シーン6 ファルナ
ファルナはオディルを最後に一通り怪我人の治療を終えた。
今日最後の仕事を終えた彼女はすれ違った兵士たちに労いの言葉をかけながら司令部として使っている天幕に戻る。
天幕にはグラニはすでに戻ってきていた。ファルナが入ってきたのを見つけると巨体に似合わない恭しい敬礼を見せた。ファルナはそれを小さく頷いて返す。
「ザナ」
治療中の穏やかな声とは違う冷たい声。
すぐ後ろにいた女騎士が音もなく立ち止まる。
「外で見張りを頼む。良いと言うまで誰も通すな」
ザナは何も言わずに一礼し、天幕を出た。
ファルナの顔から表情が仮面のごとく剥がれ落ちた。優しく慈愛に満ちた微笑みは消え去り、瞳は何の感情も映さない。そこに新たな仮面が上書きされていく。
グラニに向き直ったときにはもう誰からも愛される王女の面影はなく、冷徹な顔をしたザラメルギスの王族としての彼女があった。
「見事な勝利でしたな。私がおらずとも采配に曇りなし。いっそ殿下自ら指揮を執られてはいかがか。その方が士気も上がると愚考しますが」
「世辞はいい。そんな間柄ではないだろう」
「かつての殿下であれば少しおだてるだけで仔馬のように走り回って喜んでくださったのですが、すっかり大人になられましたな。まるで、陛下のようだ」
「やめろ。不愉快だ。頼んでいた件はどうなった?」
「一度会ってきました」
「感想は?」
グラニは首を横に振った。
「目立ったところはありませんな。どこかで武術を習った様子はなく、体も頑丈には見えず、魔力などはほぼ感じられません。目端が利くところは褒められますが長所はそれくらいかと。自らの手で育てるのであれば面白い人材ではありますがね」
「で、あろうな」
予想していた通りだと頷く。
「現状では殿下が注目していた理由を測りかねます」
「爺は正しい。私にもそう見えた。ある一点を除いてはな」
「その一点とは?」
ファルナは机の上にあった宝石をつまんだ。そこには小さな魔法陣が刻まれており、魔力を込めれば小規模な結界を張ることができる。これにより音が漏れるのを遮断することができた。要は密談のための魔道具だ。
魔力を込めると宝石はファルナの魔力を反映して青く光った。
「『明日の書』という魔道具を知っているか?」
「話には。優れた錬金術師だったクルスミアの初代国王が残した遺産のひとつですな。未来が記された伝説の魔道具と聞き及んでおりますが……」
ファルナは天幕の隅に置かれた魔術的な封印が施された金属の箱に手をかざした。手から魔力が放出され、箱は音もなく開く。中には一冊の赤黒い表紙の本が静かに納まっていた。
「明日の書は実在する」
本を手に取る。
存在を確かめるように表紙を撫でた。
「まさか。ご冗談を」
「冗談に聞こえるかもしれないが本気だ。爺は不思議に思わなかったか? 我が父ヌィドがどうして叔父である前国王を下したのか? どのように幾重にも張り巡らされた策を見抜いたか? どうやって圧倒的に優勢だった爺の軍団を破ったのか?」
グラニの表情が揺らぐ。
「おかしいと感づいていたのだろう?」
グラニはかつてザラメルギスの軍団長だった。しかし、ヌィドが前国王を追い落としたとき、主を守れなかったグラニはその地位を退くこととなる。優れた能力を持ちながらもヌィド本人ではなく、ファルナに仕えているのはそのときの確執があるからだった。
「すべては父上が未来を知っていたからできたこと」
「まさか……そんな」
全身の毛がそばだち、漏れ出した魔力が雷へ変化してちりちりと鳴った。電紋が青白く光っている。それは紛れもなく怒りによるものだった。
「そんなものが実在すれば……!」
大きくバチ、と音がしたかと思うともう雷の光はどこにもなかった。
「我らは……最初から勝負になっていなかったのですね。私の戦いは……彼らの栄誉は……辻褄は合いますが、あまりにも受け入れがたい」
「しかし、これからは明日の書があるものとして戦術を考えねばならん」
「酷なことをおっしゃる」
「爺の選んだ道だ」
グラニはあきらめたようにため息を吐いた。
「明日の書にはどのように未来が書かれているのですか」
年表が淡々と書いてあるのか、それとも誰かが見てきたように書いてあるのか。本といってもその内容や記述方法は様々だ。
より具体的に明日の書がどのような魔道具なのか。
それをグラニは問おうとしていた。
「言えぬ」
ファルナはその疑問を冷たく切って捨てた。
