シーン4 オディル
夢を見た。幼い頃の夢。
僕は誰かと馬車に乗っていた。そのとき、脳裏にちかちか光る赤い点滅があった。それは意味のわからない記号の形に光り、だんだんと近づいていた。
まだ僕はその意味を知らない。
ただ気持ち悪い。そう思っていた。
点滅が視界の半分を覆うほど近づくと流石に気分が悪くなる。
目の前で精一杯手を振って振り払おうとした。
だが、点滅は消えない。
馬車に積んであった箱を開け、そこに入った。
真っ暗闇になれば赤い点滅も消えると思ったのだ。
箱の中は荷物を入れる前だったようでからっぽで僕はすっぽり入ることができた。
僕は一緒にいた誰かに頼んで箱を締めて貰った。そこでようやく点滅は気にならないほど遠くになった。まだ光っているが光も薄いし、無視できる。
安心した僕は心地いい馬車の振動で寝てしまう。
そして、起きたときには――
敵の来襲を告げる笛の音が響いたのは、やはり翌朝のことだった。
そのときにはすでに僕は目が覚めていて、主張が強まる一方の『予兆』にうんざりさせられていた。視覚的に訴えかけるだけならともかく、最近は心臓を鷲掴みにしてゆっくり握りつぶしていくような鈍い痛みと気持ち悪さを伴う。
こうなると一度起きてしまうと寝付けなくなってしまう。
オンオフを切り替えられたらいいのにと思う。
雨が降っている。
持ち場につけば、サリートも待機していた。
目が合うと口の端を少し持ち上げた。
ウルガルが前に立ち、小隊に視線を巡らせた。
「サリートといったか。来たばかりのところすまんが、仕事はしっかりして貰う。とはいえ、向かってくる奴らに後ろから魔術をぶちかますだけの簡単な仕事だ。近づく奴らは俺たちが叩く。浮いたのを狩れ」
ウルガルはサリートにそう言って、次に僕の肩を叩いた。軽く触れられただけなのに殴られたかのようによろめく。
「オディル、てめえはこの魔術士の護衛だ。ファルナ様からの借り物だから大切に扱え。多少しくじっても魔術で治せるくらいなら許してくださる」
「はい」
「……また笑いやがって。まったく何がおもしれえんだか」
苦々しく吐き捨てて、ウルガルは離れていった。
僕とサリートは土壁の後ろに身を隠して敵のいる方角を眺めていた。
すぐ麓の方から音が聞こえた。次第に音は近づき、エイドの兵と旗が視界に入ってくる。人数はこちらと同程度か、もう少し多い。
彼らは攻撃の届かない場所で隊列を作り、攻めかかる時を待っていた。
雨脚は徐々に強まっている。
「来るぞ」
サリートがつぶやく。
盾を前にし、敵がゆっくりと前進する。
いつの間にか空に見えない壁があった。丘全体を包み込み、キラキラと輝いている。それは六角形のガラスをつなげて並べたようにも見えた。
透明な壁が雨を遮る。
いや、雨だけじゃない。
エイド軍から飛んできた魔術もだ。クグズット軍を瞬く間に打ち砕いた幾重もの閃光が白い壁によって弾かれる。薄く頼りなく見えたガラスは途切れることなく攻撃を防ぎ、ひとつも陣地に漏らすことはない。
こうして魔術による攻撃はものの数分で終わりを迎えた。
ただ見惚れた。
それは僕たちを守るために造られた氷の壁だった。
あの日、不可避に思えた全滅がこうも簡単に成し遂げられるとは思ってもみなかった。
「ファルナ様の魔術だな」
興奮したサリートの言葉で我に返る。
「……ひとりでこれを?」
「ああ。とんでもない防御魔術だ。魔力量で強引にやってる節はあるが同じことができる魔術士は多くない」
ザラメルギスが簡単に負けることはなさそうだ。
だが、安堵してばかりもいられない。まだ『予兆』は遠ざかっていない。単に力負けするわけではないということは危険は別にある。
更に敵は前進する。
蹄鉄隊のケンタウルスたちが弓を射かける。その大半は盾によって弾かれ、残りは敵の展開した防御魔術によって威力を失う。
「失敗ですか……」
「いや、これでいいんだ」
「ひとつも当たってませんよ」
「エイドとの戦いはいかに魔術士の多くの魔力を使わせるかにある。多く魔力を使えば、それだけ攻撃できる時間は短くなる。魔術士主体のエイド軍がただの歩兵で攻め落とせるほど防衛隊は弱くない。だから、敵の魔力を守りに使わせる。いずれは魔力は底を尽き、いや、撤退戦のための余裕くらいは残して引いていくはずだ」
「なるほど。なら、この展開はグラニ様の思惑通りというわけですか」
「だが、エイド軍だってそれくらいはわかっている。攻めているのに防戦一方で終わるわけにはいかない。奴らだって丘が必要だからな」
「サリートはまだ攻撃しないんですか?」
「俺の役目はウルガル小隊と同じだからな」
エイド軍は坂に差し掛かる手前で止まる。
散発的に魔術による攻撃は続いているが、最初の一斉攻撃ほどの迫力はない。ファルナの白い防御魔術はなくとも土壁と獣人兵たちの身体能力によって攻撃は防がれている。
サリートの言う通りならまだ何かあるだろうと思って見ていると盾と盾の間から重厚な鎧に身を包んだ兵士たちが現れた。彼らの手には鎧と同じく相当の重量を持つであろう大剣や槌が握られている。土壁を壊すつもりなのだと思った。
