝なさっていてもいてもいいのですよ。私のことはあまり気になさらず。」

「いや、今日は、少しお話がしたいの。」

「そうでございますか。それならば、私はいつまでもお付き合いしますよ。」

「ありがとう。.....少しの間だけど、お父さんがやっていた仕事をしてみて、それは私が想像していたよりも遥かに大変なものだったの。別にお父さんを讃えたいわけでもない。けど、自分の考えだけで、お父さんに言葉をぶつけていたのは、少し浅はかだったし、悪かったなって思うようになったの。」

「それは.....。」

「人が人を忘れるのには順番があるらしいの。大体は、最初に声を忘れて、次に顔を、そして最後に思い出を忘れるんだって。私は、今となっては、もう顔すらもはっきりとは思い出せない。今まで嫌であまり写真を撮ってこなかったの。まさか、思い出になる相手だなんて思ってもいなかったから。いつでも会えると思っていたから。それが当たり前だと思っていたから。写真なんていらないって思ってた。記憶の中ではぼやけた顔なのに、それでも夢の中でははっきりと登場する。ありがちな話だけど、大切なものは失ってから気づく。そんな、当たり前のことを、痛感したの。」

「なんと、お声かけすれば.....。」

「そんなに気を使わなくても大丈夫よ。それよりも今は、これからのことを考えてる。正直言って、これから先、私は今のまま生きていける気がしないの。毎日毎日仕事ばっかりで、休んでいる暇なんてない。いつか消えてなくなってしまいそう。そして気づいたの。.....そう、私は.....『自由』になりたいの!」

 その言葉には、揺るがない強さと信念が感じられた。また、その姫の姿は今までにないほどに凛としており、そしてやはり、大変お美しかった。

「私はいつでも、いつまでも、姫のお役に立てるように尽力致しますよ。」

「ふふっ、嬉しいわ。心強い味方がいて。」

「ありがたいお言葉です。」

「.....それで私、一つ考えがあるの。」

「考えというのは.....?」

「この国から出ていくことよ。」

「それは、つまり.....。」

「そのままの意味。でも、逃亡だなんて思わないで欲しいわ。これは自由のための闘い。そう、王国の姫が自由を求めて旅に出る、そんなよくある美しいおとぎ話なのよ。」

「しかし、そんなことをなされば、国民がどうのような声をあげるか.....。」

「そう、自由には必ず責任が伴うもの。でも、私はこれまでもう充分すぎるほどに頑張ってきた。自由を犠牲に、責任ばかり背負ってきた。だから.....もう何の責任も取りたくない。これ以上、人に言われたことをこなすだけの、かわいそうな大人になりたくない。だって私はまだ若い。しがない十八歳の少女なのだから。」

 私は、いままでの姫の暮らしや苦悩を目の当たりにしてきて、その姫の言葉を否定することはできなかった。いや、むしろ心から力になろうと決意した。私の務めは、姫に仕える使用人。姫を幸へと導くこと、それこそが、私にとっての最大の責任なのである。

「しかし、ただ国を抜け出すとなれば、王国の者たちが総出で捜索に向かうことでしょう。それに、隣国へ行くわけにもいきません。もし、見つかってしまえば、私も姫もただではおけないですよ。」

「そうね。.....そういえば私がまだ幼かった頃、あなたに読み聞かせてもらった本があるの。その本の内容も、王子が国から逃亡する、そんな話だったわ。その話では、王子が変装して、ただひたすらに歩いて国を逃げ出していたわ。」

「そんなこともありましたか。あまり覚えていません。」

「懐かしいわね.....。でも、今となっては、私たちもこれが一番良いと思うの。皆が寝静まった頃よ。私は変装して、ただの村娘として。あなたもその友人として国を出るの。そしてひたすらに歩く。日が暮れて、そしてどこか遠くの国へ、そうなれば私たちの勝利よ。」

「しかし、そんな夜中に王宮から出ることはそう容易ではありません。この王宮の警備はそこまで甘いものでもありませんし、さらに正面から出られたとしても、それなりの警戒心を抱かれます。私だけなら、適当な言い訳をつけて出ることは可能ですが、姫はそういうわけにもいきません。」

「そうね、ただ、私にも秘策があるわ。」

「秘策?そんなものが?」

「当たり前よ!私だって本気。そんな甘い考えじゃないんだからね!」

「.....それもそうですか。して、その秘策とは?」

「実は、王族にしか知り得ない、秘密の隠し通路というのがこの王宮にはあるの。なんでも、叛逆とかが起きた時に備えて造られたもので、代々語り継がれる王族だけの秘匿情報なのよ。」

