シーン20 オディル
薄暗闇の森の中を歩く。
足は鉛のように重い。道は悪いし、視界も悪い。
夜襲から防衛戦、そして、撤退。
嫌になるほど長い夜だ。
ミラがいないと思っていたが、今は松明を手に先頭を歩いている。地図もないのに足取りに迷いがない。戦闘中に準備でもしていたんだろうか。
もしそうなら、ファルナやグラニは野営地の兵数を聞いた時から撤退を視野に入れていたことになる。その日の晩に攻めてくるとは思わなかっただろうけど。
いや、明日の書のことを考えると夜が明ける前に攻めた方がいいのか?
未来について知ることができるという明日の書だが、お互いがそれを持っているとなるとどう動くのが最適になるのかよくわからない。一方が未来を読んだらもう一方はそれを阻止しようとする。裏の裏を読む面倒な頭脳戦が始まるわけだ。
今回の奇策に見えたエイドの攻撃も理論に基づいたものなのかもしれない。
実際、それで彼らは成功している。時間帯が普通でなかっただけでやっていることは戦力を増やしての力押しだった。
動きがあったのは丘を降りて道が平坦になった頃だった。
先頭のミラの足が止まる。
「伏せて!」
すぐにしゃがんだ。
前方の藪の向こうから白く輝く魔術が飛んできた。遠目からは丸い光の球のように見え、放物線を描いてこちらに落ちてくる。
衝撃はなかった。
ただ、まばゆい光が周囲を照らす。
この魔術は知っている。この敵を知っている。
ファルナの乗っていた馬が大きくいなないた。上体を逸らし、ファルナを降り落として走り出す。ウルガルが駆け寄った。
「敵だ! ファルナ様を守れ!」
獣人たちが一斉にファルナを守るように囲む。遅れて僕もその輪に加わった。
しかし、悲鳴の上がったのは別の場所だった。
ファルナから離れた場所で周囲を警戒していた獣人のひとりが背中を斬られた。僕の目には恐ろしげな仮面しかとらえることはできず、すぐにまた闇へと消える。間違いなく夜襲の帰りに遭遇した暗殺者だ。
「大丈夫か!」
「ちょっと痛むが、これくらい問題ねえ」
照らされた背中の傷はそれほど深いものではない。出血も軽いので問題ないかと思われたが、獣人は痛みに堪えた表情をしている。汗も酷い。
「やはり、毒か」
忌々し気にウルガルがつぶやく。
この場に解毒薬などあるはずもなかった。
「私に見せてください」
落馬で泥だらけになったファルナが進み出る。馬に乗っている間にいくらか回復したのか顔色がだいぶ良くなっている。
「ファルナ様、しかし、魔力が」
「これくらいの傷であれば問題ありません」
治癒の光が傷口を包む。
しかし、光は弾かれたように霧散した。
「やっぱりか」
「どういう意味だ、魔術士」
「残瘴汚染だよ。あの剣には残瘴そのものが込められている」
残瘴という単語には聞き覚えがある。
泉を訪れたときにサリートから教えて貰った。かつて、クルスミアで戦争が起きたときに拡散した魔術や呪術の副産物だ。たった手のひら一杯の水に含まれた残瘴を飲むだけで『予兆』は死を示していた。
「斬られたら魔素も魔力も受け付けなくなる。治癒魔術が効かないのもそのせいだ。怪我自体は軽くても回復は遅くなるな。全身に汚染が回ったら高熱で数日は動けなくなる。この程度なら死にはしないとは思うが」
その答えにウルガルが低く唸る。
サリートは冷静に答えたが、その冷静さがウルガルを苛立たせたようだ。
「傷口を洗えばなんとかなるか?」
「そりゃ無理だ。魔術的な治療じゃなけりゃ意味がない。それもただの治癒魔術じゃさっきみたいに弾かれる。専門家でもなけりゃこれ以上は何もできん」
「クソッ! 毒より質が悪い!」
斬られた獣人はふらふらと立ち上がる。
顔に大粒の汗が浮かんでいた。
「小隊長、こんなところで止まってたら敵の思うつぼですぜ。さっさと行きましょうや。付いていけなくなったらちょっと休ませて貰うかもしれませんがね。今日はもうそこそこ働いたし、そんときゃ許してくだせえ」
「……ああ。わかっている」
歯を食いしばってウルガルは前進を命じる。
彼が本隊の合流までは持たないというのは皆がわかっていることだろう。それでも僕たちは進むしかなかった。ファルナを無事に送り届けるよりも優先されることはない。いつか仲間を見捨てるときが来る。やりきれない。
仮面の男の攻撃はとても有効で陰湿なものだった。
次に彼が動いたのは大きな木が立ち並び、足場に木の根に覆われた場所だった。
最初に音がした。それは小さな風切り音だった。次に地面の揺れ。音はすぐに重いものが動く音に変わる。見上げれば巨人のように大木が隊列を割るように落ちてくる。誰かが叫ぶ。大木を回避し、安否を確認したときにひとりが残瘴の剣によって斬られていた。今度は敵の姿すら見えなかった。
