シーン10 オディル

 夕暮れ時。

「僕に斥候をやらせてください」

 任務開始の少し前、ウルガルにそう告げると彼は砂を噛んだような表情でこちらをうかがい、すぐにハチミツの瓶に視線を戻した。中のハチミツを舐めているわけではなく、瓶を布で丹念に磨いている。

「いいだろう。ミラの奴と話を付けておけ」

 あまりにもあっさり決まったことに拍子抜けする。

 ウルガルのことだから足手まといはいらないなどと言われるのを覚悟していたのに。

「いいんですか?」

「自分から言っておいてなんだ、その態度は。斥候の経験があるのは聞いている。仲間を巻き込んだら許さんが、お前がひとりで死ぬ分には勝手にしろ」

 ひどくつまらなさそうだった。

 他の獣人たちも似たような様子で興味を持たれていないのがわかる。夜に備えて体を横たえている者もいて、僕のことより任務に意識が行っているようだ。

「まったく。ファルナ様はどうしてこんな若造を気にかけているんだか」

 天幕を出るとき、後ろからそんな声がした。


 先程、ウルガルの話にミラという名前が出た。

 ミラは小隊が単独で行動するときの斥候を担当する獣人の女性だ。根が夜行性なのか、昼には姿を見せず、いつもフードを被っている。ウルガル小隊では珍しく小柄で僕よりも小さい。わずかながら魔術が使える。

 普段は夜の見張りを担当しているため僕とは行動時間がズレる。外見が小隊で浮いていたから覚えていたが、そうでなければ誰かわからなかっただろう。

 彼女は女兵士たちと森の方を眺めて談笑していた。

「任務で斥候として同行することになりました、オディルです。精一杯ついていけるよう努力しますのでよろしく願いします」

 話すのは初めてだった。

 ミラがフードの下で楽し気に笑うのが見えた。

「かったいなあ。別にかしこまらなくてもいいの。うちの小隊っていうか、第二戦団は野蛮なのばっかりだし、そういう話し方だったらずっと馴染めないわよ」

「歴戦の先達には敬意を払うべきかと」

 小隊のメンバーはほとんどはウルガルが傭兵団をやっていたときに集められたと聞く。その頃からの付き合いだというミラも若いながらに戦闘経験は豊富なはず。精鋭を自称するウルガル小隊で斥候が務まる人材なら見習うべきところは多い。

「ふ、ふーん。なら、私は別に構わないけど」

 彼女はフードをつかみ、目元を隠すように引っ張り下げた。

 女兵士たちがそれを見てはしゃぐ。

「照れてる」

「おだてられると弱いからなあ」

「君もちゃんとミラの面倒を見てやってよ」

「あー、もうあんたたちはどっか行きなさいよ! これから任務までにうちのやり方を教えなきゃならないんだからね!」

 童顔と声の高さのせいで怒ってもあまり怖く見えない。むしろ小動物が威嚇しているような愛らしさすらある。からかわれるわけだ。

 野次が蹴散さられた後、先輩風を吹かすミラから指導を受けた。

 ほんの少しの仮眠を取り、任務が始まる。


 物音に体がびくりと跳ねる。

 夜の森は決して静かではない。虫の声、風のざわめき、どこかで鳴く鳥。湿った空気と土の臭いすらも不気味に思えた。ただの自然現象なのに敵地だと強く意識してしまう。

 今回の音はただの鹿で、飛び跳ねるようにして暗闇へと消えていった。

 動物に気を取られるのはもう四度目になるがなかなか慣れない。

 この付近の獣はクグズットよりも鈍感で僕たちが近くに来るまで動かない。だから、急に現れたように感じる。

「ただの鹿で驚かないでよ。こっちまでびっくりするじゃない」

 ささやくようにミラが笑っていた。

 僕とミラは先行して危険がないかを探っていた。

「すみません」

「鹿が群れに合流したみたい。遠ざかっていくわ」

「この森は動物が多いですよね」

「天敵がいないから、安心して暮らせるのよ。羨ましいわね」

 その天敵とははたして肉食動物なのか。それとも人のことを言っているか。あるいは魔獣かもしれない。戦争が始まるまでここにはそのどれもいなかった。

 月明りが獣道を照らす。

 僕でもわずかに見えるのは純人ばかりのエイド軍にとっても同じことが言える。しかし、獣人であるミラからすれば、この程度の闇は障害にならない。しかも、彼女は目よりも耳を頼りに索敵を行っている。人と動物なら歩く音で区別が付くほどだ。