「え、それを王族でもない私に言ってしまってはいけないのでは.....。」

「どうせこの国を出ていくのだし関係のないことよ。それにあなただったら変に周りに言いふらしたりもしないでしょうし。」

「それもそうですね。」

「でも、やっぱり心のどこかでは怖いの。生まれてからこんな人に歯向かうような行動をしたこともなかったし、それにこの行動はきっとお父さんを裏切ることになる。」

「しかし、それも承知の上で?」

「もちろんよ。さっきも言ったじゃない。自由には責任が伴う。もし失敗したら、私が全ての責任を負うわ。」

「そんな、私のことまで庇う必要など全くもってございません。むしろ、私だけが捕まって姫はそのまま.....。私が犠牲になり、全責任を.....。」

「まったく、頼もしいわね。でも、あなたと二人でないと意味がないのよ。成功したら二人のおかげ、失敗したら私のせいよ。」

「そんなこと、私にはとてもできません。」

「それなら、失敗しなければいいだけの話よ。そうでしょう。」

「それは.....。」

「あなたが弱気になってどうするのよ。私をいつまでも支えてくれるのでしょう?」

「もちろんでございます。」

「それなら自信を持って。あなたならきっとできるわ。」

「.....勿体無いお言葉です。」

「それでこそあなたよ。さあ準備するよ。」

「はい。それでは、お荷物などはこちらでご用意致します。あとは、日時だけです。」

「そうね、みんなが寝静まった時間。.....明日の夜中、二時。」

「承知しました。失敗しないよう、全力を尽くします。」

「頼りにしているよ。」

 それから私は、入念な準備に取り掛かった。逃亡用の服、資金、地図、そして護身用の銃.....これは少しやり過ぎかもしれない。だが、やりすぎるに越したこともない。これは二人の人生をかけた闘いなのだ。それ以外にも事前の経路の確認、人が少ない場所や抜け道など、限られた時間でできることを行った。その間、姫はいつも通りに変わらず、王としての職務を果たしている。そんな苦しい毎日から解放されるためにも、私が影となって、支えねばならないのだ。

 そして、翌日の午前二時。私たちはその秘密の抜け道とやらへ向かった。流石に王族だけに伝えられていたものということもあり、厳重な作りになっており、内部からの音も完全に遮断されるような造りであった。私の持つ小さなランプの灯りだけが頼りであった。長年使われていなかったようで、ところどころ壁が崩れ、石片が散らばっていた。

「本当に、この先に自由があるのかしら。」

「きっと、この先には今までと違った星空が広がっているはずです。」

 軽く言葉を交わしながら、薄暗く狭い道をしばらく歩いた。

 しばらく進むと、やがて私たちは王宮から少々離れた、どこにでもあるような鉄の扉から出た。そこは人気のない何気ない住宅街の裏道であった。昼間であったら人がいたかもしれないが。この時間にしたのは正解であった。驚いたのは、以前からこの扉は数回目にしたことがあったのだ。しかし、いつ見ても『関係者以外立ち入り禁止』という張り紙が常に貼られてあり、開けたことはなかった。ここまで隠されていないと、逆に誰も気にならないものである。

 こうして、私たちはいともあっさりと王宮を抜け出すことができた。

「本とかでは、こういうのって兵士たちに見つかって絶体絶命っていうのがお決まりだけど、実際は意外とばれないものね。」

「それもそうでしょう。まさか、国の一番の権力者の姫が国からいなくなるなど、誰も予想していないでしょうから。」

「でも、なんだか冒険してるみたいで楽しかったわ。私たち二人の勇敢な冒険者って感じ?」

「冒険者.....私はそんな大層な者ではありませんよ。私はただの使用人ですから。」

「でも、あなたはもう使用人じゃないわ。だってこうやって国に逆らって国を抜け出してきた。もはや使用人とは呼べないわ。」

「それは.....否定できません。」

「それに、私だって国を抜け出してきたのだからもう姫なんかじゃない。だから、その姫っていう呼び方はもうやめて。今はもうただの一人の女性、リヴェラなのよ。」

「.....わかりました。これからはリヴェラさんと呼ばせていただきます。」

「別にさん付けじゃなくてもいいのよ。敬語だって使わなくっていい。」

「いえ、これは私がこうでないと気が済まないのです。これだけは絶対に譲れません。」

「絶対に?」

「絶対にです。」

「ええ.....それならせめてもっと柔らい感じでもいいのに。」

「慣れるまでにはしばらく時間がかかりそうです。」

「まあ仕方ないか。でもいつかは使わなくていいようになって欲しいな。」

「それはこれからの生活によりますね。」

「頑固ね。」

「仕方ありません。.....そんなことより、私たちはこれからどうするのですか。きっと国の者も捜索に出ますし、下手な動きをすると見つかってしまいますよ。お金だって無限にあるわけではありませんし。」