重装兵の中でも一際大柄な戦士が雄たけびを上げ、装備に見合わない速さで丘を駆け上がる。おそらく身体強化の魔術だ。他の重装兵たちもそれに続いた。
「迎え撃て!」
ウルガルが叫ぶ。
サリートは土壁の後ろから飛び出し、巨大な火の玉を重装兵の群れに向けて放った。その威力はエイド兵の魔術と比べても劣っていない。だが、重装兵はそれを体で受け止め、速度を落とすことなく突き進む。
獣人たちが坂を登り切って近づいてきた重装兵に飛び掛かっていく。
ウルガル小隊と重装兵たちは完全に混じりあって乱戦へともつれ込んだ。
最初に飛び出した大柄な兵士とウルガルが巨大な武器を叩きつけ合い、獣人たちが素早さで翻弄する。サリートは動き回りながら味方の隙間を縫って魔術を唱え続けた。
「サリート、上!」
僕の声にサリートが前に跳んだ。
彼の頭上が、重装兵の振り下ろした槌に薙ぎ払われた。
その後も僕はサリートの後を走りながら、彼が詠唱に集中するあまり見逃してしまう死角からの攻撃を警告し続けた。
もうどちらが優勢なのかも判断できない。
隙をうかがって攻撃に転じようとするが、そのたびに『予兆』が反応する。
ああ、気持ち悪い。
昨日から感じている『予兆』の反応ももう間もなく。
その『予兆』がこの戦いに由来するものなのは間違いないのに、僕が戦場に介入しようとすればもっと近くに『予兆』感じてしまう。
敵との実力差があり過ぎる。
またクグズット軍として戦ったときのように全滅するかもしれないのに何もできない。数度敵の攻撃を受け流した程度では『予兆』は変わらなかった。
悲観してはいるが、ザラメルギスは劣勢ではない。
サリートの放った炎弾が敵を焼く。
僕たちは重装兵を押し返しつつあった。中でもサリートの活躍は目覚ましく、すでに三人の敵兵を戦闘不能にしていた。
「撤退だ! 下がれ!」
大柄な重装兵が合図をすると、丘の上に集まっていた敵が一斉に戻っていく。見れば、麓のエイド兵たちもすでに退却を始めていた。前線の重装兵よりも先に逃げ出すなんて、味方を見捨てたようなものだ。最初は優れた連携を見せていたのに。
座り込み、汗をぬぐう。
どれくらいの時間を戦ったのだろうか。一分のようにあっという間だったし、一時間のように長かった気もする。体はずっと走り続けたように疲弊していた。
降り注ぐ雨が体の熱を奪っていく。
だが、おかしい。
何故だ。何故勝ったのに『予兆』が消えていない?
「魔術士、魔力は残っているか?」
全身から熱気を漂わせたウルガルが息の上がったサリートに声をかける。
「……三割ってとこだな」
「ならば問題ない。掃討戦だ」
「この雨の中追撃とは人使いが荒いねえ」
「待ってください」
ここだ、と思った。
思った瞬間には立ち上がってウルガルの前に立ちふさがった。
『予兆』は、この戦闘での危険を告げていたのではない。僕たちは勝った。勝っている。だが、もしこのまま追撃すれば、全滅するのではないか。伏兵か、あるいはもっと大がかりな罠か。だから、『予兆』は鳴り続けていたとすれば……。
ウルガルは恐ろしい。恐ろしいがここで言わなかったらまた『予兆』に巻き込まれる。それは僕だけじゃなく、サリートやウルガル小隊の全員が一緒にだ。
それは、それだけは避けなければならない。
『予兆』はもうすぐそこまで来ていた。
「追撃は避けるべきです」
「なんだと?」
ウルガルが低い声で唸った。
「臆したか、小僧! 敵は魔力を使い果たして逃走中。今を逃せばまた魔力を蓄えた魔術士どもと戦わなければならんのだぞ!」
「きっとこれは罠です」
「根拠は?」
「それは……直観です」
「叩ける敵は叩けるうちに叩く。じゃねえといつかそいつらのせいで味方が死ぬ!」
「ですが、状況があまりにも上手く行き過ぎています。敵の撤退にも違和感がありました。敵はきっと麓の森に逃げ込むでしょう。この雨の中で動くのは――」
「うるせえ!」
血の味がした。
ウルガルに殴られたのだと気づいたのは更に数秒後のことだ。
「戦に勝ったのは俺たちが強いからだ」
強烈だったがそれだけだ。領主様はもっと気まぐれで理不尽だった。
そもそもちゃんと説明できない僕が悪いのだ。『予兆』の説明なんかできない。理解してもらえるわけがない。客観的に見れば正しいのはウルガルであって僕が一方的に間違っている。ただ、それでも少しだけ足を止めてくれれば良かった。
もう『予兆』はない。
僕は地面に倒れ伏し、冷たい雨を体に受けていた。
ウルガル小隊は足早に坂を下っていく。サリートもこちらを振り返りながらも後に続く。
彼らの後姿が雨に消えそうになった頃、角笛の音が響いた。
その笛は待機を意味する合図で、つまり、もう小隊が追撃に出ることはできない。
意識を失う直前、戻ってきたウルガルが僕の傍らに立ち、牙をむき出しにして睨んでいるのが見えた。
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