第3話:道端の石でも蹴っていろ


コーン、ココーン。コーン、ココーン。

夜回りをする更夫(こうふ)が、リズミカルに拍子木(ひょうしぎ)を打つ。

その音が楼閣に響き、方源(ほうげん)は乾いた瞼(まぶた)を開けた。「……五更(ごこう)の刻(とき)か」と心の中で呟く。

昨夜は寝台の上で長らく考え事をしていた。計画を練り、段取りを考え、眠りについたのはわずか一刻(いっとき)(※約二時間)ほどだ。

この身体はまだ修行を始めておらず、精気に満ちているわけではない。そのため、疲労と眠気が波のように心身を覆っていた。

だが、五百年を超える経験は、方源に鋼鉄の意志を授けている。この程度の眠気など、物の数にも入らない。

彼はすぐさま薄い絹の寝具を跳ね除け、身軽に起き上がった。

窓を開けると、春雨は既に止んでいた。

土と木々、そして野の花の香りが混じった清々しく湿った空気が、顔を撫でる。方源は頭が冴え渡るのを感じ、重たい眠気は綺麗に吹き飛んだ。

太陽はまだ昇っておらず、空は深く、仄暗い藍色をしていた。

見渡せば、緑竹と木で建てられた高床式の家々が、山々と相まって、静寂な蒼翠(そうすい)の景色を織りなしている。

高床式の住居は少なくとも二階建てで、この地の山民特有の建築様式だ。山は険しく平地が少ないため、一階部分は巨大な木の杭で支えられ、二階が居住空間となっている。

方源と弟の方正(ほうせい)は、その二階に住んでいた。

「方源様、お目覚めですか。わたくし、すぐにお支度に上がります」

その時、階下から少女の声が聞こえた。

方源が見下ろすと、そこには彼の世話係の侍女、沈翠(しんすい)がいた。

彼女の容姿は中の中といったところだが、身なりは良く、緑の衣に身を包み、足元には刺繍の施された靴を履いている。黒髪には真珠の簪(かんざし)が挿され、全身から若さが溢れていた。

彼女は嬉しそうに方源を見上げ、水の入った盆を手に、タタタッと軽快に階段を上ってきた。

盆の水は顔を洗うためのぬるま湯で、口を漱ぐには柳の枝に雪塩をつけて歯を磨く。

沈翠は笑みを浮かべ、媚を含んだ眼差しで甲斐甲斐しく世話をした。それから方源の衣服のボタンを留めてやる。その過程で、時折、その豊満な胸を方源の腕や背中に押し付けてきた。

方源は無表情のまま、心は静水の如し。

この侍女は、叔父夫婦の間者であるだけでなく、見栄っ張りで薄情な女だ。前世では彼女に惑わされたこともあったが、開竅(かいきょう)の儀の後、自分の地位が失墜するや否や、彼女は手のひらを返し、冷たい視線を散々浴びせてきた。

方正がやってきた時、ちょうど沈翠が方源の胸元の皺を伸ばしているところだった。彼の目には、羨望と嫉妬の光が微かに宿った。

兄と共に暮らす中で、方源の計らいにより彼にも下僕が一人つけられていた。だが、それは沈翠のような若く美しい侍女ではなく、太った年増の女中だった。

(いつか、沈翠が俺にもこうして世話を焼いてくれる日が来たら……どんな気分だろうか?)

方正は心の中でそう思ったが、それ以上考えるのが少し怖かった。

叔父と叔母が方源を偏愛しているのは、屋敷では誰もが知る事実だった。

本来、彼に下僕がつくことすらなかった。方源が方正のためにと、わざわざ要求してくれたのだ。

主と従者という身分の差はあれど、方正は日頃からこの沈翠を侮れなかった。彼女の母親は叔母の側近であり、屋敷全体の家宰(かさい)でもある沈ばあやで、叔母からの信頼も厚く、相当な権限を持っていたからだ。

