私は川になる (改稿版)
雨宮吾子
私は川になる (改稿版)
第一声としての波紋が水面に広がると、その波紋を否定するように次の波紋が起こり、さらにその次の波紋へと続いていく運動が起こった。それは、雨の始まりだった。水音が独唱から合唱へと推移していく。それを眺めているうちにたちまち勢いは強まってきて、私の背後にある広場では、小学生たちが蜘蛛の子を散らすようにして逃げ去っていった。
世界は雨音に支配されてしまった。私は東屋に座っていたから幸運といえば幸運なのだけれど、傘がないためにこの場所を離れることもできない。あえて大げさな身振りで深呼吸をしてみせ、全身の力を抜こうとした。けれど、これまでの三十年を肩肘張って生きてきたのだから、すぐに脱力できるはずもない。私は諦めて、とりあえずは雨が降り止むまでのしばらくの間、ここに留まることにした。
その公園は街中の開けた場所にあるというのにあまり人気がなくて、東屋も川沿いに向かって椅子が設置されている。私はそのうら寂しい雰囲気に惹かれて、近所を散歩するときに時折立ち寄ったりしている。私のような弾かれ者は他にもいるらしく、汚れた新聞紙の束が無造作に散らかっていたり、眉を極端に細くした高校生たちがキスをしているところに出くわしたこともある。風が強く吹けば雨が降り込んでくるような広さの東屋で、私は何をしていたかというと、ただ川の流れを眺めていたのだ。
昼と夕方の間の、未確定な時間の中でぼんやりと川を眺めていられたり、雨の中に取り残されても案外平然としていられるのは、開き直りのおかげなのかもしれなかった。それでも万人に等しく課せられている時間の洗礼からは逃れられない。私は、大学時代に読んだある小説のことを思い返していた。当時はあまり感心しなかったけど、今になってその中の一節を思い出すのは、それなりに私の心に響いていたからなのではないか。……そうだ、冷静に考えれば、いつまでもこのままというわけにはいかないだろう。三十代を迎えたばかりの私は、それでもこの雨が降っている間はいつまでもこのままでいられそうな気がした。
しばらく東屋から世界を眺めていた。やがて、川の対岸に傘を広げながら歩いていく二人組の姿が見えた。背格好からして、おそらくは男女の傘と傘とが親しげに寄り添い合っているのを見ていると、私は何故かしらある出来事を思い返すのだった――。
――それは、先週の日曜日のことだ。
大学時代の友人が結婚式を開くというので、何人かの友人と車で乗り合わせて会場へ向かった。車内には私を含めて三人の女性、二人の男性がいた。私は適当に相槌を打つばかりで、積極的に話題を提供することはほとんどなく、それは昔からそうだったので誰も気にも留めていなかっただろうけれど、いつになく着飾った格好でそんなふうに一日を過ごさなければならないことには気を重くしていた。
大学を卒業してから十年近くもの時間が流れると、あの頃は同じ未来を見据えていた友人たちとのズレが、次第に顕わになってくる。いや、本当は同じ未来なんてものは、最初から存在すらしていなかったのだ。そのことに気付いたのは式場への車内で、けれどそれは大きなきっかけがあって初めて思い至ったことだった。
つまり、仕事を辞めたこと。
私は自分で選んだそのことにどこかで引け目を感じていた。決まった頻度でハローワークに行き、探す気もない次の職を探し、僅かな退職金の含まれた貯金を減らしながら、地元に帰ることも億劫で避けていた。逃げ癖がついたね、と昔に習い事を辞めたときに言われたことが、フラッシュバックする夜を何度も何度も過ごしていた。でも、同時にいくらか心が軽くなったことを感じてもいたのだ。
無職という身分を積極的に認められないのは、仕方のないことだ。だから私は、恋人の話も結婚の話も子供の話も、全て自分には関係のないことだと言いたくても言えなかった。そもそも、結婚式場へ向かう車の中でそんなこと、言えるはずもない。
重い気持ちを引きずりながら式場に着いてみると、飾り立てられた空間と着飾った人々の雰囲気に流されていった。せっかく招待されてきたのだから、いつもは食べることのないような豪華な料理を楽しもうと気持ちを改めた。
「聞いたよ、仕事辞めたんだって? いつまでも夢なんて追いかけてられないよ」
ふと、そんな会話が耳に入ってきた。振り返ってみると私と同じくらいの年齢の男性が、照れのためかアルコールのためか、隣の女性に向かって顔を赤らめている。席の位置からして、新郎側の友人だろうと思った。
私は同じテーブルを囲む友人たちの会話に適当な相槌を打ちながら、そちらの方に意識を向け続けた。会話の漣に流されてそちらの声は聞こえてこないけれど、私は広い会場の中で、たった一人の友を見つけたような気になった。でも、すぐに思い直した。私には追いかけている夢なんてものはない。ただ逃げ出しただけの、弾かれ者。