「明日の書にまつわる情報は王族の中でも秘中の秘。とはいえ、今回の件に対処する過程で知ってしまうこともあるだろう。正しい使い方、何が書かれているか、推察ができたとしても口外は禁ずる。心のうちに留めておきなさい」
「……それではどうやって戦術を議論するのですか?」
「いつもと変わらない。たとえば、戦術会議があるだろう。すると、敵の出方はどうだとか天気が崩れるか、などという流れになる。そこで未来を知る者が予測という形でこういうことが起こったときの対処を決めようと言う」
「未来を知る者とはつまり、王族。無視はできませんか」
「その通り」
この話を聞いた者はかつての会議を思い出すだろう。優れた頭脳によって問題を予測していたと思われたのが最初から知っていた。ヌィドやファルナが知略に優れていたのは本人の能力だけではなく、魔道具の力があってのこと。
「茶番ですな」
「必要な儀式だ」
グラニは、苦々しげに息を吐いた。
「この話を私にした理由は一体?」
先程の流れならグラニが明日の書について知る必要はないはずだ。軍団長であった頃ならば戦略上の都合で知っておいてもいいだろうが、今のグラニはたった二十騎のケンタウルスを率いるだけの身。理由がない。
「オディルが明日の書に書かれていた未来を覆した可能性がある」
「それは……よく起こることなのですか?」
「いや。ない。明日の書によって未来を知ったものが違う未来へと進もうとしない限り、明日の書の記述は不変だ。現実に起こる出来事もな」
日が落ち始め、天幕の中も暗くなりつつあった。
グラニは話に耳を傾けながら、ろうそくに火を灯し、机に置いた。
「クグズット軍を囮に使った作戦の成功は書いてあった。同時に全滅することもだ。しかし、ふたりも生存者がいる。驚いたよ。明日の書は絶対的なものだと思っていたからな。聞けば、オディルが重傷のサリートを連れ帰ったと言うではないか」
ろうそくの炎がファルナの横顔を照らす。
その表情は暗く、見えない。
「そして、今日だ。私はオディルを試すことにした。本来ならウルガル小隊は小隊長のウルガルを含めた数名が戦死するはずだった。戦況は優勢で、丘の防衛も問題なかった。だから、私は何も手を加えなかった。ところが、またしてもオディルは生き残った。オディルだけではない。ウルガルも他の兵士も生き延びている。サリートもだ」
人の生き死にがファルナの手のひらの上にあった。
一歩間違えばウルガルもオディルも命を失っていたにも関わらず、ファルナは気にした様子もなく淡々と語っている。
「考えられる可能性は三つ」
ファルナがその白く細い指を三本立てて見せた。
「まずは私が無意識に影響を及ぼしてしまった可能性。現実的とは言えないが偶然が重なればあり得なくはない。だが、その確率は低いと思っている。次はオディルが敵の内通者である可能性。オディルの名は確かに名簿に存在し、クグズットにいたとされている。しかし、その顔と名前が一致する者はもう死んでしまってここにはいない。この状況なら潜り込んで情報を集めることができる。向こうからの情報を得ていたなら必然的に伏兵を回避することもできただろう。最後がオディルが運命を覆す力を持つ可能性。本人は『直観』と言っていた。それはもしかすると明日の書の記述すら覆す力なのかもしれない。であれば、奴の存在は――」
「ひとつ、よろしいでしょうか」
「なんだ」
「殿下は明日の書の記述にある未来は読んだ者のみが変えられると言いました。であれば、二つ目の内通者の可能性は除外できるのではないでしょうか?」
「ああ。まだ言っていたなかったな」
ファルナは小さく笑った。
「敵側にも明日の書があるんだ。どちらの明日の書も模造品で元となった魔道具は失われたと聞いているが、今はどうでもいい話だろう。重要なのはどちらも未来を知ることができて、お互いに出し抜こうとしていること」
机に置かれた地図を見る。
川を挟んでザラメルギス軍とエイド軍を表した駒が向き合っていた。丘があるのは川から少し離れた場所でファルナを示す青い駒もそこにある。そして、麓の森の中には敵を示す駒はすでになく、エイド側の地図の途切れた場所にいくつか赤い駒が置かれている。
「つまり、この戦いは明日の書を持つ者同士の未来の奪い合いだ」
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