「もうよい」

方源は、沈翠の柔らかい手を鬱陶しげに振り払った。衣服はとうに整っており、彼女の仕草は誘惑の色が濃い。

彼女にしてみれば、甲等(こうとう)の才を持つ可能性が高い自分は前途有望だ。もし方源の側室にでもなれれば、奴隷から主へと、まさに一足飛びの出世となる。

前世の方源は騙され、この侍女に好意を抱いたことさえあった。だが再生した今、その魂胆は火を見るより明らかで、彼の心は霜のように冷え切っていた。

「下がれ」

方源は沈翠に目をくれず、自分の袖口を整えた。

沈翠は僅かに唇を尖らせ、今日の彼がやけに素っ気ないことに、少し戸惑いと不満を感じた。何か甘えた言葉をかけようとしたが、方源から放たれる得体の知れない気迫に圧され、口を開きかけては閉じ、結局「はい」とだけ言って、大人しく退出した。

「準備はできたか?」方源は方正に目を向けた。

弟は戸口にぼんやりと立ち、つま先を見つめ、小さく「うん」と頷いた。

実のところ、彼は四更(よんこう)の刻には目を覚ましていた。緊張で眠れず、こっそりと起き出してとうに準備を終えていたのだ。目の下には隈ができていた。

方源は頷いた。前世では分からなかった弟の心中も、今世の彼には手に取るように分かる。

だが、今それを指摘しても意味はない。「では行くぞ」と淡々と告げた。

兄弟は住まいを出た。道中、同じ年頃の者たちがちらほらと、同じ目的地に向かっているのが見えた。

「見ろ、方家の兄弟だ」

小さな囁き声が聞こえてくる。

「前にいるのが、あの詩を詠むっていう方源だ」

誰かがそう強調した。

「へえ、あれが。噂通り、無表情で人を寄せ付けないな」

その声には、嫉妬と羨望が混じった酸っぱさが滲んでいた。

「フン、お前もあいつみたいになれたら、同じように威張れるさ!」

誰かが不満を隠さずに、そう吐き捨てた。

方正は無表情でそれを聞いていた。このような噂話には、とうに慣れていた。

彼は俯き、兄の後ろを黙って歩く。

東の空が白み始め、方源の影が彼の顔を覆う。

朝日は昇りつつあるというのに、方正は自分が闇へと向かっているような気がした。

その闇の源は、兄だ。おそらく一生、自分はこの兄という巨大な影から逃れることはできないのだろう。

胸が締め付けられ、息苦しささえ覚える。その忌まわしい感覚は、「窒息」という言葉を彼に連想させた!

「フン、まさに『出る杭は打たれる』か」

耳に入る囁き声を聞きながら、方源は心中で冷笑した。

自分が丙等(へいとう)の才だと判明した後、四方八方から敵意を向けられ、長きにわたって冷遇されたのも無理はない。

背後で、弟の息遣いがますます重くなっていくのも、彼の耳には届いていた。

前世では気づかなかったことも、今世では手に取るように分かる。

全ては、五百年の人生経験がもたらした、鋭敏な洞察力のおかげだ。

彼はふと、叔父夫婦を思った。なかなかの策士だ。自分には監視役として沈翠をつけ、弟には年増の女中を。生活の細部にも、他にも様々な差別待遇があった。

全ては意図的なもの。弟の心に不平を煽り、自分たち兄弟の仲を裂こうという魂胆だ。

人は寡(すくな)きを患(うれ)えず、均(ひと)しからざるを患う。

前世の自分はあまりに未熟で、弟はあまりに純真だった。結果、叔父夫婦の策はまんまと成功した。

再生し、開竅の儀を目前にした今、状況を変えるのは難しいように見える。だが、魔道の巨擘たる方源の知恵と手管を以てすれば、覆すことなど造作もない。

この弟を完全に支配することも、あの小娘を手に入れることも、叔父夫婦や長老たちを黙らせることも、今の俺には赤子の手をひねるより容易い。

「だが、そうする気にはなれないのだ……」

方源は心の中で、静かにため息をついた。

実の弟とて、情がなければただの他人。捨てても惜しくはない。

沈翠がどれほど美しかろうと、愛も忠誠心もなければただの肉塊。伽(とぎ)に迎える?格が足りん。

叔父夫婦や長老たちとて、人生におけるただの通りすがりに過ぎない。そんな路傍の石のために、なぜ俺が心血を注がねばならん?

フフ。

我が道を阻まぬ限り、道端の石でも蹴っていろ。

踏みつける価値さえない。

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