式が終盤を迎える頃になって、今どきは珍しくなってきたブーケトスをやるという話が回ってきた。私は追いやられるようにして独身者の群れに入り込んだ。友人である新婦が投げたブーケは、結果的に、私の手に収まった。
「おめでとう!」
無邪気な笑顔を浮かべて、次はあなただねと口にする人々。偶然と奇跡とを混同している人々。私は彼らよりも劣った立場にいるというのに、彼らのようにはなりたくないと思った。
困惑する私に運を貰いたいからと握手を求めてきた女性には見覚えがあった。さっきの男性に向かって、いつまでも夢を追いかけてはいられないと口にしていた人だ。私は笑顔を作って握手をして、彼女が去っていく背中を視線で追いかけた。その手があの男性の肩に行き着いたとき、ああ、そういうことなのか、と一人で合点した。
やっぱり私の友は、ここにはいない――。
――本当の友人のいない孤独に近いところで生活をしていると、そんなちょっとした出来事を語る相手もいない。だから私は、時折この東屋にやって来て、日々の出来事を整理する。仕事を辞めた上に遊びに出かけることも少ないから、私の日常には小さな手帳の一ページにも満たないくらいの出来事しか起こらない。それでも、私は自分自身に語りかける。
人生は何事も繰り返しだ。炊事も洗濯も掃除も、どうしてこんなに続けなければならないだろうというくらいに繰り返す。いつか飽きが来て、そうして人生に飽き始めたならいよいよ危ないのではないかと思う。だからどこかで停滞した気分を打破しなければならないはずなのだ。でも、そうした熱量は歳を重ねるごとに薄れていく。
雨は止むどころかいよいよ勢いを強めてきている。少し触れるくらいの強さで川面に現れていた波紋は、いつの間にか大きく、また深くなっている。ここで待ち続けて本当に雨は止むのだろうか。それとも……。
「あの、すみません」
突然の呼びかけに私は驚いた。今までの考えを口に出して呟いてはいなかっただろうかと恐れながら、ゆっくりと振り返る。
私の背後に立っていたのは、おそらくは私と同年代の男性で、スーツのジャケットを脱いでワイシャツ姿になっていた。視線を直にぶつけるのが憚られて、視線を伏せると二本の傘を持っていることに気付いた。
「もしかしてお困りなんじゃないかと思って」
「……あの、傘を持っていなくて」
「ああ、やっぱり。この雨の中を一人でぼんやりとしていたようでちょっと心配になったんです。もし良ければ、この傘を使いませんか」
そう言うと男性は鮮やかな色の傘ではなく、透明で当たり障りのない、言ってみれば平凡なビニール傘を差し出してきた。それでも今の私には有り難い。
「貸して下さるんですか」
「貸す、というよりも差し上げることになるでしょうね。本当は知人を駅まで迎えに行くつもりだったんですけど、どうしても気になってしまって」
するとこれは、知人のための傘なのだろうか。私は何だかひどく気怠い気分になってしまった。
それでも断る理由はなく、私は立ち上がると、賞状を受け取るときのような厳かさで傘を受け取った。
「でも、傘が一本だけだと困りませんか」
「いえ、相合い傘に誘う良い口実と思えば、却って助かるかもしれません」
「……そう、ですか」
私はお礼を言うと、男性はもう一本の鮮やかな色をした傘を広げた。オランダの画家、モンドリアンの作品を模した絵柄が視界いっぱいに広がった。
「じゃあ、さようなら」
それだけ言うと、男性は去っていった。残された私は背後に流れる川を振り返ったけれど、もうここに留まる理由を見出すことはできなかった。
この街でたった一人だけ濡れずにいられる特権を捨て去る決意ができると、私は透明な傘を広げて世界に飛び出した。横断歩道を渡るとき、普段は急かされるように青信号の点滅を見るのが、今日に限っては雨のリズムと調和しているように感じられて、とても心地が良い。街中の様々な光が雨粒の向こうに煌めくとき、私はこの街が好きだと改めて感じていた。歩き続けていくと、その先にはたくさんの傘が行き交っていて、私はこの傘の川の中を流れていくのだろうかと考えた。
傘の模様は人それぞれだけれど、透明な傘を広げている人と出会うことは意外にもなかった。そして、あのモンドリアンを模した鮮やかな傘に出くわすこともなかった。
私は意を決して、傘の川の中に身を浸すようにして群衆の中へと飛び込んでいく。すると、私は私であると同時に私ではなくなっていく。それが何故かしら快いことのように感じられたのだった。
雨が止まなければ、きっと素敵なのに。そんな気分になったのは、生まれてから初めてのことだった。
私は川になる (改稿版) 雨宮吾子 @Ako-Amamiya
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