いくらフラクタル

白河リオン

いくらフラクタル

 旅をする青年が一人。


 港町。潮の香りが漂う古い食堂。壁には色褪せた漁船の写真がかかる。窓の外には幾何学模様のように広がる波のきらめきが映っていた。


「ご注文は?」


 白髪混じりの店主が、無骨な手で鉛筆を握りしめる。


「いくら丼を、一つ」


 青年は答えた。


 運ばれてきたのは、鮮やかなオレンジ色が無限に広がる丼だった。粒ひとつひとつが光を放ち、まるで小さな星の集合体。見入るうちに、青年は奇妙な感覚を覚えた。


——粒の中にさらに小さな丼があり、その丼の上にもまたいくらが輝いている。覗き込むほどに、終わりなく続く縮小の世界が広がっていた。


「フラクタル……?」


 思わず口にした数学用語に、店主はにやりと笑う。


「よく気づいたな。ここは海と人と、そして時間が作り出す模様の中にある。いくらはただの魚卵じゃねえ。ひと粒ひと粒が、この世界を映す鏡なんだ」


 青年は箸をとり、震える手で一粒を口に運ぶ。


 ぷちりと弾けた瞬間、潮さい、星空、波紋、そして自分の過去と未来が一度に流れ込んできた。


 繰り返しのようでいて、二度と同じ形にはならない——まるで海辺に刻まれるフラクタルの砂模様のように。


 気づけば丼は空になっていた。だが腹ではなく、胸の奥深くが満たされていた。


「また来い。世界の形を確かめたくなったらな」


 店主の声が、寄せては返す波のように響く。


 青年は店を後にした。


 港の夜景は、いくら丼の中で見た光景と重なっていた。


 その瞬間、青年は悟った。


——この世界そのものが、巨大なフラクタルのいくら丼なのだと。

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