 ただ、僕が物音に驚いていたのも理由がある。

 すぐそこまで『予兆』が迫っているのだ。

 今出ている『予兆』はサリートのおかげでちゃんと解読できている。『土の魔術罠に押しつぶされて死ぬ』。これだ。

「止まってください」

 僕が言うとミラはいぶかし気に僕を見上げた。

 どこに罠があるかはわからないが点滅の激しさでタイミングはわかる。それに従えばもう猶予はなかった。だが、ここで足を止めたことで『予兆』は遠ざかる。内容も変わった。

 問題はこれをどう伝えるかだ。

 上手くでっち上げないとウルガルのときのように命令違反になる。

「何? おかしな様子はないけど」

「罠です」

「そんなもの見えないわよ」

「エイドのことですから巧妙に隠してあります」

 目の前に広がるのは森の切れ目にあるただの荒れ地だ。

 一見すれば道のようになっていて歩きやすい場所に見える。

 罠があるのはわかっていたからサリートに罠に使われる魔術式やその隠し方も聞いてきた。流石にかじっただけのミラでは本職のサリートには叶わない。実践する僕も聞きかじっただけで、ミラとは変わらないとも言えなくもないけど。

 荒れ地の右側は低い崖のようにせり出していて、押しつぶすほどの質量を転がすならその上からだろうと思った。

 そこにあった大き目の石をどけるとその下に魔法陣とそれを起動させるための魔石があった。もしも気にせず通っていれば魔術が発動し、『予兆』通りに岩の下敷きになっていた。危ないところだ。

 その魔石を取り除き、ポケットに仕舞った。これで無力化完了。

 これだけ大粒の魔石ならお金にもなる。

「エイドもこんな罠を仕掛けてくるなんて本気ね」

 じっと僕の行動を見ていたミラが低くつぶやいた。

「気配は感じなかったけど、これで決まり。敵は近いわ」

 表情が強張る。

「意外とあなたもやるのね。魔術使えないんでしょ?」

「ええ。この知識も友人に教えて貰ったものです」

「前に小隊の手伝いに来ていた人?」

「そうです」

 ミラは納得してくれたようだ。

 感心したわ、と僕の背中をぺちぺち叩いた。

 だけど、こちらはまだ危険が去っていないことを知っている。思っていた以上に『予兆』が近い。改めて今回の任務の難易度を思い知らしらされた気分だ。

 罠だけでなく他にも斥候を退けてきた何かがこの森にはある。

「ミラ先輩、ひとつ提案があるのですが」

「何よ。言ってみなさい」

「移動ルートを僕に決めさせて貰えませんか?」

 僕は『予兆』を使って危険を回避する方法をすでに編み出している。昔から使用していたもので、やり方は汚染された泉で水を汲んだときと同じだ。

 まず、僕は本来行こうと思っていたのは違う方向へ一歩踏み出す。このときに『予兆』が遠ざかれば良し。近づくか、変わらなければまた違う方向へ足を伸ばす。これを繰り返すことによって一番『予兆』の遠い場所へ向かう。そうすれば比較的安全に進める。たまにまったく『予兆』の変わらないどうしようもないときもあるけれど。

「まだ罠があるのね?」

「ええ、まあ」

 ミラは人差し指を顎にあて少し考えてから答えを出す。

「採用ね。いちいち確かめてる時間もないし」

「では、僕は罠に集中するので、先輩は敵兵に気を付けて貰えますか。そっちは僕よりもずっと先輩の方が見つけるのが上手だと思うので」

「いいわ。適材適所よ」

「他にも気づいたことがあったらすぐに止めてくださいね。僕は新参ですし、小隊のやり方とは違う部分もあるでしょう。何よりミラ先輩の鋭い感覚がないとこの暗い森を抜けられる自信はありませんから」

「そう? 仕方ないわね」

「よろしくお願いします」

 任務中でなければ鼻歌でも歌いそうなほど機嫌がいい。斥候のときはずっとひとりでやっていて、こんな風に頼られる場面がなかったのかもしれない。

 ミラは腰の袋から小さな種のようなものを取り出した。

 それを通った場所に撒く。

「その種、なんですか?」

「そういえば、説明してなかったわね。最初に決めたルートから外れる場合はこれを撒くの。小さくて色も地味だけど、嗅覚に優れた獣人なら匂いを頼りに追うことができるのよ」

「なるほど」

「オディルも持っておきなさい」

 小袋を押し付けるようにして渡される。

 鼻に近づけてみると確かに刺激的な匂いがする。

 ルートを変えたり、異変があったときは戻って知らせるものだと思っていたけど、ウルガル小隊では速度を優先するようだ。種を使うやり方ならば純人相手にはバレにくいし、暗闇でも問題ない。獣人ならではの技術だ。面白い。

「じゃ、行き先を決めて」

 ミラが促し、僕は『予兆』を見る。

 安全な方角は少なく、どこへ行こうと『予兆』は付きまとう。

 それでも隙間を縫うように僕たちは進んだ。

 敵に会うことはなかった。

 そして、僕たちは森の中の拓けた場所で敵の野営地を発見した。

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