左遷された男爵の末息子、のんびりと代筆するのが天職でした!〜無能の刻印を押された僕は師匠に拾われたので、自由気ままに代筆と傍観者として生きます!〜

咲月ねむと

第1章 霧の谷の代筆屋

第1話 無能の刻印と母の置き手紙

​「今日限りで、お前はクライナー家の者ではない。勘当だ」


 ​父であるクライナー男爵の言葉は、まるで冬の北風のように冷たく、僕の心を通り過ぎていった。


​ 豪華な調度品が並ぶ応接室。そこに響くのは、暖炉で薪がはぜる音と、父の静かだが有無を言わせぬ声だけだった。

 僕の隣には、勝ち誇ったような笑みを浮かべる義母と、僕を見下す異母兄の姿がある。


 ああ、またいつもの光景か、と僕はどこか他人事のように思った。


​「理由は分かっているな? 病弱で騎士の訓練もできず、政務を学ぶだけの才覚もない。お前のような者にくれてやる財産など、我が家には一滴たりともないのだ」


 ​父の言葉は続く。

 それは事実であり、反論の余地もなかった。


 ​僕は物心ついた頃から病弱だった。剣を握れば三度振るだけで息が切れ、分厚い魔導書を開けば文字の羅列に眩暈を起こす。

 貴族の子息として期待される、そのどちらの道も僕には閉ざされていた。


 ​そして、最大の理由は――僕が、五年前に亡くなった第二夫人、つまり僕の母親の息子であるということ。

 ​商家の出身であった母は、政略結婚で嫁いできた正妻である義母や、その息子である兄たちからすれば、邪魔者でしかなかった。父の寵愛を受けていた母が亡くなってからは、僕への風当たりは日に日に強くなっていった。


​「クライナー家の恥め。さっさと出ていけ」


 ​異母兄が虫けらを追い払うかのように手を振る。義母は扇で口元を隠しながら、その金色の瞳で僕をさげすんでいた。


​「……分かりました、父上。今までお世話になりました」


 ​僕は静かに頭を下げた。涙は出なかった。

 むしろ、これでようやくこの息苦しい屋敷から出られるのだという、小さな安堵感すらあった。


 ​部屋を出て、与えられていた自室に戻る。がらんとした、必要最低限の物しかない部屋。本棚に並んだ数冊の物語と、簡素なベッド、小さな机。それが僕の世界のすべてだった。