「そうね、正直あまり考えていないわ。」

「えっ.....。」

「あまり計画を立てすぎても楽しくないでしょう。予測できないからこそ旅は楽しいのよ。」

「そんな、子供の遠足でないのですから。」

「でも今は子供みたいに、自由の身を楽しんでいたいの。ほら、夜風がこんなに気持ちいいし、空だって満点の星空よ。こんなの、部屋の窓からじゃ絶対に感じられなかったわ。」

「それは確かにそうですね。」

「やっぱり、外の世界ってすごく広いんだね。私の知らない世界がまだまだ広がっていそう。」

「しばらくは退屈に感じることはなさそうですね。とはいえ、このままだと疲れますし、陽が昇ったらどこか宿屋にでも入りますか。」

「案外疲れずに、どこまでもいけるかもしれないわよ。こう見えても私、結構たくましいのだから。」

「そうですか。朝なかなか起きずに怒られて泣いていたのは、どこのお方でしたか。」

「ちょっと!そんな昔の話持ち出さないでよ。」

「これは失礼しました。ですがこれから先も苦労はあると思いますよ。」

「そうね。まあでも意外となんとかなるものよ。」

「まったく、楽観的ですね。まあ、それでも私はどこまでもお力添えしますよ。」

「.....ありがとう。」

 私たちは、いつものように会話を弾ませながら、陽が昇るまでひたすら歩き続けた。そして離れた国についた頃、私たちは一息つくために、近くの宿屋で一泊することにした。姫.....いや、リヴェラさんは大変お疲れだったようで、あれだけ豪語されていたはずだったが、到着してすぐに眠り込んでしまった。その寝顔は、今までのしがらみから解放され、これからの暮らしを見据えているかのように大変清々しいお顔であった。そしてやはり、大変お美しかった。


8.

 エルベラ王国のある国民の手記。

『今から約一月前の夜。我が国の新王であるリヴェラ姫が、忽然と姿を消した。国民たちの賢明なる捜索が行われたが、再び姿を現すことはなかった。捜索班は最終的に、これを「姫の逃亡である」と断定した。それからというもの、この国は地獄そのものであった。一夜にして、国を統治する権力者がいなくなり、国は混乱に陥った。やがて、この国は、政略結婚の相手であった隣国の王子が統治することとなったが、そのやり方は、まさに独裁そのものであった。表向きは隣国と手を取り合い国をよくするというものであったが、裏を返せば、この国は隣国の支配下に置かれるというものだった。若者は強制的に労働へ駆り出され、女や子供までもが隣国の兵士として駆り出されたのである。この国の誰がこのような屈辱の日々を予想したであろうか。私たちがそれほど酷い行いをしてきたであろうか。これまでの安らかな日常は跡形もなく失われたのである。さらに、我ら国民は、「王が逃げ出したみっともない国の者」などといった、差別を受けることも少なくなかった。政略結婚の件や、父に当たるセリオ王の急逝など。数々の悲劇が姫を襲ったのは紛れも無い事実であった。しかし、リヴェラ姫はその苦痛から逃げるようにして、この国、そして我々国民を見捨てたのである。もしこれがセリオ王であったなら、この苦痛にも負けず、国民のために立ち続けてくださったであろう。その方の嫡子である姫も、歴代最高の王の娘として、国民からも大変期待されていた。そして私もその一人であった。だが、現実は、自らの自由のために国民を裏切り逃亡したのである。そして、やがて国民は彼女をこう呼ぶようになった。「歴代最低の裏切り者、世界最悪の姫」と。私は今日も過酷な労働に行かなければならない。朝から晩まで働き、家に帰れば食うにも困るわずかな糧しか残らぬ。すべて、あの姫のせいで。あの憎き小娘のせいで。

 我が国と国民に栄光あれ。そして、憎きリヴェラに暗黒あれ。』



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解放と影 平松たいし @Takeshiel_dreemurr

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