この失敗に小隊はより慎重になり、自然と行軍の足は鈍る。
「まずいな」
サリートがぽつりと言った。
「奴が姫様を狙っているのは間違いない。だが、その過程で俺たちを全滅させるつもりだ。そうでもしないと姫様を殺せないと思っているのかもしれん。警戒の薄い場所から崩していき、手薄になったところで……」
それ以上は流石に言葉にできなかったのか、口をつぐむ。
「これではまるで俺たちが狩られる獣ではないか」
ウルガルが大剣を抜く。
勇ましく振りかざし、大声で叫んだ。
「出てこい! 正々堂々戦え!」
声は森にむなしく響いた。
仮面の男は強い。
だが、彼自身は人数差や獣人の身体能力を覆すほどではなかった。
暗闇からの奇襲と治癒することのできない傷を負わせる剣。このふたつを組み合わせ、奇襲を仕掛け一度攻撃をした後に見切られないタイミングで的確に残瘴剣を使ってくる。この悪辣な戦術が彼の強さだ。
一見、敵が圧倒的有利に見えるが、それは正面から戦わないからこその有利。戦術さえ対策できればすぐに状況は逆転するはずだった。
森の先にはきっとまた罠が待ち受けている。だが、行くしかない。獣人たちは一層神経を尖らせて前へ前へと進む。
少し先を歩いていたサリートに声をかける。
「少しいいですか」
「どうした?」
「『残瘴』のクルスミア語を教えてください」
「ああ、なるほど。それは必要だな」
額に指を当て、少しした後に渡した紙にペンを走らせる。受け取った紙を月光の当たる場所で見てみれば『予兆』で浮かんでいるのと同じ文字が書かれていた。
すぐには死なないが、半日後に死ぬ。
となれば、直接的な死因は仮面の男の剣による残瘴汚染ということになるだろう。
遅効性の死では『予兆』ですぐ回避はできないか。いや、『予兆』の文字が残瘴が消えれば、行けるか? いや、それではタイミングがつかめない。暗闇からの奇襲を回避するにはもっとわかりやすく死が見えなければ無理だ。
すぐそばの死も恐ろしいが、遅れてやってくる死はもっと恐ろしい。一度ハマってしまえば『予兆』でも抜け出すことはできないからだ。
そして、十分後。
更にひとり犠牲者が出た。
「もうやるしかねえ」
ウルガルの形相はもはや魔獣のようだった。皺のひとつひとつに怒りが刻まれ、全身に力を滾らせて震えている。味方であるはずの僕ですら恐怖を感じる。
「こっちから奴を襲うんだ」
「兵を分けるのはあまり良くないのではないか」
「いいや、相手に好き勝手させてるからこうなってんだ。鼻も耳も俺たちのが利く。敵はたったひとり。すぐに片が付く」
確かに敵を捕捉できればウルガルの言う通り、戦いは一瞬で終わるだろう。だが、そうならなければ分断されただけに終わる。ファルナの守りは減ってしまう。この決断がどのような結果を招くかはウルガルもわかっているはずだ。
「せめて朝まで待ったらどうだ?」
サリートも同じように思ったのか、ウルガルを引き留めるような提案をする。
「もう三十分もすれば夜明けだ。そうなれば森の中とはいえ視界も良くなる。仮面の奴だってそう簡単には手を出せなくなると思うが」
「日が出るまでに何人がやられる?」
「それは……」
十数分で三人が使い物にならなくなった。ここから同じようなペースで人数が減れば夜明けには半分ほどになってしまう。
果たしてそんな状態でファルナを守れるのか。
「私も行くわ」
先頭を歩いていたミラもウルガルに同意する。
彼女は多種族の獣人が所属するウルガル小隊は珍しいと言っていた。元々は傭兵団だったらしいが、それが普通の傭兵団でないのは僕でもわかる。きっとウルガルやミラにとってこの小隊は特別なものなのだ。
彼らもプロの軍人。戦えなくなった仲間を置いていくことを拒否はしないが、思うところがないわけじゃない。
これ以上の被害を減らすために打って出る。
その意志は竜の角より固い。
「ファルナ様、よろしいでしょうか」
「魔力のない私は枷でしかありません。きっとあなた方獣人の力を活かすのなら、足手まといはいない方がいいでしょう。あなた方はザラメルギスの敵を討ちなさい」
「ありがとうございます」
こうしてウルガルは獣人を三人連れて仮面の男の消えた方角へと向かった。ウルガルの選んだ獣人は特に身軽な者たちで、男を見つけることさえできればすぐに追い付くことができる。そこにミラの索敵とウルガルの戦闘力が加わるのだから完璧な布陣だ。
残された僕たちはウルガルの向かったのとは真逆の方へと向かった。
魔力探知だって無制限に使えるわけではない。探知できる距離は限られている。その範囲から脱出すれば十分に勝機はあるはずだった。
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