 ​旅支度といっても、着替えを数枚、布の鞄に詰めるだけだ。金貨を数枚、情けとして渡されたが、これでは王都の宿に数泊もすれば尽きてしまうだろう。


 ​鞄に荷物を詰めていると、ふと机の引き出しの奥にしまっていた小さな木箱が目に入った。

 埃をかぶったその箱を、そっと開ける。中には、一通の封蝋された手紙が入っていた。

 ​それは、母が亡くなる直前に、僕に遺してくれたものだった。


​『愛するアレンへ。

 もし、どうしようもなく一人になって、行くあてもなくなってしまったら、この手紙を持って、そこに書かれた人を訪ねなさい。きっと、あなたの力になってくれるはずよ』


 ​病床でか細い声になりながらも、母は優しく微笑んでいた。僕の銀色の髪を撫でるその手は、驚くほどに温かかった。

 ​母はいつも僕の体を気遣い、剣も魔法もできなくたっていい、あなたはあなたのままで素晴らしいのだと、そう言ってくれた唯一の人だった。


 ​僕はその手紙を大切に懐へしまう。


 感傷に浸っている時間はない。幸いにも、この屋敷に未練はなかった。


​ 誰にも見送られることなく、僕は裏門から静かに屋敷を出た。一度も振り返らなかった。

 貴族としての名も、家族も、すべてを今日この場所に置いていく。身軽になった体で、僕は手紙に記された辺境の地――「霧の谷ミストラル」を目指すことにした。


​◇


 ​大陸北部にあるサンギ王国、その王都から乗り合いの馬車に揺られること、実に三週間。


 南に下り、​僕はようやく目的の地、ミストラルにたどり着いた。その名の通り、谷間にある町は常にうっすらと霧が立ち込めており、どこか幻想的な雰囲気を醸し出している。

 王都の喧騒が嘘のように、静かで、穏やかな時間が流れていた。


 ​石畳の道を歩き、道行く人に尋ねながら、手紙に書かれた住所を探す。

 町の中心部から少し離れた、小川のせせらぎが聞こえるような静かな場所。そこに、目的の建物はあった。

 ​つるの絡まる、古いが趣のある石造りの一軒家。軒先には、風に揺れる木製の看板が掲げられている。


​『シオンの代筆屋』


​ インク瓶と羽根ペンをかたどった可愛らしい絵が添えられていた。


 ​ここか……。


 ​僕はごくりと唾を飲み込み、深呼吸を一つしてから、重厚な木製の扉をノックした。

 返事はない。もう一度、今度は少し強く叩いてみる。それでも、中からの応答はなかった。


 ​留守だろうか。そう思い、諦めて踵を返そうとした、その時だった。


​「……開いている」


 ​中から、鈴を転がすような、どこか温度のない声が聞こえた。驚いて扉に手をかけると、それはあっさりと開いた。


 ​一歩、中に足を踏み入れる。

 ​途端にインクと古い紙、そして微かに甘い花の香りが鼻孔をくすぐった。

 壁一面に備え付けられた本棚には、羊皮紙の巻物や分厚い本がぎっしりと詰まっている。部屋の中央に置かれた大きなマホガニーのデスク。その向こう側に、一人の女性が座っていた。


 ​彼女が、この代筆屋の主だろうか。

​ 窓から差し込む柔らかな光が、彼女の姿を浮かび上がらせる。艶やかな黒髪を無造作にまとめ、銀縁の眼鏡の奥からは、夜空のような深い紫色の瞳がこちらを見ていた。

 肌は白磁のように滑らかで、整いすぎた顔立ちは、まるで精巧な人形のようだった。


 ​その美しさに、僕は一瞬、息をするのも忘れてしまう。


 ​彼女は僕の姿を上から下まで値踏みするように一目すると、興味を失ったかのように、再び手元の書類に視線を落とした。

 その手には、流麗な装飾が施されたガラスペンが握られている。


​「……ご依頼ですか? 見ての通り、立て込んでいる。急ぎでなければ、後日にしていただきたい」


 ​凛とした静かな声。

 クールという言葉が、これほど似合う人を僕は知らない。年の頃は、二十代半ばといったところだろうか。


 ​僕は慌てて懐から母の手紙を取り出した。長旅で少しよれてしまった封筒を両手で恭しく差し出す。


​「あ、あの! 依頼ではないんです! 母の……母の紹介で、こちらに伺いました。この手紙を、読んでいただけないでしょうか」


 ​僕の言葉に彼女は眉をひそめた。しかし、僕があまりにも必死な形相だったからか、あるいは手紙の差出人の名に何か思うところがあったのか。

 彼女は無言のままペンを置くと、僕の手から手紙を受け取った。

 カサリ、と乾いた音がして封蝋が切られる。

​ 折り畳まれた便箋を広げ、その紫色の瞳で、綴られた文字を静かに追い始めた。


 ​部屋には沈黙が落ちる。


 僕は、彼女がどんな言葉を発するのか、固唾を飲んで見守っていた。

​ 母が遺した、最後の希望。もしここで断られたら、僕にはもう行く場所がない。


 ​やがて、手紙を読み終えた彼女は、ふぅ、と小さなため息を一つ漏らした。そして、初めて僕の顔をまっすぐに見て、こう言ったのだ。

 ​その表情は、先ほどまでの氷のような無表情から、ほんのわずかに、本当にごくわずかにだが揺らいで見えた。


――――

新作投稿のお時間です!

今作は少しテンプレを意識しつつ、私らしい物語を執筆いたしました。


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